彼といる時間
今まで生きてきた17年の中で、大袈裟ではなく最高に幸福だった今年の誕生日。その夜、葦原は約束通り、僕を初めてのデートに連れて行ってくれた。
学祭が終わった後、待ち合わせてちょっとお洒落なカフェで食事して、2人が好きなアクション物の映画を見て、それからホテルで愛し合った。
でも、食事の味も、映画の内容も、僕は殆ど覚えていない。
嬉しくて、嬉しくて、葦原に名前を呼ばれただけで、僕は何度も泣きそうになった。
それを隠すのに必死だったし、この幸福を噛み締める事だけでいっぱいで、余裕なんか微塵も無かった。
そして、葦原に貰ったリングを、何度も何度も確かめるようにして触り、馬鹿みたいに胸を熱くした。
本当は今でも、こうして抱き合う事が恥ずかしくないと言えば嘘になる。
だって、見つめられただけでドキドキして、僕は思わず目を逸らしてしまいそうになるのだ。
「七綱…」
葦原は、そんな僕を見て笑いながら、そっと僕の顔を上げさせる。
「ごめ…」
謝ろうとすると笑顔のままで首を振った。
「いいよ。七綱のそういうところも、可愛くって好きなんだから…」
「里久…」
嬉しくて、僕はまた泣きそうになる。これ以上好きになったら、どうにかなってしまいそうだった。
いつも、いつも、僕の頭の中は葦原のことでいっぱいだった。
片時も忘れられない。
何をしていても、いつも考えている。
こんな僕の頭の中を見たら、きっと葦原は呆れるだろう。
“一晩中エッチ”と宣言した通り、ホテルに入ってもう何時間にもなるのに葦原の腕は僕を離そうとはしなかった。
恥ずかしさなんて何処かへ行ってしまうほど、葦原は僕を夢中にさせてしまった。
「はぁっ…、あっ…あぁー…」
何度目かの挿入で、僕はまた声を上げた。
もう我慢しないと葦原と約束した所為もあるが、愛されている事を実感した僕の身体は前よりもずっと感じ易くなったようで、唇を噛んだくらいでは迸ってくる喘ぎを止められなくなっていたのだ。
「気持ち…いい?七綱…」
耳元で、葦原の掠れた声が訊ねる。
それだけでまた感じてしまい、僕は何度も頷いた。
「言ってごらん、ちゃんと…」
グリッと奥を突かれ、僕はまた声を上げて反り返った。
「い……い…。きもち…い…。里久ぅ…」
僕が泣きそうな声でそう言った途端、また僕の中で葦原自身が育つのが分かった。
「ぅあんッ…」
ビクッと僕が震えると、葦原の腕が僕の身体を背中から抱きしめた。
「七綱…、七綱…、好きだよ……」
その言葉で、僕は、とうとう泣いてしまった。
「七綱…」
泣き出した僕を、葦原が更に強く抱きしめる。
「キスして…、里久…」
泣きながら身を捩ると、僕は葦原の首にしがみ付いてそう言った。
翌朝、僕の声はすっかり枯れていた。
「ふふ…、いっぱい鳴いてくれたからな、昨夜は。嬉しかったよ」
葦原に言われて、僕は頬に血を上らせた。
昨夜の自分を思い出すと、顔から火が出そうだった。
「俺、今日は午前中からバイトなんだ。七綱を家まで送ってから行くから」
「い、いいよ。1人で帰れるし…」
がさがさした声で僕がそう言うと、葦原は首を振った。
「だーめ。ちゃんと送って行く」
「う…うん」
「七綱…」
「うん?」
「また、デートしような?それと、これからは学校でも普通に話そう?逃げちゃ駄目だからな」
僕なんかと付き合っていると知られたら、葦原に迷惑が掛かると思い、今まで僕は学校で彼と接するのを避けていた。
でも、誰に知られたって構わないと葦原は言ってくれたのだ。
「うん…、ありがと…」
嬉しさと恥ずかしさで、また目を伏せてしまった僕の額に、チュッと葦原のキスが降りてきた。
そっと目を上げると、笑顔とぶつかった。
幸せが込み上げ、思わず葦原にしがみ付き、僕はゆっくりと息を吸い込んだ。
この幸せがずっと続くことを祈らずにはいられない。
恋人というものの存在に慣れていない僕は、どうしても、いつか終わりが来るだろうと考えてしまう。
葦原の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、僕は胸の中の不安を何処かへ押しやろうと懸命になっていた。
ホテルを出ると家まで送ってもらい、葦原はその足でアルバイト先のカフェへ向かった。
看護士をしている母は、昨夜は夜勤で今朝はまだ帰っていない。
リビングのテーブルの上に母のメモを見つけ、僕はすぐに手に取った。
“洗濯、頼む!”
