彼といる時間


-4-

「何があったの?北野…。良かったら、話してみなよ、ね?」
話したからといって解決できる訳ではないと分かっていたが、それでも野々宮さんにすべてを打ち明けたら、少しは胸の中の苦しみが癒されるような気がして、僕は彼女の顔を見た。
「写真…、撮られて…」
「写真?」
僕は頷くと、話を続けた。
「里久とホテルに入っていく写真」
「北野…」
肩に乗っていた野々宮さんの手にギュッと力が入った。
「まさか、その写真を盾に誰かに強請られてるの?」
僕は首を振った。
「強請られてる訳じゃ無い。ただ、里久と別れて自分と付き合えって…」
ハァーッと、野々宮さんの口から大きな溜息が漏れた。
「それを、強請られてるって言うんだよ。立派な脅迫じゃ無いの」
腹立たしげにそう言うと、野々宮さんは僕の肩を揺すった。
「一体誰よ?そんな卑怯な事する奴」
僕はまた首を振った。
「言えない……」
すると、野々宮さんは僕の肩から手を離して座り直した。
「でもさ、そんな写真、無視しちゃえば?ラブホに入ったからって悪いことした証拠になる訳じゃ無いし。案外、男女より誤魔化しやすいかもよ」
「それだけじゃないんだ…、写真…」
「まだ、あるの?」
「うん…。問題は、寧ろこっちの方で…」
口篭った僕に、野々宮さんは先を促した。
「どんな写真?」
「里久と、諒子先生の…」
「え…?嘘…」
僕は力なく首を振ると野々宮さんを見た。
「嘘じゃ無い。2人の顔もちゃんと写ってて、先生が里久の腕に腕を回して、先生のマンションへ入って行くところを撮られてるんだ」
それを聞くと、野々宮さんは少しの間、考えるような表情を浮かべた。
「その写真を盾に北野を脅迫した相手って、男?」
「…うん」
躊躇いがちに僕が答えると、野々宮さんの眉がグッと寄せられた。
「まさか…、保科先輩?バスケ部の…」
「どうして……?」
驚いて目を見開いた僕に、野々宮さんは納得するように頷いて見せた。
「そっか…、なるほど…」
僕は思わず野々宮さんの腕を掴んだ。
「どうして?どうして分かったの?」
「うん、実はさ…。諒子先生の相手って保科先輩じゃないかって噂になったことがあったんだ。それは、あたしが葦原と諒子先生のツーショットを見る少し前でね。もしかしたら、本当に諒子先生、保科先輩と付き合ってたのかも知れない…。でも、葦原が現れて……」
「じゃあ、諒子先生が保科先輩から里久に乗り換えたって言うの……?そんな……」
僕が驚いて首を振ると、野々宮さんも少し自信なさげに頷いた。
「うん、まあ、これはただの噂から想像した事なんだけどさ…。でも、有り得なくは無いと思うよ」
確かに、そう考えれば辻褄は合う。
保科先輩が葦原と僕を別れさせるのが目的でこんなことを始めたのは間違いないだろう。
もとより、先輩が僕と本気で付き合う気があるなどと思ってはいない。
でも、僕に近付いて来たことが、葦原に対する嫌がらせなのだとしても、その理由が分からなかった。
それは、葦原と先輩の間に接点が見つからなかったからだ。
でも、そこに諒子先生という存在があったのだとしたら……。
「そんな……。じゃあ、先輩は諒子先生の事で里久を怨んでいるって言うの?」
「確信は無いけどねえ…。でも、写真を撮ったって事は葦原のことを付け回してたってことでしょう?そこまでするからには、相当深い怨みだと思うんだよねえ」
眉間に深い皺を寄せた野々宮さんの表情を見て、僕の不安は更に増した。
そうだとしたら、幾ら僕が頼んでも先輩は許してはくれないかも知れない。
僕は、さっきの葦原の怒りに満ちた目を思い出した。
これ以上怒らせたら、本当に僕は棄てられてしまうかも知れない。
「北野、兎に角、葦原にちゃんと話した方がいいよ。1人で悩んでたって解決出来ないよ」
だが、僕は首を振った。
「駄目だよ。そんなこと出来ない」
「どうして?だって、元々は葦原の…」
「駄目ッ…」
僕が遮ると、野々宮さんは驚いて目を見開いた。
「駄目…。言ったら里久が傷付くよ…。それに…先輩が怒って写真をバラ撒くかも知れない」
「だけど、北野…」
僕は顔を上げると野々宮さんの目を見つめた。
「お願いだから、里久には言わないで。あの写真が元で、里久も諒子先生も学校を辞めることになったりしたら嫌だ。だから……」
「北野…。じゃあ、どうするの?ホントに葦原と別れて保科先輩と付き合うの?」
僕は首を振った。
「そんなの出来ない…。好きでもない人と、付き合える筈なんか無いよ…」
「じゃあ…」
「もう一度、保科先輩に頼んでみる。もう、こんなこと止めてくれるように…。里久のこと、許してくれるように……」
「北野……」
そうだ、それしかない。 僕に出来る事はそれ以外に何も無かった。



