一緒に帰ろう


-6-

(なに……?)
目が覚めて、ぼんやりとした頭で七於は思った。
ここは何処だろう?
あの音はなんだろう?
(あ、そっか…、俺、耀ちゃんの…)
自分が握っていた耀平の体操服を見て、やっとここが耀平の部屋のロフトだという事を思い出した。どうやら、耀平が帰って来たらしい。
起き上がって下を見ようとして、七於はハッとして躊躇った。
(なに…?あれ…)
明らかに、それは女性の声のようだった。
それも、話し声ではない。
最初は、テレビか、いやもしかしたら耀平が帰って来てDVDでも見ているのだろうかと思った。
だが、それにしては、やけに生々しい。
(う…、うそっ…)
同じ年頃の高校生達と比べれば未成熟とも言える七於だったが、さすがにその声がなんなのか見当がついた。 自分がここにいるのに気付かずに、砂羽子と帰って来た耀平が性行為を始めてしまったのだ。
(い…、嫌だッ…)
両手で耳を塞ぐと、七於は身体を縮めるようにして奥に蹲った。
まさか、耀平が砂羽子と一緒にここへ来るなんて思いもしなかった。知っていたら、勿論、ここで待っていたりしなかっただろう。
(やだ…、やだ、やだ、やだッ…)
ギュッと両手を耳に押し付け、七於は目を瞑った。
耀平だって年頃の男だ。彼女が出来れば、セックスだってしたいだろうし、するだろう。だが、今の今まで、七於はそれを想像したことも無かったのだ。
普通の男子高校生にとっての彼女という存在がどういうものなのか、本当の意味で理解していなかったのかも知れない。
だからこそ、この現実を耳にして、七於は怖くて堪らなくなってしまった。
耀平が、今まで知っていた彼とは違う人間のように思えた。
(怖い…っ。耀ちゃん、やだよ…怖いよぉッ…)
七於は、すっかりパニックに陥ってしまった。
身体が震え出して、どうしていいのか分からない。泣き出しそうになるのを、何とか押さえているのがやっとだった。


どれほど時間が経ったのか、まるで分からなかった。
ただ、耳を塞いだまま、七於は目を瞑って隅っこでガタガタと震えていた。
その腕を、誰かがいきなり掴んだ。
「ヒッ…」
ビクッとして飛び上がると、七於は恐る恐る掴んだ手の主を見た。
そこには、怒りに震える耀平の顔があった。
「耀ちゃ…」
「なにやってんだ?」
低い、冷たい声だった。
七於は答える事が出来ず、ただ首を振った。
「なにやってんだよ?居るならなんで声掛けなかった?さっき、砂羽子が覗いて、吃驚して慌てて帰ったッ…。まさか、こんなとこに居るなんてッ…、どういうつもりだよッ」
吐き捨てるように言うと、耀平は掴んでいた七於の腕を振り払うようにして離した。
「俺…、俺…、知らなくて…」
ヒクッと喉が鳴り、七於は言葉を続けられなくなってしまった。
「寝ちゃっ…、俺っ…あやま…、耀ちゃ…に…あやっ…」
必死で説明しようとするが、嗚咽が邪魔をして言葉が続かない。
耀平は大きな溜息をつくと、ロフトから降りる為に梯子に足を掛けた。
「帰れ」
本当に、それは酷く冷たい声だった。
思わず、七於の息が止まるほどに。
「帰れよ。おまえみたいなガキ、もう、うんざりだ」
呆然としたまま、七於は耀平の家を後にした。
まだ、涙が頬を濡らしていたが、拭う気力さえなかった。
いや、濡れている事にさえ気付いていなかったのかも知れない。
