続 一緒に帰ろう
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何時も遅刻ギリギリに登校してくる輪島が、今日はもう教室に居た。
七於がクラスメートに挨拶しながら席へ着こうとすると、立ち上がってその腕を掴んだ。
「七於…」
「おはよ、ワジー」
その眼を見て、輪島も耀平と同じように表情を曇らせた。
「な、七於…」
「なあに?」
何時もの無邪気な口調だったが、七於は笑っていなかった。
「ちょっと、こっち…」
そう言うと、輪島は七於をベランダへ連れて行った。
「七於…、泣いたのか?」
心配そうな眼をして輪島が言うと、七於は首を振った。
「ううん、泣いてないよ」
「嘘つくな。こんな眼して…」
「俺、昨日遅くまでいっぱい勉強したの。だから、眼が変なんだ、きっと」
「勉強…?」
「うん。俺、頑張るんだ。もう、ワジーに迷惑かけないからね?心配しなくていいからね?」
「何言って…」
輪島が絶句すると、七於は言った。
「今まで、ありがと。ワジー」
そう言うと、呆然とする輪島を残して、七於は教室に戻ろうとした。
「な、七於ッ…」
輪島が名前を呼んだが、七於は振り向かなかった。
昨夜一晩泣き明かして、もう忘れると決めた。自分はもっと大人にならなくてはいけないのだと七於は思った。
頭が悪いのは仕方がない。だが、何時までも人に頼ってばかりいる自分から、もう卒業するべきだと思ったのだ。
耀平だって輪島だって、もう自分よりも大切な存在が傍に居るのだ。それなのに、何時までも甘えて、二人の時間を消費させている。
そんなことは、もう止めるべきなのだと七於は思った。
席に着くと、七於は前を見た。
まだ何か言いたげな輪島が、ベランダから戻って傍に来たが、七於が見上げると、辛そうな目を向けただけで自分の席へ行ってしまった。
昼休みになると、また輪島が七於に近づいて来た。
「七於、購買でパン買って屋上で食わねえ?」
少々強張った笑みを浮かべ言った輪島を見上げると、七於は首を振った。
「いいよ。俺、自分で買うし。一人で大丈夫」
混み合う購買で欲しい物を買うのは、小柄で非力な七於には大変なことだった。だから、何時も輪島が買いに行ってくれる。だが、七於はもう、彼に頼るつもりはなかった。
「いいからッ…」
少し声を荒げて輪島は言うと、次には声を落とした。
「今日は言う通りにしてくれ。……頼む」
「……うん」
七於が頷くと、輪島はホッとした顔になった。
「じゃ、行こう」
購買へ行って、輪島がパンと飲み物を買うのを待ち、それを持って屋上へ行った。
並んで座り、七於がパンを出して一口齧ると、それを見ていた輪島が言った。
「七於、昨日はごめんな?俺が誘ったのに…」
七於はちらりと輪島を見たが、また前を向いた。
「ううん、いいよ。気にしないで」
無表情でそう言った七於を見て、輪島は悲しげな顔になった。
「なあ、七於…、頼むよ…。本当に俺が悪かった。七於を避けてたつもりは無かったんだ。勿論、嫌いになんかなる筈ない。……ミナは…、少し不安定なところがあって、帰りだけじゃなく、昼休みも電話入れてやらないと駄目だったりする。……そういうの、七於の前でしたくなかった」
輪島は本当にミナを大切に思っているのだな、と七於は思った。
知りたくなかったことを、また突き付けられて、七於は黙り込んだ。
「七於…?」
返事をしない七於を、輪島はまた心配そうな顔で見た。
七於は急いでストローを咥えると、いちご牛乳を吸い上げて、飲み込めなかったパンを無理やり喉の奥へ押し込んだ。
「うん、分かった。…俺こそごめんね?俺、もうワジーの邪魔したくないし、しないから…」
七於の言葉を聞いて、輪島の顔にサッと朱が差した。
「だからッ、邪魔なんかじゃねえってッ」
ビクッとして、七於は持っていたパンをギュッと握った。
卵がはみ出し、ぼとりとコンクリの上に落ちた。
「……ごめん」
低い声で輪島は謝ると、パンの袋の中からおしぼりを出して、ビニールの袋を破った。
七於の手から潰れたサンドイッチを取り、入っていた袋の中へ入れると、汚れた手をおしぼりで拭ってやった。
「ありがと…」
「なあ、確かに前よりは時間取れねえかもだけど、でも、俺にとっては七於との時間だって大事なんだ。それは分かってくれ」
「……うん」
七於が頷くと、輪島は力ない笑みを浮かべ、七於の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「勉強は?分かんねえとこ、無いのか?」
「……うん。ある…」
「なら、また一緒にやろう?」
「うん、ありがと…」
もう、頼らないと決めた七於だったが、こんな風に優しくされたら拒むことは出来なかった。
自分との時間も大切だと言ってくれたことが嬉しい。また、頭を撫でてくれたことも嬉しかった。
昼休みが終わる頃、輪島に電話が掛かって来て、七於は一人で屋上から降りて来た。
ドアを閉める時、笑みを浮かべた輪島の顔が僅かに上気しているのが見えた。
その顔から眼を逸らし、七於は階段を駆け下りた。
土曜日、休日出勤の父親と、友達と遊びに行くと言って母親が出掛けてしまうと、七於は家に一人になった。
