涙の後で


ー第10部ー

卒業式が終わった後で、俺は母と正孝さんに先に帰ってくれるように頼み、慶と楠田と講堂の中でもう1度合流した。
両親と一緒に帰る卒業生たちは、あちこちで記念撮影をした後で、大抵は両親の車に乗って帰って行った。
だが、帰らずに寮へ向かう生徒もちらほら居て、俺たちと同じように名残惜しいのだろうと思った。
中には、下級生と付き合っていて別れを惜しみに寮の部屋を訪ねる者もいただろう。俺も、式の後で寮に行くと有川と約束していた。
そろそろ寮が見えてくる辺りまで来ると、俺たちは待っていた下級生の集団に捉まってしまった。
確か、真藤先輩が卒業した時もこんな風だったと思い出し、俺は慶を見上げた。
きっと、最後だからと勇気を出して、慶に話しかけたいと待っていたのだろうと思ったのだ。
だが、驚いたことに半数以上が俺を取り囲んで手を差し伸べてきた。
「千冬先輩、卒業おめでとうございます。最後に握手してください」
「え?え?あ、ありがとう…」
面食らったままで手を差し出し、俺は次々と下級生の手を握った。
見ると、慶と楠田も同じように握手をしていた。
さすがの慶も、最後のお願いは聞かない訳にもいかなかったのだろう。少々迷惑そうではあったが、笑みを浮かべて握手を交わしていた。
一緒に写真を撮り、礼や励ましの言葉を言って、握手を終えた下級生は次々と俺たちから離れて行った。すると、俺の手を最後に握った下級生が、離そうとした俺の手を力強くぎゅっと握った。
「済みませんッ」
急に謝られて驚いて見上げると、さっと引き寄せられ、俺は逃げる間もなく唇を奪われていた。
吃驚して、俺が固まっていると、その下級生は脱兎の如く走り去って行った。
「ち、千冬ッ、大丈夫か?」
慶も驚いて、眼を見開いたままの俺に言った。
「う…、うん。吃驚した…」
俺が呆然としたままで答えると、楠田は手を額に翳して逃げた下級生が走り去った方を眺めた。
「最後だからって、思い切ったことを…」
笑いながらそう言い、楠田は俺の方を振り返った。
「まあ、許してやれよ。バレたら有川にボコられる覚悟で勇気を出したんだろ。それに、高梁に近づきたくても近づけなかった奴らは沢山いたんだから。俺も、何とかならないかって何度か相談されたよ」
「えっ?そんなこと、一言も言わなかったじゃないか」
驚いて俺が言うと、楠田は肩を竦めた。
「だーれが、そんなこと教えてやるか、忌々しい。絶対に俺の方が可愛いのに、その俺に相談するとはけしからんだろ?」
楠田の言葉に、慶が吹き出して笑った。
「ほら、テラスに行こう。今日は俺が奢るよ」
まだ笑いながら、俺たちの肩を叩き、慶が言った。
すると、向こうから有川が走って来るのが見えた。
俺たちが手を上げると、有川は笑顔になって手を上げ走り寄って来た。
「テラスでお茶飲もうってことになって…」
俺が言うと、有川は笑みを浮かべたままで頷いた。
「いいですね。一緒しても?」
慶と楠田の方を見て有川が言うと、二人ともすぐに頷いた。
有川が手を繋いできたが、俺は離さずそのまま指を絡めた。明日からは居なくなるのだし、もう誰に遠慮することもないだろうと思ったのだ。
「ほーらね?あれだもん、近づきたくても無理だろ?」
わざと声を顰めるふりをして楠田が慶に言った。
すると慶は笑みを浮かべて頷いたが、すぐに眼を逸らして前を向いてしまった。
それを見て、俺は少し心がざわついたが、それを振り切るようにして有川を見上げた。
「後で部屋に行っていい?」
「勿論…。帰りは駅まで送るから…」
切なそうな眼で見つめられ、俺はまた少し不安になった。
まさか本当に、これが最後なのだろうか。