僕は次の日、学校を休んだ。
家に帰ると、熱が出てしまったからだが、葦原の顔を見るのが辛かったから、都合が良かった。
とうとう、葦原は電話もメールもくれなかった。
その代わり、心配した野々宮さんからと、そして、保科先輩からのメールが届いた。
「熱が出たんだって?風邪か?大丈夫?明日の試合、見に来れるか?」
明日は土曜日で、見に行くと約束していた練習試合がある日だった。
僕は”必ず行きます”と、メールを返した。
明日、先輩に会ってもう1度頼んでみようと決めていた。
こんな状態がいつまでも続くなんて耐えられない。
葦原に1日会えないだけで、僕は不安で堪らなくなってしまうのだ。
もうあんな、怒りに満ちた彼の顔を見るのは嫌だ。
彼に不快な思いをさせるのは嫌だ。
僕と一緒に居る時はいつでもいい気分で居て欲しい。僕がそうさせてやりたい。
そういう存在になりたかった。
「里久……」
指輪の嵌った薬指をもう一方の手で胸に押し付けると、僕はゆっくりと目を閉じた。



翌朝、僕は9時少し前にS高校の体育館に着いた。
練習試合だというのに、ギャラリー席には結構沢山の人が居た。
半数以上が女の子で、僕の学校の女生徒もかなり混じっていた。
僕は、なるべく人の居ない場所を見つけて持って来た鞄の上に座り込んだ。
試合が始まると、その声援の多さから、すぐに女生徒達の目当てが保科先輩だと分かった。
(カッコいい……)
僕にも先輩の人気の理由が良く分かった。
先輩は見た目がいいだけじゃなく、そのプレイにも目を見張るものがあったからだ。
チームで1・2を争う長身なのにも拘らず、動きが機敏で無駄が無い。小回りの利くフットワークで面白いように相手のボールを奪ってしまう。
そして、惚れ惚れするようなフォームで何度もゴールを決めた。
これでモテない筈が無かった。
(それなのに……)
何であんな卑劣な真似までして、僕なんかに手を出そうとするのだろうか。
先輩に必死で声援を送る女生徒達を見ながら、僕はまた憂鬱な気持ちになった。
(あんなに沢山の可愛い子たちに好かれてるのに…)
やはり、葦原に対する怨みなのだろうか。
僕はボールを追って動き回る先輩の姿から目を離さずに追い続けた。
酷い事をされているとは思う。
例え、野々宮さんが言ったことが本当だとしても、それは逆恨みでしかないと思う。
でも、先輩自身がそんなに酷い人間だとは、僕にはどうしても思えなかった。
僕を抱きしめる時、キスする時、確かに強引ではあるけど、それでも優しくない訳じゃ無い。僕の涙を拭ってくれた手もとても優しく感じられた。
だから僕には、もっと他に理由があるような気がしてならないのだ。
試合は10ゴール以上の差をつけて先輩たちが勝った。
お互いに挨拶を終え、S校の選手達が部室に引き上げると、先輩達は体育館の隅でユニフォームを着替え始めた。
すると、僕の携帯にメールが届いた。
「女子を撒いて、裏門から出るから。そっちで待ってて」
見下ろすと、先輩がチラリと僕を見上げた。
僕は頷いて見せると立ち上がって、ギャラリー席から降りる為に階段へ向かった。
裏門の外で暫く待つと、保科先輩が走って僕の方へやって来た。
「悪い…」
「いえ…。大丈夫なんですか?」
「ああ、女子?大丈夫、大丈夫。他の部員が全員表から出たからさ、そっちで待ってるんじゃねえ?」
そこで先輩は少し笑った。
「大体、俺が消えるのなんかいつものことだし、みんな慣れてるよ」
ところが、先輩を探していたのだろう。体育館の方から数人の女の子がこちらに向かって来るのが見えた。
「あ、やべ……」
それを目敏く見つけ、先輩は僕の手を取ると、グイッと引っ張ると同時に駆け出した。
