続 一緒に帰ろう
-7-
泣きながら、七於は輪島の言ったことを何度も考えてみた。
好きなだけじゃ駄目なのだろうか。心だけじゃなく、身体も伴わなければ、恋愛とは言えないのだろうか。
確かに自分は、耀平にも佐羽子にも言われた通り、性的に幼いだろう。
だから、同じ年頃の若者のように、性行為に対する欲求も余り感じたことがない。
その上、暴行された記憶が、今でも七於を苛んでいた。
だから、例え相手が大好きな輪島だとしても、受け入れられる自信がなかった。
「好きって、言ってくれたのに…」
自分の幼さの所為で、輪島にもきっと辛い思いをさせているのだと七於は思った。
ぼんやりと見ていると、窓に水滴が当たるのを感じて、のろのろと立ち上がった。
昼間は晴れていたのに、今は雨が降っていた。
あの日、輪島とミナが1本の傘で仲良く帰って行ったのを思い出した。
七於は上着を羽織ると、部屋のドアを開けた。
何処かへ行きたかった訳ではない。だが、傘を差して歩きたかった。
七於は当てもなく、雨の中を歩いた。
こうして歩くと、同じ傘に入っている二人を余り見掛けない。
だが、少し離れた所に1本の傘に入って歩いている男女が居た。
そして、その男の方に七於は見覚えがあった。
駅の方へ歩いていく女性と別れて傘の下から出ると、栗原は店の軒下に入った。
見ると、自分は傘を持っていないようだった。
七於が前に立つと栗原は驚いた顔をした。
「信田…」
傘を差し掛けると、栗原は笑った。
「いいよ。俺んち、ここから近いんだ。大した雨じゃねえし」
「でも…」
傘を差し掛けたままで七於が躊躇っていると、栗原はまた苦笑した。
「ほんとにお人好しだな、おまえ」
そう言って傘を受け取ると、栗原は七於の腕を掴んで濡れないように引き寄せた。
「なんか食わねえ?奢るよ」
「えっ?い、いいよ…」
「いいから。ハンバーガーでいいか?」
そう言うと、栗原は七於を引っ張ってすぐ近くのハンバーガー店に入った。
七於と自分にハンバーガーのセットを買うと、栗原はトレイを持って窓際の席に座った。
七於は躊躇っていたが、おずおずとその前に腰を下ろした。
「さっきの人…、彼女?」
「ああ、いや…。まあ、…セフレ?」
その意味が分からず、七於は怪訝そうな顔で訊いた。
「セフレ?」
すると、栗原は苦笑して答えた。
「まあ、そうだな…、彼女じゃねえけど、エッチはする相手?」
栗原の答えを聞いて、七於は真っ赤になった。
「そうだろうな。信田には、そういうの信じられねえだろ」
「……どうして、彼女にならないの?その…、エッチしてるのに…」
七於が訊くと、栗原は咀嚼していたハンバーガーを飲み込んだ。
「俺はなってもいいけどな。今は他に女がいる訳じゃねえし…。けど、あっちは彼氏いるからな。遠恋であんま会えねえから、寂しいんだろ」
七於にはその感覚が理解出来なかった。
寂しいからと言って、彼氏の他にセックスだけする相手が居るなんて信じられない。
黙り込んだ七於を見て、栗原は眉を寄せて少し身を乗り出した。
「どうかしたのか?」
迷ったが、七於は顔を上げて栗原を見た。
「その……、エッチって、絶対しなきゃ駄目?しないと、恋人にはなれないの?」
思い掛けない七於の問いに、栗原は眉を寄せたまま、じっとその顔を見つめた。
「誰か、好きなヤツが居るんか?」
迷ったが、七於はコクンと頷いた。
「ふぅん……」
少し困ったような顔をして、栗原はストローを咥えてコーラを飲んだ。
「まあ、絶対って訳じゃねえだろうけどな…。でもよ、普通、好きなら触りたくなんだろ?触ったら、触るだけじゃ満足出来なくなるんじゃねえ?」
「触ったら……」
七於が呟くと、栗原は少し辛そうな顔になった。
「おまえには、トラウマ与えちまったからな…。怖いんか?触られるの…」
心配そうに訊かれ、七於は首を振った。
「少し前までは怖かったけど、今はもう平気…。腕とか肩とかは大丈夫。でも、知らない人は、まだ怖い…」
「そうか…」
輪島には抱きしめられても平気だった。きっと、誰よりも今の七於に触れられるのは輪島だろう。
