涙の後で


-2-

お茶を飲み終えて、店を出る前に、俺はやっぱりケーキを買った。
母へのお土産ではなく、瑠依子ちゃんにも食べさせたいと思ったからだ。
それを持ってバスに乗り、俺たちは瑠依子ちゃんの病院へ向かった。
何度も訪ねた病室の前で慶が声を掛けると、中から瑠依子ちゃんの返事が聞こえたが、その声は思っていたよりもか細かった。
「あ、千冬さん…ッ」
俺の姿を見て、嬉しそうに笑ってくれた瑠依子ちゃんだったが、この前会った時よりもさらに痩せたように感じた。
「こんにちは。もっと早く来られなくてごめんね?」
「ううん。来てくれて嬉しい。あ…、ご卒業おめでとうございます」
頭を下げられて俺は笑った。
「ありがとう。でもまだ、実感湧かないよ」
言いながら、俺は瑠依子ちゃんの前にケーキの箱を置いた。
「お土産。もう食べたかも知れないけど、駅前の新しいケーキ屋さんのだよ。今、俺も慶にご馳走になって来たんだ」
「わぁ、ありがとう」
目を輝かせた瑠依子ちゃんを見て、俺も嬉しくなった。
「聞いてはいたんだけど、まだ食べてないの。わ…、美味しそう」
箱を開けた瑠依子ちゃんはそう言って嬉しそうにケーキを眺めたが、手を伸ばそうとはしなかった。
「凄く食べたいけど、後で頂きます。ご飯を食べたばかりだから…」
瑠依子ちゃんの言葉に俺は頷いたが、昼食の時間はもう大分前だった筈だ。もしかすると、具合が悪くて食欲が無いのだろうか。
心配になったが、それを口に出せば、却って瑠依子ちゃんを困らせるだろうと思った。
卒業式の様子や、猫の千秋の話、それから今度引っ越すアパートのことなど瑠依子ちゃんに話して聞かせ、1時間ほど過ごしてから俺たちは病院を出た。
瑠依子ちゃんはもっと居て欲しそうだったが、あまり長く話をしていても疲れさせてしまうのが分かっていたので、明日また来ると約束して帰ることにしたのだ。
「慶……」
とうとう、瑠依子ちゃんは俺が持って来たケーキを食べようとはしなかった。やはり、食欲が無いのだろうか。
俺が袖を引くと、慶は少し暗い顔で頷いた。
「うん。あまり調子良くないんだ。でも、千冬の顔を見たら随分元気になったよ」
「でも、大好きなケーキも食べないし…」
「千冬…」
思わず涙ぐみそうになった俺の手を慶が掴んだ。
「大丈夫だよ。こんなことは何度もあったんだ。でも、また良くなるから」
「ん…」
俺が頷くと、慶はまるで慰めるようにして俺の手を摩った。
「ごめんな?千冬。でも、本当に大丈夫だから、そんなに気にしないでくれ」
「うん…」
頷いて見せたが、俺の不安感は消えなかった。
掴んだ慶の手を離せなくて、繋いだまま歩き出したが、慶はバス停に着くまで手を離さずにいてくれた。
ベンチに並んで腰を下ろすと、ポケットの中で慶の携帯が鳴った。
「もしもし?うん、今バス停だけど…。え?いいよ。バスの時間見たら、10分ぐらいで来るみたいだし……。え?そう?うん、じゃあ待ってる」
電話を切ると、慶が俺を見て言った。
「親父が今、車で来て送って行くって。丁度、用事で出かける所だったらしい」
「そうなの?」
俺が訊き返すと、慶は苦笑しながら頷いた。
「まあ、半分は本当だと思うよ。でも、半分は千冬に会いたいからだろ」
「え…?」
ちょっと恥ずかしくなって、俺は頬を熱くした。
慶の父親がそんなに俺を気に入ってくれるとは思っていなかった。でも、嬉しい気持ちなのは確かだった。
慶がそのまま年を取ったような院長は紳士的で素敵な人だった。俺は、もしかすると慶の父親に憧れのような気持ちを抱いていたのかも知れない。
間もなく、国産だったが高級なダークグレーのセダンが俺たちの目の前に停まり、すぐに窓が開いて、笑顔の院長が顔を覗かせた。
「やあ、千冬君。また会えて嬉しいよ」
「こんにちは。お言葉に甘えて、またお邪魔します」
俺が頭を下げると、院長は頷いて車に乗るように言った。
俺と慶が後部座席に乗り込むと、院長はすぐに車を発車させた。