その後に、拝む形の下手くそなイラストが書いてあった。僕は、プッと吹き出して笑うと、メモを置いて洗濯機の所へ向かった。
洗剤の容器を手に取ると中身が殆ど無い。洗濯物の量を見ても足りない事は明らかだった。
探してみたが、買い置きは無いらしい。
僕は仕方なく、買いに出ることにした。
1番近いマーケットまで自転車で行き、駐輪場に停めて中に入ると、すぐに日用品のコーナーへ向かった。
すると、洗濯洗剤の手前のコーナーに知っている顔を見つけた。
「野々宮さん?」
僕の呼びかけに顔を上げると、クラスメートの野々宮小枝さんはすぐに笑顔を見せた。
「あれ、北野も買い物?」
「うん、洗剤が無くなってて…」
「へえ?」
ちょっと不思議そうな顔をした野々宮さんに僕は家庭の事情を説明した。
「ふぅん。じゃあ、北野って主婦してんだ~。あたしと一緒だね。ウチもほら、家族総出で働いてるからさぁ」
笑いながらそう言うと、野々宮さんは僕の手を取った。
「なら、あっちで新しい洗剤が安くなってたよ。行こう」
「あ、ほんと…」
安売りのコーナーに連れて行ってもらい、僕は籠の中に洗剤を入れた。
野々宮さんも残りの買い物を済ませ、僕達は一緒に店を出た。
「ねえ、北野、折角だからお茶しない?」
「あ、うん、いいよ」
野々宮さんはフランクな人で、男でも女でも関係なく友達付き合いをする。根暗で引っ込み思案な僕にも、いつも気軽に声を掛けてくれるのだ。
僕は勿論、女の子の友達なんて彼女が初めてだったが、明るくて気さくな彼女と話をするのが好きだった。
マーケットのすぐ近くにあるセルフサービスのカフェに入り、僕達はそれぞれに注文した飲み物を持って席に着いた。
「北野さぁ…」
カラン、カラン、とアイスラテの中の氷をストローで揺らしながら、野々宮さんは躊躇いがちに言った。
「昨日、何処に消えてたの?……葦原と…」
僕と葦原が学祭の途中で居なくなった事を野々宮さんは知っていた。
顔を上げて僕を見た彼女の目は、何を思ってか戸惑うような色をしていた。
「2時間くらい居なかったよね?2人で……」
「あ…、あの……」
彼女の戸惑いの意味を知り、僕は口篭って視線を外すと下を向いた。
彼女は葦原が校医の諒子先生と秘密で付き合っていたことも、そして別れた事も知っていた。そして、彼女もまた、葦原に好意を寄せる1人だったのだ。
その野々宮さんが、何を不審がっているのか僕には見当が付いていた。
だからこそ、彼女の目を見ることが出来なくなってしまったのだ。
「昨日……、葦原、おかしかったよ。北野のこと、なんだか、“自分のものだ”みたいに扱って、まるで…」
言葉を切り、躊躇った後、野々宮さんは低い声で呟くように言った。
「恋人に対するみたいだった…」
僕は何も言えなかった。
一体、どう答えていいのか分からない。
本当のことを言ったら、余計に彼女を傷つけるのでは無いかと思った。
「ねえ、北野…」
野々宮さんの手が、テーブルの上に載っていた僕の手に触れた。
「本当のこと言って?あたし、何を聞いても驚かないし、誰にも言ったりしないよ」
緊張した僕がコクッと咽を鳴らすと、野々宮さんは僕の手を離して、またストローでグラスの中の氷を揺らした。
「そりゃ、あたしに話す義務なんか無いけどさ…。でも、ちゃんと知っておきたい。そうじゃ無いと、あたし……」
その先に続く言葉がとても悲しい気がして僕は胸を突かれた。
彼女には本当のことを言わなければいけない。
彼女もまた、真剣に葦原を好きなのだ。だから、知る権利があると思った。
「ごめん…、騙すつもりじゃなかったんだけど…」
僕の言葉に彼女は顔を上げた。泣きそうなその目を見て、僕もまた泣きたくなってしまった。
彼女を傷付けてしまった事が悲しくて堪らなかった。
「僕なんか…、こんな風だし、魅力なんかないし、それに…男だし…。だけど葦原は、それでもいいって言ってくれて……。ごめん、ほんとに…」
