彼といる時間


-3-

翌日、始業ギリギリに登校した僕は葦原の視線を避けて席に着いた。
本当は休んでしまおうかと思った。 でも、昨夜の保科先輩の言葉がどうしても気になって来てしまったのだ。
一体、何をするつもりなのか、幾ら訊いても教えてはくれなかった。
本当にこのまま、僕は葦原と別れさせられてしまうのかも知れない。
そんなことを考えている時、後ろの席の 生徒がひそひそと話をするのが聞こえてきた。
「知ってるか?」
「なにを…?」
「諒子先生さ、見合いして結納までいったのに、ドタキャンして相手を振っちまったんだって」
「へえ~?なんで?相手ってT大出のエリートだったんだろ?」
「なんでもさ、元彼のことがどうしても忘れらんないって事だったらしいよ」
「なん?じゃあ、彼氏が居たのに見合いしたの?」
「だってさ。諒子先生の彼氏って、ここの生徒だって噂だったじゃん。高校生じゃ結婚できねえだろ?」
「じゃあ、なに?その元彼とよりが戻ったとか?」
「そうなのかもな。でも、一体誰なんだろうな、その生徒…」
教壇の先生にじろりと睨まれ、後ろの話し声は止んだ。
僕は机の上で両手をギュッと握り締めたまま、今の話を聞いていた。
諒子先生が彼氏とよりを戻していないことは僕が1番良く知っている。
だけど、今の噂が本当なら、諒子先生はまだ葦原に未練を持っているという事になる。 それは、僕にとって、この上なく不安な材料だった。
元々、葦原も諒子先生の事が嫌いになって別れた訳じゃ無い。
自分と付き合っていながら見合いをした先生に腹を立てたから別れたに過ぎない。
だったら、また元の鞘に納まらないとも限らないだろう。
保科先輩が何かを仕掛けて葦原が僕と別れる気になったら、噂が本当になって諒子先生とよりを戻すかも知れない。
そうなったら、もう2度と僕の方になど振り向いてくれないに違いなかった。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
ほんの数日前にはあんなにも幸福だったのに、今、僕の幸せは足元から崩れ去ろうとしていた。
こんなにも好きなのに、僕にはもう、こうして彼の背中を見る事ぐらいしか出来なくなるのかも知れない。
そう思ったら、授業中だということも忘れて泣き出しそうになった。



休み時間になっても葦原は、僕に一瞥さえくれることも無く、いつものように友人達に囲まれて談笑していた。
昼休み、僕は早々と逃げるように教室を出て裏庭へ向かった。
まさか、保科先輩も今日は現れないだろう。 今日はもう、昼食を持ってくることもしなかった。
どうせ食欲も無いし、混雑する購買へ行く気力も無い。
僕は木の根元に腰を下ろして、ぼんやりと時間が過ぎて行くのを待った。
ここに、あの古い温室があった頃、僕は憧れ続けていた葦原と偶然出会い、思い掛けなく話をする機会を得た。
そして、益々好きになって、葦原と会えるかも知れないという期待だけで毎日温室に通うようになった。
そして、あの日……。
姿を現さない葦原を待ち草臥れて帰ろうとした時、偶然目撃したのだ。
保健室の窓のカーテンの隙間から、諒子先生の奉仕を受けている葦原の姿を見てしまった。
あの時のことを、僕はまた急に思い出していた。
あの次の日、葦原は温室で泣いていた僕を抱いた。
前の日まで諒子先生と会って、あんな濃密な関係を持っていたのだ。あの時点で、葦原が諒子先生と別れるつもりだったとは思えない。
もしも、葦原があの時僕を抱かなかったら、僕に対する責任を感じることも無かった。
そしたら、僕と付き合おうなんて思っただろうか。
諒子先生とも、別れたりしなかったかも知れない。
(僕があんな所で泣いてたから……。よっぽど、惨めに見えたんだろうな…、きっと… )
だから、可哀想になったんだ。
可哀相だから抱きしめてくれたんだ。
