1℃


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「そんな目に合っても、陸から離れたくないの?」
黒田が言うと、重光は黙ったまま首を振った。
「違う……」
「ならもう、二人に近づくなよ」
黒田の言葉に重光は答えなかった。
だが、黒田の胸から離れようとはしなかった。
そして、暫くすると、躊躇いがちに口を開いた。
「一遍だけ……、一遍だけ、陸も俺を抱きしめてくれたことがあったんだ。…小3年の時、また虐められて、公園の滑り台の上でじっと隠れてた…。いつも一緒なのに、海は居なくて、陸一人で公園に来た。もう日が暮れかけて、子供たちはみんな帰っちまってて、陸は俺が隠れてるの知ってて、滑り台の上に登って来た……」
励ますように黒田が背中を撫でてやると、重光は話を続けた。
「”起きろよ”って言われて、俺は起き上がった。もう日暮れで、俺は貧乏で上着も持ってなくて、寒くて震えてたんだ。そしたら陸が、ギュッて抱きしめてくれた。”男なんだから泣くな”って言って。……海はその時、また母親に折檻されて蔵に閉じ込められてたんだって。陸はそれが悔しくて、本当は自分が泣きたかったのかも知れない。俺を慰めてくれた訳じゃなくて、陸が心細かったのかも知れない」
「それでも嬉しかったんだ?」
「わかんね……。でも、誰も、そんなことしてくれた人、居なかったから…」
それからずっと、重光は陸を想い続けているのだろう。
だが、その時の陸は、ほんの気まぐれで重光を抱きしめたに過ぎないのだ。自分の寂しさを紛らわす為に抱きしめただけなのだろう。
そしてそれを、重光本人も知っているのだ。
それが悲しいと黒田は思った。
また背中を撫でようとした時、突然、重光がグッと身体を引き離した。
「おまえ、もう俺に近づくな」
「え…?」
豹変した態度に驚き、黒田が見ると、重光は強張った表情をしていた。
「俺、友達なんか要らねえ。そんなの持っちゃいけなかった。今まで怖いなんて思わなかった。殴られんのも、ヤられんのだって平気なのに。おまえに…、おまえに優しくされんのに慣れちまったら、怖くて立っていられなくなるッ…」
そう言うと立ち上がり、重光は足早に部屋を出て行った。
「知己……」
閉まったドアを見つめて呟くと、黒田は破れた本に視線を落とした。
それを持ち上げて溜め息をつく。
「抱いちゃえば良かった?無理やりヤっちゃえば良かったのかな…?」
そう言うと、黒田はまた溜め息をついた。
「でも、大事にしたかったんだ…」



次の日、黒田はまた昼休みに一人で座る重光を見掛けた。
双子は相変わらず、他の誰も寄せ付けず、二人だけで行動していた。
放課後は何時もの様に重光が教室へ迎えに行き、三人連れ立って門を出て行った。
朝は何処かで待ち合わせしているのか、やはり揃って登校して来る。だが、重光と双子の間に碌に会話は無かった。
遠くから見ると、何時もの変わらない光景だったが、重光の表情は前と違って見えた。
不自然に強張った顔で、双子の後ろを歩いて来る。
黒田には痛々しくて見ていられなかった。
(どうしてだよ、知己…)
あんなに怖がっていながら、それでも離れようとしない。一体、何を求めているのだろう。
何時かは陸が自分を見てくれるのを期待しているのだろうか。
重光に拒絶されても、黒田の想いは熱いままだった。
今でも、彼を手に入れたくて堪らない。
簡単に諦めることは出来そうも無かった。
昼休みに、また重光の所へ行ってみようかと思った。
だが、多分、口を利いてはもらえないだろう。重光はまた、以前のように鎧を纏ってしまったのだ。
それでも構わないと、黒田は昼休みに重光の所へ行った。
重光は黒田が来たのに気づいたが、目を上げようとはしなかった。
頬の辺りが赤くなって少し腫れていた。また、母親の彼氏に殴られたのだろう。
「知己…」
「気安く呼ぶな」
低い声でそう言い、重光は菓子パンを齧った。