それ以上、何を言っていいのか分からなくなり僕が口篭ると、野々宮さんの手がまた僕の手に触れ、そして、ポンと励ますように叩いた。
「まったく、なんでそうなの?北野は…」
僕が顔を上げると、野々宮さんは笑っていた。
「あんたは、もっと自信を持たなきゃ駄目だよ。魅力が無いなんて、そんなこと無い。だったら、葦原があんたを選ぶわけ無いよ。ね?」
「野々宮さん……」
「それに、あたしに謝る必要なんか無いよ。北野は何にも悪いことした訳じゃ無いんだし…」
尻すぼみに小さくなった野々宮さんの声は、最後は少し震えていた。
さっきの笑顔が、彼女の精一杯の虚勢だったのだと分かると、僕はまた泣きたくなってしまった。
「指輪……」
ポツッと言った野々宮さんの言葉に僕が顔を上げると、彼女はじっと僕の左手の薬指を見ていた。
「葦原から…?」
「あ……」
僕は慌てて、右手でそれを隠すように包み込んだ。
「き、昨日、僕の誕生日で…、それで…」
「そっか……」
全てを諦めたように笑い、野々宮さんは言った。
「大事にされてんだね、北野。……良かった」
「あ……」
“ありがとう”と言おうとして、僕は結局口を噤んだ。
礼を言う事で、彼女が馬鹿にされたように感じるのではないかと思ったのだ。
「これ、結構高いブランドのだよ。…あ、そっか、葦原のバイトってこの為だったのか…」
「うん……」
「安心して、北野。あたし、本当に誰にも言ったりしないよ。それに……」
僕の目を見て野々宮さんはニッコリと笑った。
「これからも、友達だからね?」
「あ、ありがとう……」
今度こそ心から礼を言い、僕は涙の零れかけた瞳を隠す為に急いで下を向いた。
野々宮さんと別れて、僕は家に帰るまでの間に何度も溜息をついた。
野々宮さんはボーイッシュだけど、可愛いし魅力的な女の子だ。
どう考えたって、誰が考えたって、僕なんかよりずっと葦原に相応しい。
僕のことを憎んだって仕方ないのに、彼女は反対に僕を励ましてくれた。僕に対して気を遣ってくれたのだ。
それを彼女にさせてしまったことが、どうしようもない事とは分かっていても、僕には悔やまれて仕方なかった。
また、溜息をつきながら家の門を開けて郵便受けを覗くと白い封筒が1通入っていた。
見ると、それは僕宛だった。
差出人は書かれてなくて切手も張ってない。僕は首を傾げながら封を切って中身を取り出した。
「……・っ」
その写真を見た途端、僕は息を止めた。
それは昨夜、僕と葦原がホテルに入って行くところを撮ったものだった。
「な……」
思わずキョロキョロと周りを見回し、僕は居る筈のない誰かの姿を探した。
一体、誰がこんな写真を撮って、そしてここへ投げ込んで行ったのだろう。
誰かが何処からか様子を伺っているような気がして、僕は急に怖くなった。
急いで玄関の鍵を開けると、逃げるようにして家の中へ入った。
そして、内側から鍵を掛けて上がり框に腰を下ろすと、もう1度写真を見た。
街灯に浮かび上がった僕の顔がはっきりと写っている。葦原の方も、彼を知っている人が見れば分かる程度には鮮明だった。
一体誰だろう。
やはり、これは嫌がらせなのだろうか。だとしたら、どういう嫌がらせなのだろう。
僕は怖くなって自分の肩を抱くようにして蹲った。
その時、ポケットの中で携帯の着メロが鳴り出した。
ビクッとして、僕は慌ててポケットの中を探ると、携帯を取り出した。
来たのはメールで、見ると相手は知らないアドレスだった。
僕は恐る恐る受信ボックスを開いてみた。
「写真、見てくれた?」
ゾッと、背筋が震え、冷たい汗が僕の背中を伝い落ちた。
そして同時に、僕は思った。
(やっぱり…)
その文を読んで僕は目を閉じた。
相手が誰なのか、予測は付いていた。思った通りそれは、写真の送り主からのメールだったのだ。
「いい写真が撮れたからプレゼント。他にももっといいのがあるけど、興味あるかな?あるなら、明日、学校に来なよ。11時半に屋上で待ってるから」
(もっといいの……?)