のろのろと、それでも習慣なのか、七於の足は自分の家の方へ向かっていた。
その途中にある、小さな公園の入り口から誰かに声を掛けられたが、七於はそちらを見ようともせずに歩き続けた。
すると、腕を掴まれてやっと七於は顔を上げた。
「砂羽ちゃ…」
そこに居たのは、砂羽子だった。
七於の涙を見て、砂羽子は口元を歪めた。
「あーあ…、とうとう嫌われちゃったか。かぁーわいそー」
少しも気の毒そうではなく、砂羽子は皮肉な口調で言った。
「あたしさ、アンタがあそこに居るの、最初から知ってたんだ」
「…え…?」
言っている事が良く理解出来ず、七於はぼんやりと聞き返した。
「アンタの靴、玄関にあったの気がついたのよ。耀平は分かんなかったみたいだったけどね」
皮肉な笑いを浮かべて、砂羽子は言った。
だが、七於はまだ彼女の言う事が、良く分からなかった。まさか、砂羽子が自分のいる事を知っていて耀平とあんな行為をしたなんて、信じられなかった所為もある。
そんな悪質なことをする人間が居るなんて、七於には 理解出来なかったのだ。
「はー、やっぱ馬鹿だね、アンタ。はっきり言わなきゃ分かんないの?いい?アンタがあそこに隠れてるって知ってて、わざと耀平とエッチしたの。分かった?」
こうまではっきり言われれば、さすがの七於にもその事実が飲み込めた。だが、その理由がまるで分からなかった。
「どうして…?」
そう訊いた七於の声は震えていた。
目の前にいる砂羽子が怖くて堪らなかったのだ。
何故そんな酷い事をするのか、七於には理解出来なかった。砂羽子は自分に対して悪質な事をしただけではなく、耀平の事だって裏切っている気がしたからだ。
「どうして?…それはね、アンタの事が嫌いだからよ」
「…え?」
「男の癖に、しかも馬鹿の癖に、大事にされちゃってさ。気に入らないのよ、アンタ」
「お、俺…俺、別に…、そんな…」
大事にというのは、耀平にという意味だろうか。だとしたら、自分の方が余程大事にされているだろう。
まさか、砂羽子は自分に嫉妬してこんな事をしたのだろうか。だとしても、七於には嫉妬されるような覚えはまるで無かった。
砂羽子に嫉妬していたのは、自分の方だ。
耀平の傍に居られる砂羽子を、七於はいつだって羨ましいと感じていたのだ。
「勘違いしてるみたいだから、もうひとつ教えてあげる。あたしはね、耀平の事なんか、最初から好きじゃなかったのよ」
「えっ?う、うそッ…」
今度こそ驚いて、七於は眼を見張った。
確か、告ったのは砂羽子の方からの筈だった。七於が知っている限りでは、耀平は砂羽子に呼び出されて付き合いたいと言われた筈なのだ。それなのに、どうしてこんな事を言うのだろうか。
「あたしがホントに狙ってたのはね、輪島君なの」
「ワ、ワジーッ?う、うそ…」
呆然として、七於は砂羽子の顔を見つめた。
忌々しげな表情が、彼女の顔には浮かんでいた。
「でも、告ったのに、断られた。誰とでも付き合うって評判だったのに、なんであたしだけ断られんの?何度か誘って、やっと遊ぶ約束したのにさ、直前でドタキャンしやがって…。しかも、その理由がなに?アンタに勉強教える約束したからだってっ。馬鹿にしてるよ、まったく…」
「そ、そんな…」
それではまさか、その腹いせに、砂羽子は好きでも無い耀平に告白したと言うのだろうか。
(俺の、所為なの…?)