「隣、座っていい?」
「駄目だ。行けよ」
怯まずに、黒田がもう1度話しかけようとした時、重光がハッとして顔を上げた。
「陸…」
黒田の後ろから歩いて来た双子の片割れは、立っていた黒田を怪訝そうに睨みつけると、重光を見下ろした。
その眼は鋭く、とても重光に好意を持っているようには見えない。それどころか、疎んじている様に感じられた。
「シゲ、俺、今日、担任に呼ばれてっから、先に帰れ。海のこと、迎えに来なくていいからな」
「分かった…」
重光が返事をすると、陸はサッサと戻って行った。
黒田は嫌な予感がした。
陸の眼が無いと、海が暴走するのではないだろうか。
「知己、今日は俺と帰ろう?」
黒田が言うと、重光は強張った顔で首を振った。
「嫌だ。俺に構うな」
今まで目を合わそうとしなかった重光が、やっと顔を上げると黒田を睨んだ。
「俺に近づくな」
その眼を見返して黒田は言った。
「嫌だ。俺は、これからもずっと知己と関わりたい」
すると、重光の顔にサッと朱が差した。
黒田はそこに片膝を突くと、重光の眼をじっと見つめた。
「俺のこと嫌い?」
黒田の言葉に重光の顔が益々赤くなった。
「嫌いだ……」
だが、その言葉が嘘だということは今までの重光を見ていた黒田には分かっていた。
「怖かったら俺を頼ってよ。もう、一人で我慢することない。寂しい思いなんかさせないから」
「う、うるさいっ。そんなの信じられっかよッ…」
そう叫ぶと、重光はサッと立ち上がって走り去ってしまった。
その後姿を見送りながら、黒田はさっきの陸の言葉を思い出していた。
重光に嫌がられても、今日は彼から眼を離さない方がいい。そう思って黒田は3年の教室の方を見上げた。



放課後、HRが長引いて、終わると同時に黒田は重光のクラスに急いだが、彼の姿はもう無かった。
海に捕まらない内に帰ったのならいいがと思いながら、黒田はあの空き部屋に向かった。
ドアに近づくと、中から重光の激しく抵抗する声がした。
(やっぱり…)
黒田は躊躇わずに、鍵の壊れたドアを開けた。
すると、あのベンチの上に押さえつけられ、重光は海に衣服を剥ぎ取られようとしていた。
「やめろッ」
黒田が叫ぶと同時、海と重光がこちらを見た。
「誰だ?おまえ」
邪魔されて、海の顔が凶悪な表情を浮かべた。
そして、黒田の姿を見た重光は泣きそうな顔になった。
”助けて”と、言葉にはしなくても重光がそう言っているように黒田には思えた。
「知己を離せ」
怖くないと言えば嘘になる。
相手は乱暴者だと評判の双子の片割れだ。喧嘩慣れしているし、身体だって大きい。
片や黒田の方は、身長こそ高いが腕力に自信はなかった。
だが、重光を救いたい。
いや、自分以外の男に、しかも力尽くでなんか抱かせるものかと思った。
「んだと?」
凄味ながら海が近づいて来た。
近くで見ると、本当に大男だった。
制服の上からでも肩や背中の筋肉を感じられる。握られた拳は石ででも出来ているように見えた。
だが、黒田は怯まなかった。
喧嘩など勿論したことは無い。だが、怯えた重光の眼を見てしまったら、今更引けなかった。
「知己に手を出すな」
グッと襟元を掴まれたが、黒田は逃げなかった。
「や、やめろよ海ッ…」
起き上がって来た重光が、後ろから海を止めようとした。
「うっせえッ」
片手で払われただけで、小柄な重光は吹き飛んだ。
「誰だか知らねえが、邪魔すんじゃねえ」
叫ぶ訳でもなく低い声だった。それが余計に迫力を感じさせた。
「知己は嫌がってる。男が欲しけりゃ、他で探…ッ」
言い終わらない内に黒田は殴られていた。
初めて人に殴られたが、その衝撃は想像していたよりも大きかった。
口の中に血の味が広がり、顎が焼けるように熱かった。
それでも黒田は次の言葉を発しようとした。
「知己にッ…」
触るな、という前に今度は腹を殴られて息が止まった。
次の瞬間、胃液が逆流するのが分かった。
「やめろよ、海ッ。雪を離せッ…」
振り上げられた腕に縋るようにして重光が言った。