他にも写真があるのだろうか。
明日は学祭の代休で学校は休みだった。でも、運動部は活動するところもあるので学校は閉まっている訳ではない。
学校を指定してきたと言う事は、相手も同じ学校の生徒だろうか。
僕はどうしていいのか分からずに、写真とメールの文を交互に見た。
(葦原に…)
相談しようかとも思ったが、躊躇いが先に立った。
折角僕の為に色々と気を遣ってくれたのに、それがこんな厄介な事になってしまったのかと思うと、申し訳なくて仕方なかった。
自分ひとりで会って、この相手の目的が何なのか確かめてからでも遅くは無い。
その上で、自分ひとりで解決出来ないようなら、改めて葦原に相談しようと思った。
兎に角、この写真の送り主の目的が知りたい。
僕を呼び出して何を要求するつもりなのだろう。金なんか脅されても、僕にはどうしようもない。
僕は恐怖で震える肩を、もう1度両手で抱きしめた。
翌日、僕は約束の時間に学校へ行った。
屋上まで上って鉄製の重いドアを開けると、恐る恐る顔を覗かせて人影を探した。
メールの送り主はもう来ていた。
ドアから1番遠い鉄柵に身体を預けるようにしてグラウンドを見下ろしている。背中だけしか見えないが、背が高いという事は良く分かった。
身体を中に入れてドアを閉めると、僕はゆっくりとその背中に向かって近付いて行った。
すると、ドアの開閉音で気が付いていたのだろう。1メートルほど手前まで近付くと相手は振り返った。
その顔を見て僕は驚いた。
それは、3年の保科さんだった。
保科昂生。
バスケット部のエースで女の子にも凄く人気がある。だから、学年の違う僕でも名前と顔ぐらいは知っている有名人だった。
「来たね?」
まるで悪びれもせずに、保科先輩は笑顔を見せて言った。
「まあ、絶対に来るとは思ってたけどね」
「あ、…あの…、先輩があの写真を……?」
信じられなくて、僕は先ずそう訊いた。すると、先輩はあっさりと頷いた。
「そう。良く撮れてたろ?」
「な……、なんで、あんな…」
すると、保科先輩は呆れたように笑った。
「あんなものを送りつけられりゃ、大抵想像はつくだろ?バラされたくなかったら、俺の言う事をきけってことだよ」
「い、言う事って、何ですか?」
恐る恐る僕が切り出すと、先輩は僕の方に数歩近付いて来て、腰を屈めるようにして視線を合わせた。
「葦原と別れてさ、俺と付き合いなよ」
「な………?」
思いもしなかった要求に、僕は言葉を失って先輩を凝視した。
どんな脅しを受けるのかとビクビクしてここへ来た僕だったが、まさか相手の要求が僕自身だなんて微塵も考えていなかったのだ。
「昨日の女装、可愛かったよなぁ…。すげえ、気に入っちゃった、俺」
「か、からかわないで下さい」
ニヤニヤと笑って言ったその言葉を冗談と受け取って僕は言った。
だが、先輩はすぐに真面目な顔になって言った。
「本気だよ。葦原と別れて、俺と付き合えよ」
今度は有無を言わせぬ口調だった。
僕は怖くなって、思わず一歩後ろに下がった。
「そ、そんな…、そんな事出来ません」
僕が激しく首を振ると、先輩は片手でグッと僕の肩を掴んだ。
「バラされてもいいのか?あの写真、焼き増しして学校中にバラ撒くよ?」
「い……、いや…」
また首を振ると、先輩はフッと笑ってポケットに手を入れた。
「もっといいものがあるって、言ったよな?俺」
怯えた僕の目を見ながら先輩はポケットから写真を取り出して見せた。
「あっ…」
息を呑んだ僕を見て、先輩は声を上げずに笑った。
それは、葦原と諒子先生が寄り添うようにして諒子先生のマンションへ入って行く写真だった。