自分を耀平から遠ざける為だけに、砂羽子は耀平と付き合い始めたのか。
おぼろげだが、七於にも漸く砂羽子の話が見えてきた。
「ひ…ひどい…・。そんなの、そんなの酷いよッ…」
七於の目に、さっき止まった筈の涙が再び溢れた。
「耀ちゃんは、砂羽ちゃんのこと、ちゃんと好きなのにッ。そんなの酷いよッ」
掴み掛かろうとした七於の手は砂羽子によってがっちりと捉えられた。
そして、その力に、七於は思わず顔を歪めた。
「ちゃんと好き?なにそれ?バッカじゃないの?」
そう言った砂羽子の顔には七於を馬鹿にするような笑みが浮かんでいた。
「いいじゃない。耀平だってあたしとエッチ出来て、いい思いしてんだから。アンタさっき、上に居て見てたんでしょ?なら、分かるじゃん」
「み、見てないッ。俺、俺…、何にも見てないよッ」
剥きになって七於が言うと、砂羽子はまた馬鹿にしたように笑った。
「そうだっけね、ごめん、ごめん。アンタ、耳塞いでガタガタ震えてたっけ。馬鹿なだけじゃなくってガキなのよね、アンタって…」
その言葉に、七於は口惜しげに唇を噛んだ。言い返そうにも、七於には返す言葉さえ見つからなかった。
だが、耀平の事も、そして輪島の事まで馬鹿にしているように思えて、七於は砂羽子が許せなかった。
「お願いだから、こんな事もう止めて?俺が悪いなら、砂羽ちゃんの気が済むようにするよ。だから…、耀ちゃんを傷つけないで下さい。お願いです。お願いしますッ」
「ふうん…」
必死に詰め寄る七於に、砂羽子は腕を組むと顎を上げて言った。
「ならさ、輪島君にあたしと付き合うように言ってよ。そしたら、耀平とは別れてあげるよ」
「えっ…、そ、そんな…」
幾ら仲がいいと言ったって、そんな事を七於から輪島に言える訳がない。
七於が、困惑し切った顔で口を開くと、砂羽子の後ろから声が聞こえた。
「なんだ…?それ…」
ハッとして、七於が振り返った砂羽子の影から顔を出すと、そこには怒りに震える耀平の姿があった。
「よ、耀平…」
さすがの砂羽子も、耀平の姿を見て蒼褪めた。
七於はと言えば、息を飲んだきり、声さえも出せなかった。
どうしていいのか分からず、怖くて脚が震えた。一体、耀平は自分達の話をどの辺りから聞いていたのだろう。
凍りついたようになって見つめていると、耀平が口を開いた。
「おまえ…、一体、どういうつもりなんだ…?」
「あ…、あの…、あたし…ッ」
そう言ったきり、砂羽子は唇を噛むと下を向いてしまった。もう、どんな言い訳をしても通じないと分かっていたのだろう。
「輪島にふられたから、間に合わせに俺と付き合ったってことかよ?…それじゃ、この前の話も、今日の話も、全部嘘なんだなッ?」
耀平の手が身体の両脇でギュッと握られ、その拳がブルブルと震えるのを七於は息を飲んで見つめていた。
長い付き合いだが、これほど怒った耀平を七於は見た事がなかった。
「そうよっ…」
いきなり顔を上げて、砂羽子が叫んだ。
「アンタなんか最初から、大して好きでもなかったのよッ。いいじゃない。別にアンタだって半分遊びでしょ?ヤらしてやったんだから、感謝してよね」
サッと、耀平の手が振り上げられるのが見え、七於は慌てて砂羽子を庇って前へ出ようとした。
だが、
「駄目ッ…」
と叫ぼうとした時、耀平の手はパタリと下ろされた。
「七於…」
「は…、はいっ…」
呼ばれて、七於は思わず大きく返事をすると前へ出た。
「行こう…」
差し出された手を見て躊躇うと、七於は砂羽子の顔を見上げた。
だが、砂羽子はサッと目を逸らしてしまった。
「ほら、来いって」
促され、おずおずと手を伸ばすと、七於は耀平の手を掴んだ。
途端に、グイッと引き寄せられ、七於は前へのめるようにして耀平の傍へ立った。
「行くぞ…」
力無くそう言った耀平に頷き、七於は歩き出しながら後ろを振り返った。
砂羽子はまだ、顔を背けたままで黙ってそこに立っていた。その姿が、酷く弱々しく感じて、七於は悲しくなった。
だが、七於にはどうする事も出来ない。
何か言いたくても、気の利いた言葉ひとつ思い付きはしなかった。
他人から見れば、今度の事は砂羽子の逆恨みだと言われるだろう。だが、七於には全て自分が悪いような気がして堪らなかった。
自分の所為で、砂羽子と耀平を傷つけ、そして、輪島にまで迷惑を掛けたのではないかと思った。
(ごめんなさい…。耀ちゃん、ごめんね…?)
心の中で何度も謝り、七於は黙って隣を歩く耀平を見上げた。
無表情だったが、耀平が何かを必死に耐えているのが七於には分かった。
繋いでいる手が、驚くほどの力で握られている。痛かったが、七於は何も言わなかった。