「言うこと聞くッ。聞くから…っ。雪を殴らないで…」
その言葉を聞いて黒田は焦った。
「だ、駄目だ知己ッ。逃げろ…っ」
ガツン、とこめかみを殴られ、脳が揺れた。
その瞬間、黒田は意識を失った。



誰かの怒声が頭の中に響いた。
二つのよく似た声が激しく言い争っている。
そして、硬い床に崩れ落ちた筈の自分の身体が、温かい誰かの身体に支えられているのを感じた。
黒田の頭を膝に乗せ、庇おうとしているのか、重光は自分の身体で覆うようにしていた。
服装は乱れていたが、殴られた様子はなかった。
「とも…」
声を掛けようとして、黒田は口を開いたが、双子の会話が耳に入ってそちらに目を向けた。
「だから、邪魔すんなって言ってんだろ?陸」
「何言ってんだ?おまえ分かってんのか?幾らシゲが相手だって、こんなこと知れたらどうなるか…」
「ぅるせえ。どうなったっていいんだよ、もう」
吐き捨てるように海は言った。
苦しそうな、絶望を抱えているような声だと黒田は思った。
双子の事情は知らない。
だが、ただの乱暴者に見える海にも、暴走せずにはいられない理由があるのだろう。
「だったら…、どうなったっていいんならよ、俺だっていいだろ……?」
奥底に仕舞っておいた気持ちを絞り出すように陸は言った。
それを聞いた海の顔が一瞬、泣き出しそうに歪んだ。
「ば…っかか…。それだけは駄目だろ?それだけは絶対に駄目なんだよっ」
その答えを聞いて、黒田は海もまた、弟の気持ちを知っていたのだと分かった。
知っていたからこそ、苦しんでいたのだろう。そして、追い詰められてしまったのだ。
陸は両手で海の胸倉を掴むと言った。
「なんでだよッ…。俺が1番、海のこと分かってんだろ?何もかも一緒にやって来た。いつだって俺が海の1番傍に居たろうがよッ」
泣きそうな声だと黒田は思った。
そして、この二人の間で、重光はどれほど苦しんだのだろう。
常に身の危険を感じながら、それでも見捨てることは出来なかったのだ。
「……だからって、弟相手に盛れっかよ……」
苦しそうにそう言い、海は陸の手を払うと部屋を出て行った。
残された陸は暫くそこに佇んでいたが、ゆっくりと振り返ると重光を見た。
「おまえら、デキてんの…?」
口元を歪めてそう言うと、陸は忌々し気に重光を睨んだ。
「もう、俺らに近づくなよ。2度と…」
そう言うと、陸は出て行った。
黒田は心配になって重光を見上げた。
どんなに嫌な目に合っても、重光は陸から離れなかった。それなのに、こんな突き放すような態度を取られたら、きっと傷付いているだろう。
だが、重光は陸が消えると、すぐに眼を逸らした。
起き上がろうとした黒田を支え、重光は泣きそうな顔で言った。
「大丈夫か?ごめん、ごめんな?」
「大丈夫…」
唇の横と口の中が切れていたので、まだ血の味がした。黒田はポケットからハンカチを出すと、自分の口を押えた。
「馬鹿やろ…。なんで来たんだよ?喧嘩なんかしたことねえ癖に、なんで海に逆らったりすんだよッ」
涙を浮かべて言った重光の制服は乱れていた。胸ははだけられ、ズボンも臀部が見えそうなほどずり下がっていた。
それを見ると、黒田は自分の頭に血が上るのが分かった。
「大事なんだよ、知己のことが。守りたかったんだ…」
辛そうにそう言い、黒田は重光の肩を掴んだ。
「ごめん…、守れなくて…」
その言葉に、重光は激しく首を振った。
「俺はなんともねえよッ。ヤられる前に陸が飛び込んできて、なんもされなかった。でも、俺のことなんか庇うことなかったんだ。俺は平気だって言ったろ?」
それを聞いてホッとしたが、黒田は強い口調で言った。
「平気じゃない。俺が平気じゃないよ」
「雪…」
「誰にも触らせたくない。傷つけさせたくない。嫌なんだよ、知己…」
苦しそうにそう言った黒田の目を見て、重光はくしゃりと顔を歪めた。
「馬鹿やろ……」
言いながら、両腕を黒田の身体に回すと、重光は抱きしめる腕に力を込めた。