勉強机に座り、教科書を広げたが、分からない処が沢山あって、溜め息をついてしまった。
だが、挫けてはいられない。
約束した通り、頑張ると決めたのだ。
分からないなりに一生懸命問題を解いていたが、2時間もすると、集中力が途切れて来て、七於を眠気が襲った。
シャーペンを持ったままうつらうつらし始め、やがて机の上に頬を乗せると眠ってしまった。
だが、誰かに髪を撫でられているのを感じて薄っすらと眼を開けた。
「だ…れ…?」
「布団で寝ろよ、七於。風邪ひくぞ」
「ん…」
頷いたが、七於はまた眼を閉じてしまった。
すると、こめかみの辺りに何かを感じた。
それは誰かの唇だったような気がした。
七於はまた薄っすらと眼を開いた。
「チュー…した…?」
「いいや…」
「チューして…?」
ぼんやりと七於が言うと、相手は少し間を開けてから答えた。
「チューは好きな人とするんだろ?」
「うん…。好きな人としたい…。ワジーとしたい…」
そう言って、七於ははっきりと眼を開けた。
困惑したような表情を浮かべた輪島が、七於を見ていた。
「鍵、開いてた…?」
「うん。ドアフォン鳴らしたけど、出なかったから」
「お母さん、忘れちゃったんだ、鍵…」
「そうか…」
「デート、行かないの…?」
七於が訊くと、輪島は少し躊躇ってから答えた。
「ちょっと、時間空いたから、七於の勉強見てやろうと思って」
コクッと頷くと、七於は両手で輪島の上着の裾を掴んだ。
言ってしまえば取り返しがつかないことは分かっていた。だがもう、胸が苦しくて耐えられなかった。
話せば楽になるかも知れない、と栗原が言った。
だったらもう、言ってしまおうと七於は思った。
「俺じゃ駄目?」
下を向いたままで七於が言うと、輪島が裾を掴んでいた七於の両手を掴んだ。
「俺じゃ、駄目…?」
今度は顔を上げてそう言うと、輪島を見上げた七於の眼から涙が溢れた。
「七於ッ…」
感極まったように名前を呼び、輪島は膝を突いて七於の身体を抱きしめた。
その身体に七於はしがみ付いた。
ギュッと力を籠められ胸が震える。期待などしていなかった筈が、もしかしたらと思ってしまう。
七於は恐怖と期待の入り混じった気持ちで輪島の言葉を待った。
「いつから、俺を…?おまえ、耀平のこと……」
苦しそうな輪島の声が七於の旋毛の辺りで聞こえた。
「わ…かんない…ッ。でも…」
いつの間にか、忘れられなくなっていた。
心を占めていた。
思い浮かべただけで、泣きたくなるほどに。
「好き……」
そう言って、七於は背中に回した手で輪島の上着をギュッと掴んだ。
「七於…ッ。俺だって、ずっとッ…」
輪島の腕に、更に力が籠る。折れそうな程に抱きしめられて、七於は嬉しさに、また心を震わせた。
だが、七於の頭の天辺に唇を押し付けると、輪島はゆっくりとその身体を離した。
涙の溜まった七於の目を見つめると、輪島は手を伸ばして七於の頬から涙を拭った。
「けど、駄目だ…。七於とは付き合えない」
辛そうに言った輪島の言葉を聞くなり、七於はぎゅっと目を瞑った。
その途端に、また涙が零れる。その涙を、輪島の指がまた拭った。
もう輪島には彼女がいる。だから最初から答えは分かっていた。
だが、好きだと言った自分に、俺もだと言ってくれたその言葉を聞いて、七於は諦め切れなかった。
「俺が男だから?」
「いや…、そうじゃない」
「じゃあ、馬鹿だから?ガキだから?あの人みたいに、綺麗じゃないから?」
「違うよ、七於…」
ギュッと手を握られて七於は黙った。
だが、言葉を探している輪島に震える声でまた言った。
「好きなだけじゃ…駄目…?」
「七於…」
七於の手を握っていた輪島の親指が、手の甲を何度も優しく撫でた。
「おまえの心は誰よりも綺麗だ。だから、傷ついて欲しくなくて、守りたくて、傍に居たかった。例え、おまえが耀平を好きでも、俺は黙って傍に居ようと思ってた…」
輪島のもう一方の手が、七於の空いている方の手を取り、七於の膝の上で繋がれた。
「けど、俺はおまえとは付き合えない。誰よりも好きだけど、でも、駄目なんだよ」
「どうして…?」
ポロポロと、また七於の目から涙が零れた。
輪島の手がまた七於の頬に伸びた。
「おまえは出来ないだろ?俺と…セックス…」
「え…?」
余りにも思い掛けない言葉に、七於は絶句した。
目を見開いたまま七於が見つめていると、輪島は悲し気にふっと笑った。
「今までは良かった。おまえの気持ちが俺にないって思ってたし、テキトウに遊んで紛らわせることも出来た。けど、おまえを手に入れられるんだって知ったら、俺は多分、その内に我慢出来なくなる。けど、七於には無理だって分かってるんだ。……おまえに怖がられたくない。でも、怖がらせるようなことを、きっとする」
そう言って輪島はまた、七於の手をギュッと握った。
「きっと俺はお前を壊す。……それが分かってて、恋人になるのは無理だ」
ヒクッと七於の喉が鳴った。
輪島は立ち上がると、両手で七於の頬を包んだ。
そして、ゆっくりと七於の額に唇を押し付けた。
「ごめんな…?」
もう1度、七於の涙を拭い、輪島は部屋を出て行った。