葦原の気持ちを信じると誓ったのに、諒子先生の話を聞いてしまった僕の中で、もうその誓いが揺らぎ始めていた。
もし、諒子先生が葦原とよりを戻したいと言ってきたら、僕は先生に勝てる自信が無かった。
葦原が間違いなく僕を選んでくれるなんて思えなかった。
あんなに何度も好きだと言ってくれたのに、一生懸命アルパイトをして指輪まで送ってくれたのに、そんな葦原の気持ちを信じ切れない自分が嫌で堪らなかった。
でも、どうしても自信が持てない。葦原が自分のものだと言う確信が持てなかった。
不安ばかりが募ってきて、今にも押し潰されそうになる。
確かに愛されているのだと信じた筈の気持ちがぐらぐらと揺れてしまう。
膝を抱えてギュッと抱きしめた時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
顔を上げてのろのろと立ち上がると、僕は校舎の方へ向かった。
昇降口で靴を履き替え、教室へ向かおうとすると、廊下の真ん中に葦原が立っていた。
「里久……」
強張ったような顔つきで僕をじっと見ると、葦原はつかつかと僕に近寄って来て腕を掴んだ。
「来いよ」
「ど、何処へ…?授業が始まる…」
「いいから…」
半ば強引に僕を連れて、葦原は近くにあったトイレに入った。
そして、個室に僕を連れ込むとすぐに鍵を掛けた。
「昨夜、電話に出たの、誰だ?」
葦原が腹を立てているのは目を見た時点ですぐに分かった 。いや、彼を見なくても、それは予想出来ていた事だった。
「だから…、友達…」
「どんな友達?」
「どんなって、…中学の時の……」
僕は昨夜の答えを繰り返した。
葦原は俯いたままの僕の顎に手を掛けると、乱暴にグッと上を向かせた。
「どうしてあの後、携帯の電源を切った?俺から電話が掛かってきたら拙い事でもしてたのか?」
「そんなこと、してな……」
「なら、なんでっ?電話にも出ないで、メールに返事も寄越さないで…。疑いたくもなるだろう?」
僕は弱々しく首を振ると、必死で葦原の目を見つめた。
「何も無いよ…。嘘じゃ無い…」
僕の心は、決して葦原を裏切ってなど居ない。 頼むから、それを信じて欲しい。
その願いを込めて、僕は彼の目を見つめた。
すると、一瞬目を閉じて葦原がフッと息を吐いた。
「分かった…。俺だって別に、本気で七綱が裏切ってるなんて思っちゃいない。だけど、変に隠そうとするから…」
「ごめん…なさい…」
目を伏せると、唇に葦原の唇が押し付けられた。
「ふ……っ」
首の後ろに手が当てられ、角度を変えられながらキスが深まっていく。
僕は無意識に腕を葦原の身体に回した。
(もう、離れたくない…。このままずっと抱きしめてて欲しい……)
葦原を失うのでは無いかという不安が、僕にそんな想いを強く抱かせた。
(何があっても離さないで…)
先輩が何をしても惑わされないで欲しい。
諒子先生の方を振り向いたりしないで欲しい。
好き。
好き。
好き……。
でも、夢中になってしがみ付く僕の身体は、突然突き放された。
「……ッ?」
驚いて見上げた僕の目に、葦原の驚愕の表情が映った。
そして、その表情がすぐに怒りに変わった。
「なんだ?これ…」
僕の顎を乱暴に掴んで、葦原はグイッと首を曲げさせた。
「俺は、こんなトコにキスマークなんか付けた覚えは無い……」
その言葉にハッとして、僕は咄嗟にそこを抑えた。
(昨夜、保科先輩が……)
胸の中に嵐のように恐怖が渦を巻いた。
「七綱……?嘘だろ……?」
「う……」
ただ首を振る。
それしか出来なかった。
突然、葦原の目の中にカッと何かが燃え上がったように見えた。
次の瞬間、葦原の手が乱暴に僕の服を脱がせ始めた。
「や…、里久……、嫌…、嫌ッ…」
「煩い…」
シャツの前を開けて他に痕がないか僕の身体を確かめると、低く唸るような声で言い、葦原は僕のズボンと下着を乱暴に引き下ろした。
「そっち向けよッ」
「やっ…」