だが、どこまで自分が耐えられるのか七於自身にも分からなかった。
「チューとかだけじゃ駄目かな…」
悲し気な七於の呟きを聞いて、栗原はまた辛そうな顔になった。
ハンバーガーを食べ終え外に出ると、雨はもう止んでいた。
暗いので送ってくれると栗原が言い、七於は彼に家の近くまで送ってもらった。
「今はエッチしなくても、おまえのことが本当に好きなら、待っててくれるよ」
別れ間際に、栗原はそう言って七於を慰めてくれた。
それに、七於はただ、
「うん…」
と答えた。
家に帰って、もう帰っていた母親に“ただいま”を言うと、七於は部屋に行った。
そして、栗原の言葉を思い出して溜め息をつくと、ベッドに横になった。
“好きなら触りたい”
自分はどうなのだろうか。
輪島に触りたいと思っているのだろうか。
目を閉じて、輪島の顔を思い浮かべると、七於は会いたくて堪らなくなった。
そして、会いたいだけではなく、確かに自分は輪島に触れて、そして触れられたいのだと感じた。
「俺も…、触りたい…。ワジーに触りたい」
そう言うと、七於は輪島にされたキスを思い出して、自分の唇に触れた。
激しくて、怖かった。だが、嫌ではなかった。
あの時の七於は、唇を合わせるだけのキスさえしたことがなかったが、輪島のキスは確かに身体を熱くさせた。
「ワジー、彼女とはしてるのかなぁ…。エッチも…、してるんだよね…?」
口に出すと、辛くて堪らなくなった。
他の誰にも、触れて欲しくない。誰のことも抱いて欲しくない。
嫉妬と言える感情が、これほど激しく湧き上がるのを今まで七於は経験したことがなかった。
以前、耀平が自分のことを見てくれなくなって、砂羽子に嫉妬したこともあった。
だが、それはこんなに激しいものではなかった。
胸が締め付けられて、息も出来ない程の想いではなかった。
「俺…ッ」
輪島とのキス、そして、彼が自分の性器に与えてくれた愛撫を思い出し、七於は体を丸めた。
あの時は、怖くて泣いた。
だが、それは輪島が怖かったのではない。体験したことのないセックスに繋がる、あの行為自体が怖かった。
輪島の手は自分に初めて快感というものを教えた手だ。
それを思い出すだけで熱くなってくる。経験したことのない熱が湧き上がってくるのが分かって、七於は戸惑った。
苦しくて、ズボンのファスナーを開けると手を差し込んだ。
「あ…」
硬くなっていたそれに気づき、自分でも驚く。だが、すぐにまた、輪島の手を思い出した。
何度も嫌だと言ったのに、輪島は止めてくれなかった。嫌だったのは、知らなかった快感を知って、それが怖かったからだ。
輪島は、自分が怖がらせるに違いないと言ったが、そうではないのだ。
勃起した性器が熱を持って、苦しくて、七於は扱き始めた。
「うくッ…」
先走りで濡れ、スムーズに動き出すと、快感が増した。
顔を枕に押し付け、七於は自慰を続けた。
(ワジー…)
あの時、輪島がどうしたのか、余り覚えてはいなかった。だが、自慰をする七於の脳裏には、輪島の姿が浮かんでいた。
屋上でよくしてくれたように、後ろから輪島に抱えられ性器を扱かれている。
初めて妄想しながら、七於は快感に溺れようとしていた。
「ん…っ、ん…」
自分で声を漏らしていることにも気付かず、七於は絶頂を迎えようとしていた。
「あっ…」
突然、達し、七於は声を上げた。
「んーーッ」
ビクビクと震えながら精を吐き出すと、荒い息を吐きながら、七於は汚れた自分の手を見た。
「ワジー、……俺…俺…」
ハーッと息を吐き、七於は眼を閉じた。
「俺…、やっぱり、ワジーが好き…」
翌日の日曜日、七於は輪島の家へ行く為に家を出た。
もう1度、輪島に会って、話がしたかった。
輪島が望んでくれるなら、何でも出来るような気がした。だから、もう1度、自分にチャンスを与えて欲しい。
留守かも知れない。
彼女とデートしているのかも知れない。
でも、もしそうでも、七於は輪島の帰りを待つつもりだった。
会いたい一心だったが、いざ、輪島の家の前まで来ると足が震えてしまった。