テラスに着くと、言っていた通りに慶が奢ると言って、食堂の中へ入って行った。
出て来た時にはトレイに全員分の飲み物と、それからプリンを載せて運んで来た。
「おばちゃんたちが、千冬に卒業祝いだって…」
笑いながらそう言い、慶は俺の前にプリンを置いた。
「え…?俺に…?」
俺が驚くと、慶は残っていたもう一つのプリンを今度は楠田の前に置いた。
「それからついでに、楠田にもだって」
「ついでって何だよ」
膨れたが、楠田はすぐにプリンに手を伸ばした。
「まあ、食べてやるけどさ…」
その様子を見ながらくすくす笑い、慶は俺に言った。
「あちこちにファンがいるなぁ、千冬」
「そんな…。後でお礼言ってくる」
俺が恐縮しながらプリンに手を伸ばすと、今度は有川が言った。
「千冬さんがご飯残すと、おばちゃんたち何時も心配してましたもんね?」
「よっぽどひ弱そうに見えたんだろ」
苦笑しながら俺が言うと、楠田がプリンのスプーンを振りながら言った。
「なんかあると、すぐに食えなくなるからなぁ、高梁は。もちっと、図太くなれよ」
「楠田先輩を見習って?」
有川がからかうと、楠田は怖い目つきをして爪を立てる真似をした。
「そう言えば、いいの?楠田…。吉野に会いに行かなくて」
伊藤先輩が卒業した後で付き合っていた下級生のことを聞くと、楠田は少し唇を歪めた。
「卒業したらさよならだって、はっきり言われたし、もういいよ。まあ、俺もそのつもりだったしね…」
楠田の言葉に、俺はまた不安な気持ちになった。
だが、それを出さないようにして、プリンを口に運んだ。


思い出話に花が咲き、俺たちはテラスで1時間ほどを過ごした。
その後で、寮に戻る有川に俺が付いて行き、慶と楠田はバス停に向かって学校を後にした。
有川の部屋には当然、ルームメイトが居たので、俺は遠慮がちに入って行ったのだが、気を利かせた彼が談話室へ行くと言って二人きりにしてくれた。
有川のベッドに並んで座り、俺はその身体に腕を回した。
しがみつく様にして肩の上に頬を押し付けると、有川の腕が身体に回された。
そして暫くの間、そのままじっと黙って抱き合っていた。
言葉を口にすると、きっと泣いてしまうと思った。
有川に、すぐにまた会えると言って欲しかった。
約束して欲しかった。
だが、有川も黙ったまま、ただ俺の身体を痛いほど抱きしめただけだった。
「電話するね?それから…、会いに来るから…」
やっと俺が言うと、有川が頷いた。
「うん…。俺も電話する」
顔を上げると、泣きそうな眼が俺を見ていた。
「……離れたくない…」
有川の言葉に、俺は頷くことしか出来なかった。

