1℃


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階段を下りてくる音がして、躊躇いがちにキッチンの方から入って来た重光が、ソファに座っていた黒田の前に立った。
「起きたの?」
「うん…。なに読んでるんだ?」
指さされて、黒田は本を少し持ち上げた。
「小説。好きな推理作家の新刊が出たから」
「へえ…」
訊いたくせに、気のない返事をして重光は黒田の隣に腰を下ろした。
リビングの様子が気になるのか、首を巡らせて回りを見ている。
「知己は本読まないの?」
訊くと、重光は肩を竦めた。
「本なんて贅沢品だろ。買う余裕なんかねえし」
「図書館で借りればタダだよ」
「んなとこ、行くかよ…。俺なんか、場違いだろ」
そんなことは無いと思ったが、重光自身が気後れするのかも知れないと思った。
「なら、俺が貸そうか?」
そう言うと、重光は振り返った。
「いいよ。お前の読むのなんて難しくて俺に分かるか」
「中学の時にハマってたシリーズ物のファンタジーがあるんだけど、それなら取っ付き易いかも。興味あるなら貸すよ。あ、ついでにケーキ、上に持ってって食べようか」
「……うん」
何故か恥かしそうな顔で俯くと、重光は頷いた。
冷蔵庫からケーキの箱と重光の為のコーラを出し、黒田は自分のコーヒーと一緒に自室へ運んだ。
ケーキを見て目を輝かせると、重光は早速食べ始めた。
黒田は自分の本棚から2冊の文庫本を選んで座った。
「ほらこれ。1冊がそんなに長くないし、読み易いよ」
「うん…。じゃあ、借りる」
そう言った重光の頬は、また少しピンク色をしていた。
「少しは疲れ取れた?」
「うん。ベッドで寝たの初めてだ、俺…」
「普段は布団?」
「うん。せめえからな、ウチ」
言いながらも、目はケーキから離さない。そして、本当に幸せそうにフォークを口に運んでいた。
その姿を暫く眺め、黒田はふとさっきの寝言を思い出した。
「さっき…、俺がキスしたの、分かった?」
そう訊くと、カーっと重光の頬が染まった。寝落ちる寸前だったが、覚えていたのだろう。
「知らね…」
怒ったように言ったが、本当に怒った訳ではなかったろう。ただ、恥ずかしかっただけなのだ。
「陸が好きなんだね?」
今度は、びくっとして、重光は顔を上げた。
黒田を見る目が、恐怖を感じているように見開かれていた。
「な…、なんで…」
「寝言…、言ってたよ。陸の名前、何度も呼んでた」
コクっと喉を鳴らし、重光は眼を逸らした。
「嫌だって言ってたけど、本当は嫌じゃないんだ?双子とああいう事するの。ううん、海とは嫌だけど、陸とはしたいんだろ?」
「ちがっ…」
重光の心が陸に向いているのだということが腹立たしくて堪らなかった。責める気など無かった筈なのに、黒田の口調は咎めるような調子になっていた。
「陸だって満更でもないんじゃないの?あんなこと強要するぐらいだし、告ってみれば案外上手くいくかも知れないよ」
皮肉っぽい黒田の言葉に、重光は俯くだけで何も言わなかった。
さすがに言い過ぎたと思い、黒田が口を開こうとすると、やっと重光が顔を上げた。
「陸は……。陸は俺なんか見ねえよ。陸が見ているのは海だけなんだ」
それを聞いて黒田は眉を寄せた。
「何言って…?だって、兄弟だろ。まあ、兄貴を大事に思ってるのは分かるけど…」
黒田が言うと、重光は諦めたような笑みを浮かべて首を振った。
「そうじゃない。兄弟だけど、でも陸にとっては違うんだ。……陸は、他の誰も見ない。海だけを見てるんだ」
「え…?」
黒田が驚くと、重光は前を向いたままでこちらを見ようとはしなかったが、話を止めるつもりはないようだった。