“帰れ”と言われたら、きっと泣いてしまうだろう。
そして、きっとそんな自分を益々嫌いになるだろう。
(こんなんだから駄目なんだ。ワジーにも心配だけさせて、何も出来ない…。だから、俺じゃ駄目って言われたんだ)
七於は何度か深呼吸すると、玄関のチャイムを押した。
暫くして、朱莉が顔を出した。
「あら、七於くん」
にっこりと笑われて、七於はペコッと頭を下げた。
「こ、こんにちは…」
「この前はごめんね?追い出すようなことしちゃって」
済まなそうに言った朱莉に七於は首を振った。
「い、いえ…。あの…」
「丈二?今ちょっと出掛けてるの。来客中だから、中で待っててって訳にもいかないのよ。ごめんね?」
「いえ…。じゃ、また…」
頭を下げて七於はのろのろと門を出た。
輪島が何時頃帰って来るのか訊けば良かったと思ったが、気後れがして、もう戻る気にはなれなかった。
輪島の家の前には広い緑地帯があって、ずっと木が植わっている。所々に、ベンチとまでは言えないが、腰を乗せられるような木の腰掛もあった。
ここで待っていれば、輪島が帰って来るのが見えるかも知れない。七於はそう思って、緑地帯の中に入ると木の陰に腰を下ろした。
時々、幹の陰から顔を出して確認したが、輪島が帰って来る様子はなかった。
溜め息をついて、また前を向くと、七於は幹に頭を預けた。
今日は遅くなるのかも知れない。ここで待っていても無駄かも知れない。
だが、七於は輪島に会うまでは帰りたくなかった。
暫くして、ガレージから車が出て来る音が聞こえて、七於はまた幹の陰から顔を出した。
すると、輪島の母親と朱莉と一緒に、あの女性が玄関から出て来るのが見えた。
その姿を確認して、七於は思わず腰を浮かせた。
来客とはミナのことだったらしい。
ミナと輪島家は家族ぐるみの付き合いなのか、3人はとても親しげだった。
胸が詰まるような気持ちで七於が見ていると、どこから走って来たのか、輪島が息を切らせて3人の前で止まった。
「間に合ってよかった…」
荒い息を整え、輪島はそう言うと、ミナに綺麗な紙袋を渡した。
「これって、私の好きな?」
ミナが嬉しそうに見上げると、輪島も笑顔になって言った。
「日持ちしないから、開店するのを待って買って来たんだけど、時間ギリだったから焦ったよ」
「ありがとう、丈二。このお店遠いのに…」
「いや…、俺からの餞別」
「丈二…」
ミナは切なそうな顔になると、輪島の腰に腕を回した。
「ありがとう、丈二。全部、丈二のお陰…。絶対に忘れないから…」
「いや、俺も楽しかった。……元気でな?」
「うん…」
頷いたミナをギュッと抱きしめると、輪島は彼女を離した。
ミナは皆に頷くと、ガレージから出て路駐していた車に乗り込んだ。
母親と姉が窓から中を覗き、ミナと運転席にいる誰かに何か話し掛けているようだった。
やがて、皆が離れ、車は発車した。
遠ざかっていくのを見送り、母親と朱莉は家に入って行った。
(どこ行ったの…?)
七於にはそれが長い別れのように感じ、いつの間にか幹の陰から出て、去って行った車の方を見ていた。
「七於…」
呼ばれてハッとして七於が振り返ると、まだ外に居た輪島が驚いた顔でこちらを見ていた。
「ワジ……」
近づいて来た輪島の目を見ていられなくて、七於は目を伏せた。
きっと叱られると思った。何故来たのかと、詰られると思った。
だが、輪島の優しい手が項垂れた七於の頭に乗った。
くしゃっと髪を撫でられ、七於はゆっくりと顔を上げた。
「ごめんな…さい…」
「何で謝る?」
訊かれて首を振ると、七於はまた言った。
「ごめんなさい…。昨日のことも、謝りたかった」
「だから、何で七於が謝るんだ?傷つけたのは俺だろ?」
そう言われて、七於はまた首を振った。
「俺、鈍いから、いつも気が付かなくて、馬鹿だから何にも分かんなくて、それなのに甘えてばっかで…。でも…でも、会いたくて…ッ」
自分の気持ちをどう言えばいいのか、上手く表現することが出来ない。それが、もどかしくて、七於は辛かった。
だが、見上げた七於の頭に、また輪島の手が乗った。