壁に手を付かされ、僕が許しを請おうとして振り向きかけると、葦原の指が有無を言わさずに押し込まれた。
「いウッ…ッ…」
痛みで思わず声を上げる。
葦原はそんな僕に構わずに、グイグイとそこを押し広げていく。
止めて、と言おうと口を開きかけると、葦原が片方の太腿を高く持ち上げた。
「いや…、嫌ぁ……ッ」
怒りに任せ、ミシミシと、強引に葦原が侵入を始めた。
それと同時に、忌々しげな声が僕の耳元を襲った。
「何で嫌なんだよッ?」
「だっ…て…」
こんな場所で、こんな風に怒りをぶつけられるように抱かれるなんて辛すぎる。
「俺よりも、したい相手が出来たっていうのか…っ?」
「ち、違…」
そんなこと、ある訳がない。
だが、言葉より先に涙が出てきてしまった。
「緩めろよ。切れても知らないからな」
「ぅく…ッ…」
冷たい葦原の言葉に忽ち嗚咽がこみ上げそうになった。
焼け付くような痛みと恐怖で萎縮し、どうしても身体から力を抜く事が出来ない。その所為で余計に痛みが増した。
だが、怒りに我を忘れているらしい葦原には、僕の身体を気遣ってくれる余裕など無かった。
「誰だよっ?誰だ……ッ?」
言えない。 言ったら、きっと、先輩があの写真をばら撒くだろう。
僕が首を振ると、葦原が怒りに任せてグッと奥まで突き刺してきた。
「ひうッ…・・」
必死で悲鳴を噛み殺すのが精一杯だった。
ガクガクと震える脚が今にも萎えて崩れ落ちそうになる。
葦原に太腿を抱えられていなかったら、きっとその場に跪いていたに違いなかった。
「疚しいことが無いなら言えよっ…、言え…っ」
「ぅくぅッ…、う…」
激しく身体を打ちつけてくる葦原に、僕はまた首を振った。
「何で言わないんだよっ?」
ただ黙って行為の終わりを待つ僕を乱暴に犯すようにして抱き、葦原は欲望を吐き出すと、僕の肩の上で辛そうに呟いた。
「許さないからな…」
その、胸を締め付けるような呟きを残して、葦原は汚れた僕を置いたまま個室を出て行った。


午後1番の授業が終わる頃、僕はやっと身支度を終えてトイレを出た。
無理やり葦原の身体を受け止めさせられて、身体も勿論傷付いていたが、それよりも彼を苦しめた事が辛かった。
教室まで戻る気になれず、僕は保健室の方へ向かった。
だが、保健室には諒子先生がいる。
その事に気付くと、僕は渡り廊下の入り口で止まり、その石段に座り込んだ。
すると、後ろから僕を呼ぶ声がした。
「北野…?どうした?」
振り向くと、心配そうな顔をした野々宮さんが立っていた。
「昼休みから帰って来ないから、どうしたのかと思って…。具合悪いの?」
「うん…、ちょっと…」
頷くと、野々宮さんは僕の傍に膝をついて顔を覗き込んだ。
「顔色悪いよ。保健室に行こう?」
咄嗟に、僕は激しく首を振った。
「嫌だ…。保健室には行かない」
「北野……」
僕の様子で何かを察したのか、野々宮さんは僕の肩に手を掛けた。
「じゃあさ、帰ろうか?」
「え……?」
「あたし、荷物取ってきてやる。一緒に帰ろ」
「の、…のみやさん…」
驚く僕を残し、野々宮さんは小走りに教室の方へ駆け出した。
暫くすると、僕と自分の2人分の荷物を持って戻って来た。
躊躇う僕の手を引いて昇降口に向かうと靴を履き替えるように言った。
「裏から抜けようよ。見つからない抜け道、教えてあげる」
また、僕の手を引いて校舎を回ると、野々宮さんは裏庭の方へ向かった。そこに、余り知られていない通用口のような扉が有った。
そこから学校の外に出て、僕たちはバス停まで歩いた。
「ウチに来なよ。昼間は誰もいないし、煩いこと言われないから」
「ありがと……」
バス停の人気の無いベンチに並んで座り、僕たちはバスが来るのを待った。
野々宮さんは、僕と葦原に何かがあったらしいと察しているようだった。
やがて、バスが来て乗り込むと、野々宮さんの家へ向かった。
彼女の厚意が僕にはとても嬉しかった。