言葉はそれで終わりだった。
それから、何度も、何度もキスをし、俺たちは部屋を出た。



卒業式の翌週、俺はまだ感慨深い気持ちのままで瑠依子ちゃんに会う為に電車に乗った。
何時ものように、慶が駅まで迎えに来てくれることになっていたが、卒業して同級生としてではなく会うのだと思うと、なんだかおかしな気分だった。
慶は大学へ進学するだけではなく、就職も決めなければならないのだが、正社員として勤めるつもりはないので、大学の近くでアルバイトを探すと言っていた。
だからまだ、焦る気持ちはないのだろう。妥協せずに、自分の条件に合う仕事を探すつもりらしかった。
「ごめん…。迎えに来てくれなくても、もう一人で行けたんだけど…」
改札を抜けると、待っていた慶に俺は言った。
「何言ってるんだ。無理言ってわざわざ来てもらったのに、迎えに来なかったら罰が当たる」
慶の言葉に俺は慌てて言った。
「や、やめてよ、そんな…。俺だって瑠依子ちゃんに会いたくて来てるんだから」
「ありがとう。病院へ行く前にお茶しよう」
「い、いいよ…」
奢ってくれるつもりだと分かったので断ろうとすると、慶は俺の手を掴んで引いた。
「いいから。駅前に美味しいケーキ屋が出来たんだって。千冬が来たら食べさせようと思ってたんだ」
「で、でも…ッ」
躊躇う俺の手を握ったまま、慶は構わずに引っ張って歩き出した。
俺は周りの目が気になって慌てて慶の後を追うと、その手を取り戻した。
「わ、分かった。じゃあ、奢ってもらうから」
「あ、うん。ごめん…」
無理やり手を引き抜かれて、公衆の面前だと気づいたらしく、慶は苦笑しながら言った。
慶はケーキ屋と言ったが、その店はカフェにもなっていて、テイクアウトと両方出来るらしかった。
ガラスケースに並んだ綺麗なケーキに目移りしながら何とかひとつを選び、ケーキとセットでアイスティーを頼んだ。
ケーキは本当に美味しくて、一口食べると止まらなくなり、俺はすぐに食べてしまった。
甘いものが苦手な慶はケーキは食べないのかと思ったが、珍しくフルーツのタルトとアイスコーヒーのセットを頼んだ。
どうやら、俺にだけ食べろと言うと遠慮すると思ったらしい。
だが、甘酸っぱいフルーツの部分を食べてしまうと、甘いクリームの方は持て余しているらしく、ちょびちょびと突いては口に運んでいる。俺は可笑しくなって、脇から手を伸ばした。
「俺が食べるよ。いい?」
慶の食べ掛けを食べたことなどなかったが、俺たちはもう、遠慮せずにそういうことをしてもいい間柄なのだと思えた。
「悪い…」
慶も苦笑しながらそう言い、食べ残しのケーキが乗った皿を俺の方へ押して寄越した。
「なんなら、新しいのをもうひとつ食べてもいいぞ。頼んで来れば?」
慶に言われて俺は首を振った。
「いいよ。帰りにお土産用に買っていく。母にも食べさせたいし」
俺が言うと、慶は少し表情を曇らせた。
「今日は泊まっていってくれないんだ?」
「え…?でも、何も準備してこなかったし、それに、毎回泊めて貰ったら悪いよ。お母さんだって忙しいのに、気を遣わせるし」
「そんなことないよ。母も親父も千冬が来るって言ったら、会えるのを楽しみにしてたんだから」
そう言われると、帰るとは言えなくなってしまった。
勿論、俺に気を遣っての言葉だろうが、歓迎してくれるのだと思うと嬉しかった。
「本当言うとな、瑠依子、大分凹んでたんだ」
「え…?」
「最初の頃こそ、友達も来てくれたけど、長く入院してると段々家族以外は来てくれなくなる。残酷だけど、友達は今傍にいる相手の事をより多く考えるものだろうし、ましてや瑠依子は、学校に行っていた日数が少ないから、深く付き合っていた友達も居ない。だから、幾ら家族が毎日行くといっても孤独なんだろうと思うんだ」
「そう…」
「自分が忘れられた存在のように感じるって、前に言ったことがある。俺は何て言って慰めていいのか分からなかった。……だから」
笑みを浮かべて、慶はテーブルの上の俺の手に自分の手を載せた。
「千冬が来てくれるのを、瑠依子だけじゃなく、家族全員が感謝してる。本当にありがとう」
「ま、またそんな…。大袈裟だって、本当に」
自分の顔が赤くなっているのが分かり、俺は恥ずかしくて下を向いた。 慶に掴まれている手が緊張してキュッと強張る。さっきといい、今といい、慶も瑠依子ちゃんと同じく人恋しくなっているのだろうか。
そして俺は、急に思い出した。そう言えば、例の彼女とはどうなったのだろう。
余り会っていないようなことを言っていたが、その後はどうなったのか聞いていなかった。
「ああ。結局、俺が卒業すると同時に別れたよ。遠距離なんて無理だってはっきり言われた。っていうか、もう別れたかったんだと思う。卒業がいい切っ掛けだったんだろ」
そう言って苦笑した慶は、覚悟していたせいか、然程悲しそうには見えなかった。
俺はと言えば、慶が彼女と別れたと聞いて少し心が安らいだのを感じた。
親友という関係になれるのかも知れないと思っていた癖に、俺はまだ心の何処かで慶のことを諦められずにいるのだろうか。
有川と離れ離れになることをあんなにも辛く思っていたのに、そして今も、不安で堪らないというのに、浅ましくもまだ未練を捨て切れないのだろうか。