だが、先輩と僕とでは足の長さも速さも違い過ぎる。
僕はすぐに息切れして、そして足が縺れてしまった。
「あっ……」
焦った時には、もう既に遅く、僕は地面に膝を打ちつけて転んでいた。
「七綱……っ」
すぐに先輩がしゃがみ込んで僕の身体を助け起こした。
「大丈夫か?怪我した?」
「膝……」
硬いジーンズの生地でも多分守り切れなかったのだろう。膝からは血が滲み出していた。
「ああ…、ごめん…」
そう言うなり先輩はすぐに僕に背中を向けた。
「負ぶされよ」
「えっ…?」
驚く僕を振り返り、先輩は急かすような仕草をした。
「早く。逃げねえとヤバい…」
裏門の辺りで、キョロキョロと辺りを見回している女子達が見える。
僕は躊躇う気持ちのまま、それでも先輩の背中に掴まった。
「ちゃんと掴まってろ」
言うなり僕を軽々と背負い、先輩は立ち上がるなり駆け出した。
まるで、僕の体重など感じていないかのようなスピードに、僕は先輩の背中にしがみ付きながら驚いていた。
忽ち裏門から遠ざかって、先輩は近くにあった公園に入ると僕を背中から下ろしてベンチに座らせた。
「ここまで来れば大丈夫だろ…。膝、見してみ?」
「い、いいです。大丈夫です」
「いいから、ほら…」
ジーンズを捲り上げ、先輩は僕の膝の傷を確かめた。
「ああ…、ひでえ擦り傷と打ち身…」
そう言うと僕を済まなそうに見上げた。
「ごめんな?俺が無理に引っ張ったから…」
「い…、いえ…。僕がトロいんです。ごめんなさい…」
頭を下げると、先輩は一瞬驚いたような顔をした。
だが、何故かその後、困惑気味の笑みを浮かべた。
「ちょっと待ってな」
そう言うなり、担いでいたバッグからタオルを取り出すと水飲み場の方へ向かった。そして、タオルを絞って戻って来ると、僕の膝から丁寧に血を拭い始めた。
「駄目です。血…、落ちなくなっちゃうから…」
「いいって。そんなの、気にすんなよ」
そう言って笑った顔は、やっぱり優しいと僕は思った。
(それなのに、どうしてこの人が…?)
僕の胸には、またさっきの疑問が湧いてきた。
「ありがとうございます」
僕が礼を言うと、また少し笑って頷いた。
「腹減ってるだろ?なんか、食いに行こうよ」
僕の傷に絆創膏を貼り、先輩はそう言って立ち上がった。
「先輩、……あの…」
僕も立ち上がって、その背中に呼び掛けた。
「うん?」
振り返った先輩に、僕は躊躇いがちに切り出した。
「先輩が、諒子先生と付き合ってたって本当ですか?」
一瞬、怪訝そうな顔をした後、何かに気付いたのか保科先輩はプッと吹き出した。
「あっはは…。なるほどねえ…」
「先輩…。お願いですから、本当のことを言って下さい」
僕が袖を掴むと、先輩は笑いを引っ込めたが、でも口元にはまだ笑みが残っていた。
「俺が葦原に諒子先生を取られた腹いせに、こんなことしてると思ったんだ?でも、残念だけど、あの噂はまったくの嘘っぱちだよ。俺が諒子先生と付き合うわけない。有り得ないね…」
そこまで言うと、また先輩はククッと笑った。
「まあ、葦原の事は、ちょっとは気に入らないけどな。俺よりモテるし?」
その言い方で、言葉とは裏腹に、先輩が葦原に対して何の感情も抱いていない事が僕には分かった。
それでは何故、僕と葦原を引き裂こうとするのだろうか。
「俺はさ、純粋に七綱と付き合いたいの。他に理由なんか無いって、何度も言っただろ?」
両手で肩を掴まれ、僕は弱々しく首を振った。
そんな事は有り得ない。
勿論、その言葉が真実じゃ無いと僕には分かっていた。
「ほら、なんか食いに行こう?勿論、奢るからさ。な?」
宥めるように言い、先輩は僕の手を取って引いた。