1人で居ると、どんどん嫌な事ばかり考えてしまうからだ。
バス停に着いて家まで向かう途中、野々宮さんはまた心配そうな顔で僕を見た。
「大丈夫?…なんか、歩くのが辛そう…」
遠慮がちに野々宮さんが言うのに、僕は何とか笑みを浮かべて見せた。
「平気…。なんでもないから…」
「……葦原と、なんかあったんでしょ?さっき…、授業途中で教室に入ってきたけど、何だか様子がおかしかったよ」
「僕が…、僕が悪いんだ。…葦原を怒らせたから…」
「北野…」
野々宮さんの家は一家で美容室をやっている。いつもお客さんでいっぱいの人気のお店だった。
その店の裏手へ回ると、自宅用の玄関があった。
野々宮さんに促されて玄関で靴を脱ぐと、僕は出されたスリッパを履いて彼女の後に着いて階段を上って行った。
「適当に座って。今、何か持ってくるから」
そう言い残して野々宮さんは部屋を出て行った。
僕は、小さなハート型のテーブルの前に腰を下ろした。
女の子の部屋に入ったのは初めてで物珍しかったが、余りじろじろ見るのも悪い気がして、僕は大人しく彼女が戻るまで座っていた。
間も無く、お菓子の袋と飲料水のペットボトルを持って野々宮さんが戻って来た。
「ジンジャーエールで良かった?」
「あ、うん。なんでも…。ありがとう」
ペットボトルを1本受け取って、僕はすぐにキャップを回した。
「ごめんね。散らかってて」
そう言われて、僕は慌ててペットボトルから口を離した。
「ううん、全然…。散らかってなんかいないよ」
「あはは…。北野が来るって分かってたら、昨日、掃除しといたんだけどさ」
そう言うと、野々宮さんはお菓子の袋を開けてテーブルの上に置いた。
「もしかして北野、諒子先生の噂、聞いたんじゃないの?」
どうやら、野々宮さんもあの噂を知っているらしい。僕が俯くと、フーと息をついた。
「先生が、結婚を止めたらしいって言うのは本当だろうけど、だからって、それが葦原の為だとは限らないと思うよ。もう、別れたんだし、葦原は北野と付き合ってから諒子先生と接触してる様子も無いんでしょ?」
「うん…。多分…」
「だったら気に病むこと無いよ。葦原はもう、諒子先生とは関係ないって」
「うん…、そうだね。…ありがと」
僕の煮え切らない返事を聞いて、野々宮さんは眉を寄せた。
「そのことだけじゃ無いの?もっと何かあるんだね?」
僕は黙った。
保科先輩の事を野々宮さんに相談したいとも思ったが、彼女に話したところでどうなるものでもない。悪戯に彼女を心配させるだけだ。
「さっき……」
言い辛そうに、野々宮さんは切り出した。
「葦原に乱暴されたんじゃないの…?」
ハッとして顔を上げると、複雑な表情を浮かべた野々宮さんの視線と出くわした。
「北野…、ホントに歩くのが辛そうだったし…。あたし、良く分からないけど…、その…」
口篭った野々宮さんの頬が僅かに染まり、僕も血が上るのを感じて顔を伏せた。
「まさか、…いつも、無理にじゃ無いんでしょ?」
「ち、違う…ッ」
僕は慌てて顔を上げて首を振った。
「いつもは、あんな乱暴な事……」
そこまで言って気が付くと、僕は口を閉じた。
そして、気を取り直すとまた口を開いた。
「僕が、怒らせるようなことしたんだ。だから……」
「でも、そんなのって、葦原らしくないよ…」
野々宮さんの言葉に僕は顔を上げた。
「幾ら腹を立てたからって、そんな、力任せに北野に乱暴な事するなんて…。葦原って、そんなヤツじゃ無いと思ってた」
「ちが…」
葦原を悪く取られるのが嫌で僕は必死で首を振った。
「ほんとに、僕が悪くて…。上手く説明出来なかったから、里久を凄く嫌な気持ちにさせて…」
言いながら、さっきのことを思い出して涙がこみ上げてきた。
「いつもそうなんだ…。僕は…、どうしても、上手く出来ない。いつも、里久を、いい気分で居させたいのに…、出来ないんだ…」
思わず両手で顔を覆うと、野々宮さんの優しい手が僕の肩に触れた。