「俺にあんなことするのだって、好きでしてるんじゃない。海がやりたがるから、陸も一緒にやるだけ。それに、海と俺を二人にしたくねえってのもあるんだろ」
「そんな…」
信じられないような話だった。
実の兄に、そんな想いを抱いていることもそうだが、その兄の異常な行為に付き合っていることも、そして、重光がそれを知っていながら拒まないことも、黒田には信じられなかった。
「海は…、自分がホモだなんて思ってない。いや、思いたくないんだ。……不良だけど顔もいいし、ガタイもいいし、金持ちだし、ヤらせる女には不自由しない。だから、随分食い散らかしたみたいだけど、それじゃ満足出来ないんだ。本当は男とヤりたい。女じゃダメなんだよ」
「だからって、なんで知己が?」
「だって…、俺が相手しなきゃ、海はいつか誰かを強姦するかも知れねえじゃん。自分の性癖を認めたくないから、マジなホモと付き合うつもりもねえ。でも、自分に嘘ついてるから余計に、性欲を抑え切れないんだよ、海は…」
「そ、そんな馬鹿な話…。だって、知己が好きなのは陸なんだろ?海の事なんか放っておけばいいじゃないか」
黒田が言うと、やっと重光は彼を見た。
「だって…、それじゃ陸が悲しむじゃんか。それに、海が腹くくって何処かの知らないホモ野郎とくっ付いたらさ、陸は許せねえと思う。…相手が俺だったら監視できるし、海が本気になる心配も無いし」
「知己…」
言葉を失って、黒田はただ重光を見つめた。
こんなにも彼は陸のことが好きなのだ。
自分が犠牲になるのを厭わないほど、陸のことを大切に思っているのだ。
「そんな顔すんなよ。俺は別に、辛くねえし、いいんだって」
また何時もの様に口元を歪め、重光は眼を逸らした。
それが強がりだと黒田には分かった。
好きな相手の前で、兄とは言え他の男に身体を任せている。それが、辛くない訳がない。
そして、きっと陸も、兄の相手をする重光に嫉妬しているのだろう。
自分が憎まれていることを、重光は知っていながら諦めているのだ。
手を伸ばすと、黒田は重光を抱き寄せた。
「やめ…ッ」
腕を突っ張ろうとしたが、思い直したのか重光は抵抗を止めた。
その代わりに、また頬から項が真っ赤に染まった。
「同情とかいらねえから」
ぼそっとそう言った重光を、黒田はもっと引き寄せた。
背けた顔を追いかけ、キスをする。
諦めているのか、重光は素直にキスを受けた。
貪らず、ただ唇を吸い、ゆっくり舌を入れると、黒田は重光の熱い舌を舐めた。
だが、それ以上はせず、唇を離した。
すると、何故か溜め息をつき、重光は目を伏せたままで言った。
「こういうの……やめろよ」
キスのことを言っているのかと思ったが、そうではなかった。
「俺…、優し…の慣れてねえから…」
その言葉に、黒田の胸がきゅんとする。そして、もっともっと、優しくしたいと思った。
顔を上げ、重光は真っ赤なままで黒田を見た。
「……しねえの?」
「うん?」
「エッチ…」
「しない…」
「じゃあ、離せよ」
「嫌だ」
黒田の言葉に重光はまた溜め息をついた。
そして、限界だったのか、また目を伏せてしまった。
その額に、頬に、項に、黒田は静かにキスをした。



衝撃的な重光の話を聞いた後、黒田の双子を見る目が変わったのは勿論だった。そして、今までは重光のことを知りたい為に、一緒に居る二人のことも見ていたが、もっと深く観察するようになっていた。
まさか、後を付けまわすようなことはしなかったが、目立つ二人のことだ、校内を普通に歩いていても、黒田の眼を引いた。
重光にも友達は居ないらしかったが、双子も兄弟以外の友達と連れ立っていることは無かった。
常に行動は二人だけで、二人で居ることが楽しげだった。