近くのファミレスに入り、僕達は昼食をとった。
その間、先輩は僕について色々と訊いてきた。
「そっか、本はファンタジー物が好きだけど、映画はアクション物が好きなんだな?ゲームは?」
「ゲームは…RPGが好きです」
「あ、俺も。今、何やってる?」
こうやって話していると、本当に普通の友達同士のように感じた。
こんな付き合いだけなら、多分、先輩はとても付き合い易い人だろうと思う。
さっきだって、本気で僕の怪我を心配して手当てしてくれたし、あれが本来の先輩の姿なのだと思う。
その先輩を卑劣な行為に駆り立てた理由を、僕はどうしても知りたかった。
そうでなければ、僕と葦原が再び、前のような関係に戻ることは出来ないに違いないからだ。
ファミレスで2時間ほどを過ごし、先輩は僕を家まで送ってくれた。
玄関の前で、今日も部屋へ上げろと言われるのかと僕は少し警戒して先輩を見上げた。
すると、先輩は何故か寂しげな笑みを見せた。
「警戒してるんだ?」
言い当てられて、僕は慌てて顔を伏せた。
すると、身体を屈めて、下から覗き込むようにして先輩は僕の顔を見た。
「俺のこと、嫌い?」
僕が目を上げると、じっと見つめる視線とぶつかった。
その目が真剣なのに気付いて、僕はたじろいだ。
首を振ると、先輩の口元にホッとしたような笑みが浮かんだ。
そして、彼の両手が僕の頬を包んだ。
すぐにその意味を知って、僕は抵抗しようと腕を上げた。
でも、僕が腕を突っ張る前に先輩の唇が僕の唇を塞いだ。
(いや……)
嫌いではない。
でも、僕がこんなことをしたい相手は葦原以外には居ないのだ。
グッと腕に力を込めて先輩の胸を押すと、彼の両腕が僕の身体を抱き竦めた。
そうなるともう、僕の力では押し退ける事は出来なかった。
ガシャン……。
鉄の門扉の鳴る音がして、先輩はハッとして僕の身体を離した。
顔を上げると、門の前に誰かが立っていた。
「里……」
そのまま、息が止まりそうになった。
蒼ざめた顔で、信じられないものを見るように、葦原が僕を見ていた。

ウソ……、ウソ……、ウソ……

混乱して、思考が止まる。
葦原の顔から目を離せず、僕は石になったように指1本動かせなくなってしまった。
「あーあ、とうとうバレちまったな…?」
沈黙を破るようにして、先輩が言った。
途端に、ギッと憎悪の篭った目で葦原は彼を見た。
そして、すぐに踵を返すと、足早に去って行った。
「や………」
その姿が見えなくなると、やっと、僕の口から声が出た。
そして、次の瞬間、僕は崩れるようにその場に座り込んだ。
何度も、何度も、首を振る。
やがて、嗚咽と共に涙が溢れて頬を伝い落ちた。
「いやっ……」
「七綱……」
両手で顔を覆った僕を、保科先輩が抱きしめた。
僕は泣きじゃくりながら手を退けて、流れ落ちる涙も拭わずに先輩の顔を見上げた。
「お願いッ…、もう許して…。許してよぉっ…」
「七綱…」
「こんなの、もう嫌だ…。お願いだからッ…、お願いです…」
一瞬、酷く辛そうな顔をすると、先輩は黙って僕を胸に抱きしめた。
「お…ねが…い…」
その後は言葉にならなかった。
泣き続ける僕の背中を、先輩の手が何度も何度も宥めるように撫で続けた。



一晩中、一睡も出来ず、僕は携帯でメールを打っては、送信出来ずに何度も消した。
どう、言い訳しても、もう葦原は許してくれないような気がする。
必死で言葉を探して打っては見るものの、送信する勇気はどうしても出てこなかった。
やがて、その画面も涙でぼやけ、僕は諦めて携帯電話を手放した。
先輩は、僕の涙が枯れるまで僕の身体を抱きしめていた。
そして、僕が泣き止むと、何かを思うような表情で僕を見、でも何も言わないまま黙って帰って行った。
翌朝、泣き過ぎと寝不足でガンガンと鳴る頭を枕に押し付けたまま、僕は葦原に貰った薬指の指輪をぼんやりと眺めていた。
これを貰った時のあの幸せは、一体何処へ行ったのだろうか。
すると、枕元に置いてあった携帯電話が鳴り出した。
ハッとして起き上がり僕は急いでそれを開いた。
だが、画面に浮かんでいたのは、期待していた葦原の名前ではなかった。
「北野?今すぐに、こっちに来られる?」
挨拶もしないで、野々宮さんは焦った口調でそう言った。
「どうしたの?こっちって……?」
僕が驚いて聞き返すと、野々宮さんは、また早口で答えた。
「今、保科先輩が諒子先生のマンションに入って行くのを見たの。私、犬の散歩の途中なんだけど、近くの公園で見張ってるから、すぐに来てよ。現場を押さえれば、先輩も白状するかも知れないよっ」
野々宮さんの家は、諒子先生のマンションに近い。だから、以前2人のことを見掛けて、葦原と諒子先生の秘密の付き合いを知る事となったのだ。
「すぐに、おいでよ。急げば先輩が帰る前に間に合うかも知れない」
「分かった」
僕は急いでジャケットを羽織ると、部屋を出た。
先輩は昨日、諒子先生との付き合いをはっきりと否定した。
それは嘘じゃないと僕は思ったが、そうではなかったのだろうか。
それに、もう別れたのだとしたら、何故今頃になって先生の所へ行くのだろう。
すべての疑問は、先輩に訊かなければ分からない。
玄関を出て自転車に跨ると、僕は野々宮さんの家を目指して勢い良く漕ぎ出した。