「あっちの写真よりもヤバいだろ?これの方が」
写真を振りながら先輩は笑った。
「これがバラ撒かれたらさ、葦原も諒子先生も学校にはいられないよなぁ?」
勿論そうだろう。
葦原は退学、諒子先生も教員を辞めなければならなくなるに違いない。
幾ら、今は別れてしまったとは言え、付き合っていたのは事実なのだ。これは、その決定的な証拠になるだろう。
「お、お願いです……」
写真に手を伸ばしながら僕が言うと、先輩は嘲笑うように腕を伸ばし、チビの僕が届かない所まで写真を掲げた。
「おっと、駄目、駄目…」
「先輩、お願い。こんなこと……」
写真を掲げた腕に縋った僕を、先輩は空いた方の腕に抱え込んだ。
「なら、言う事ききなよ。葦原と別れろって」
「や……」
僕が首を振ると、先輩の目が険しくなった。
「なら、この写真とおまえと葦原の写真、両方バラ撒く。本気だからな」
僕は諦めて写真を取ろうとしていた手を下ろした。
「なんで、こんな……?僕なんかと本当に付き合いたいんですか?先輩なら他に幾らだって…」
僕には信じられなかった。
冴えない取り柄も無いような、しかも男の僕なんかと付き合わなくたって、保科先輩なら彼女なんか幾らでも出来る筈だ。
こんな脅迫めいた事までする価値が僕なんかにあるとは到底思えなかった。
「おまえじゃなきゃ意味が無いんだよ」
「え……?」
その言葉を聞いて、何かが分かりかけたような気がした。
でも、すぐに先輩に抱き寄せられて僕の思考はそこで止まってしまった。
「言ったろ?昨日のコンテスト見て、すげえ気に入ったの。だから、付き合おうぜ、な?」
僕が出場して優勝した“ミスターレディ”コンテスト。
確かに僕の女装は評判になって、皆から綺麗だとか可愛かったとか言ってもらった。得票数も、ダントツで僕が1番多かった。
だけど、所詮僕の女装なんか作り物で、ヘアメイクをしてくれた野々宮さんの力が大きいのだ。
本当にあれを見て、保科先輩ほどの人が僕を好きになったなんて思えない。
絶対に、何か他に理由があるように僕には感じられた。
だけど、理由はどうあれ、僕が付き合うことを承知しない限り、葦原が窮地に立たされる事は確かなのだ。
大好きな葦原を苦しめる事になるのだけは絶対に嫌だった。
僕が葦原を守れるのなら、例えどんなに辛いことでも耐えられる筈だと思った。
「分かりました……。先輩の言う通りにします」
泣きそうになりながら僕が答えると、保科先輩は嬉しそうに笑った。
「そうこなくちゃ」
言いながら先輩の両腕が僕の腰を引き寄せた。
「明日から、葦原に誘われても付き合っちゃ駄目だぜ。俺の方を優先する事、いい?」
「はい……」
「放課後は部活があるから一緒に帰れないけど、葦原と一緒に帰ったりしちゃ駄目だ。逆らったら、すぐに写真をバラ撒く。分かった?」
「はい……」
我慢出来なくて、瞳から溢れた涙が頬を伝った。
それを、先輩の指が拭い去った。
「泣くなよ。大事にするから……、な?」
言いながら屈んで、先輩は僕の顔に顔を近づけて来た。
気づいて背けようとした僕の顔を、先輩の手が阻む。僕の唇はすぐにキスで塞がれてしまった。
(いや……、嫌だ……っ)
心の中でそう叫んだが、逆らう事は出来なかった。
逆らうことで葦原が苦しむかも知れないという恐怖心が先に立ってしまったからだ。
葦原以外の人とのキス。
初めてで、そして苦いキスだった。
昨日までのあの幸福感は、もう僕の中の何処にも存在しない。
その代わりに生まれたのは、もう葦原の傍には居られないのだという深い絶望だった。