特に、弟の陸は無口らしい海に良く話し掛けていた。
傍から見ると、ただ兄に懐いているようにも見えたが、放課後、重光が迎えに現れると、明らかに不機嫌な顔になった。
邪魔されるのが嫌なのだろう。
その重光は、登校時と帰る時以外は双子に接触することも無かった。
昼も、いつもの木の下に一人で座り菓子パンをかじっている。だが、前と違うのは、重光の片手に黒田から借りた文庫本が広げられていることだった。
パンを食べ終わると、今度は両手で広げ、重光は熱心に本を読んでいた。
今まで読書の習慣はなかったようだが、面白さに目覚めたのかも知れない。
周囲に誰も居ないのを見計らって黒田が隣に座ると、何時もの様に不機嫌そうな顔をしたが、僅かに頬を染める。それが可愛いと黒田は思った。
「本、面白い?」
訊くと、本から眼を上げずに頷いた。
「もう2巻目なんだ?次も読む?」
「うん、読む」
そう言って目を上げると、重光は嬉しそうに笑った。
滅多に見せない重光の笑顔が自分に向けられたことが嬉しかった。
可愛くて今すぐ抱きしめたくなる。
だが、黒田は笑みを返しただけで立ち上がった。
「じゃあ、また家に取りに来てよ」
「うん」
また本に目を落として頷いた重光を残し、黒田は立ち去った。
彼を自分のものにしたくて、どんどん焦ってくるのが分かった。
だが、どうにも出来ない。
もどかしくて、胸が潰れそうだと黒田は思った。

その日の放課後、重光はまた双子と一緒にあの空き部屋へ行った。
黒田はまたこっそりと後を付け、見つからないように窓から覗いた。
以前と変わらない光景がそこにはあった。
違ったのは、また重光のもどかしい手淫に苛つき、兄の海がその身体をグッと押して、ズボンに手を掛けたことだった。
「シゲ、そっち向けよ。挿れさせろ」
さすがの重光も、これには驚いて、すぐに海の手を払い退けた。
「や、やだよッ…」
「るせっ…。いいだろうが」
尚も脱がせようとする海に、重光は必至で抵抗した。
すると、重光の後ろから長い腕を伸ばして陸がその手を掴んだ。
「止せよ、海っ。幾ら何でもやり過ぎだろ?」
「いいだろ?お前も次、やれよ」
重光のことなどまるで物扱いだった。腹が立って、黒田は中に飛び込もうかと思った。
だが、陸が立ち上がって重光の腕を掴むと、力任せに自分の後ろへ引っ張った。
「やり過ぎだってッ」
前に立ちはだかった弟を暫くの間睨んでいたが、やがて眼を逸らすと、海は立ち上がった。
「あーあ、つまんねえ…」
そう言うと、ズボンを直し、海は部屋を出て行った。
「待てよッ、海ッ」
その後を追い、陸は重光のことを振り向きもせずに出て行った。
黒田は二人に見つからないように窓を離れると、物陰に身を隠した。
だが、双子は別の方角へ行ったらしく、黒田の居る方には来なかった。
ホッとして出て行き、もう1度窓を覗くと、もう重光の姿はそこにはなかった。
(知己…)
黒田は重光を探したが、もう帰ってしまったのか、見つからなかった。
心配だったが、諦めるしかない。
黒田は校門に向かって歩き始めた。



心配でメールを入れたが、重光からの返事はなかった。
海に貞操を奪われそうになり、庇ってくれたと思った陸は自分を置いて行ってしまった。きっと、深く傷ついている筈だと黒田は思った。
慰めたかったが、重光の家も知らないし、これ以上はどうしようもない。仕方なく学校から塾へ直行し、何時もの様に2時間の講義を受けた。
終わってからまたメールしたが、既読にもならず、当然、重光からの返信は無かった。
少し苛々しながら帰途に就き、途中のコンビニで夜食を仕入れると、黒田は何度も携帯を確認しながら家に向かった。
すると、門の前に黒い人影が見えた。
そのシルエットだけで、黒田にはそれが重光だと分かった。
「知己ッ…」
駆け寄ると、重光は項垂れたままで顔を上げようとはしなかった。
「どうした?」
屈んで下から顔を見たが、暗くて表情は見えなかった。
「謝りに来た…」
「え?」
訊き返すと、重光は手に持っていた何かを持ち上げた。
それは、どうやら本らしい。
黒田は彼の背中に手を当てると、門の方へ歩くよう促した。
「兎に角、中に入ろう?」
だが、重光は動こうとしなかった。
「親…、居るんだろ?悪りぃよ。俺みたいなのが…」
「何言ってるんだ。大丈夫だよ、ほら…」
半ば強引に、黒田は重光を家に入れた。
階段の下で部屋で待つように言うと、黒田はキッチンの扉を開けって、中に居た母親に友達が来たことを告げた。
夕飯は部屋で一緒に食べるというと、母は大きめのお盆に二人分の食事を乗せてくれた。
「おかず足りる?一人増えると思わなかったから…」
「大丈夫。友達、小食なんだ」
そう言うと、母は少し眉を寄せた。
「女の子なの?」
それを聞いて、黒田は笑った。
「違うよ。男。俺、そんなに大胆じゃないって」
黒田の言葉に母は笑った。
ドアを開けてもらい、黒田は食事を持って階段を上った。
「ごめん。お待たせ」
座卓にお盆ごと食事を置くと、それを見た重光は驚いて黒田を見上げた。
「え…?これ…」
「晩飯、まだかと思って。俺もまだなんだ。一緒に食べよう」
「い、いいよっ、俺は…」
「どうして?食べようよ」
そう言って黒田は重光の前に料理を並べた。
些か緊張しているような顔でそれを見ていたが、重光は横に置いてあった本を持ち上げて、それを黒田に見せた。
「ごめん…。借りた本、こんなにしちまった…」
「え?」
見ると、文庫本の表紙と次のページの何枚かが破れていた。
「お袋の男が勝手に見てたから、取り返そうとしたんだ。そしたら、腹いせに破きやがって…。ごめん、ほんとに…」
文庫本を取り上げると、黒田は項垂れた重光の手を掴んだ。
「別にいいよ。もう、読んじゃった本なんだし、気にしないって。…ほら、冷めない内に食べようよ」
「あり…がと…」
躊躇いがちに箸を取ると、重光は料理に手を付けた。
「旨い…」
嬉しそうにそう言うと、黒田を見て笑った。
「そう?母親、あんまり料理は得意じゃないんだけど、それなら良かった」
「旨いよ。それに、仕事してんのに飯も作ってくれるなんて、いいお袋さんだな…」
「飯もって…。まあ、残業の時とかは適当に済ませろって言われるし、冷食とか買った総菜も多いんだけどね」
「けど、いいよ。あったかいもん用意して待っててくれるんだから…」
「知己…」
家で温かい食事を食べたことが無いのだろうか。そういう生活をずっとしてきたのだろうか。
「他にも何かあったんじゃない…?」
見たことは言わないつもりだったが、黒田は重光が傷付いているのだと分かっていた。だから、訊かずにはいられなかったのだ。
重光は、箸を置くと下を向いた。
そして、いきなり黒田の身体にしがみついた。
「知己…っ」
驚いて茶碗と箸を置くと、黒田は重光の身体に腕を回した。
「俺…、怖いっ。海が怖い……ッ。もう、やだよ…」
抱きしめると、重光は震える声で言った。
「大丈夫だと思ってたんだ。陸が一緒だし、まさかヤられたりはしないだろうって思ってた。けど…ッ」
言葉を切ると、重光は大きく震えた。
「もう、分かんね…。俺、きっと海に無理やりヤられる…ッ」
その身体を強く抱きしめ、黒田は言った。
「もう、二人の傍に行くなよ。関わるのは止めるんだ」
だが、重光は答えなかった。
こんなに怯えていながら、それでも陸から離れたくないのだろうか。
そう思うと、黒田の胸は嫉妬で焦げそうだった。