「今夜は遅くなるから会えないかも知れないけど、今、顔を見れて良かったよ。少し、大人っぽくなったんじゃないか?」
フロントミラーで俺の顔を見ながら院長は言った。
「そ、そんなに急に変わりませんよ」
息子である慶の前で言われて、俺は恥ずかしさに赤くなった。
そんな俺を見て、慶は楽しげにクスクス笑った。
見ると、院長も笑っているのかフロントミラーに映った目の端に優しげな皺が寄っているのが見えた。
自分の父が生きていたら、今の俺を見て何て言うだろうか。
ふと、そんなことを考えて、少しだけ胸がきゅんとした。
もう絶対に声を掛けてくれない父の姿を、俺は少しだけ院長の背中に追っていたのかも知れない。
家に着くと、俺たちを降ろして院長はそのまま出かけてしまった。
その後は何時ものように院長夫人の歓迎を受け、いつも使っている客室に落ち着いた。
泊まるつもりはなかったので、何も用意してきていなかったが、下着は慶の新しい物を借り、それからやはり慶のパジャマを借りた。
スエットの上下だったが、サイズの違いはどうにもならない。腕をたくし上げても、すぐに落ちて来て指先だけしか見えなくなった。
それを着て風呂から居間に戻ると、慶が吹き出すようにして笑った。
「お、おかしい?」
ぶかぶかのパジャマがだらしなく見えるのだろうかと思い、俺は必死でズボンを引き上げた。
「い、いや……おかしくないよ」
そうは言ったが、慶はまだ笑っている。
夫人は首を振ると、ちょっと怒った顔をして見せて慶を小突く振りをした。
「そんなに笑ったら駄目でしょう?千冬さん、おかしくないわよ。慶さんは可愛いから笑ったのよ」
「か、可愛いって…」
慶がそんなことを思う訳はないと分かっていたが、俺を慰めようとした夫人が選んだ言葉で、余計に恥ずかしくなってしまった。
「いや、マジに可愛いと思って…。千冬ってそんなに俺とサイズ違うんだな」
「俺が小さいんじゃない。慶がでっかいんだ」
俺が少し怒った調子で言うと、慶はまた吹き出した。
そう言えば、このパジャマは洗ってあるとはいえ、慶の着たものだった。それを思うと、少しだけ胸がときめくのを感じた。
夫人から冷たい飲み物をもらい、部屋に戻ると、俺は携帯を出して有川にメールを打った。
さっき感じた気持ちが少し後ろめたい。
出来れば、有川の声を聞いて自分を戒めたいと思った。
だが、何時まで待っても有川からの返信は来なかった。
毎晩、メールし合ったり電話し合ったりして、土曜日には会いに行くと知らせてあった。待ち合わせの時間なども相談したいと思っていたのだが、何かあったのだろうか。
春休みになると、やはり実家の手伝いで忙しいと言っていたが、それ以外は変わった様子はなかった。
だが、もしかすると、俺に心配させまいとして隠しているのかも知れない。
「駄目だな、俺…」
携帯の画面を眺めたままで、俺は呟いた。
ほんの少しのことで、こうしてすぐに不安になる。何時まで経っても、弱い心を抱えたままだった。
溜め息をついてベッドの上で仰向けになる。
天井を眺めると、瑠依子ちゃんのやつれた顔が浮かんだ。
随分調子が悪そうだったのに、俺に気を遣わせまいとしてか、元気そうに振舞っていた。
彼女に会う度に、俺は何時でも自分の不甲斐なさが嫌になる。
長い間、病気に悩まされていながら、瑠依子ちゃんはその綺麗な心を少しも損なわない。人を気遣い、誰にでも優しく出来る子だった。
「俺なんか、何の役に立つんだろ?」
瑠依子ちゃんが喜ぶから、と慶は言ってくれるが、俺はただここへ来て夫人の厄介になっているだけのような気がしてならない。
そう思うと、また口をついて深い溜め息が出た。
ごろごろしていて、そのまま眠ってしまったらしく、誰かに声を掛けられたような気がしたが、その声は随分遠くの方で聞こえるようで目が覚めなかった。
「風邪ひくぞ」
そう言って俺を布団の中に入れたのは、慶だったのだろうか。それとも、院長だったのだろうか。



朝になって目覚めると、俺はちゃんと布団の中に居た。手に持っていた筈の携帯電話は、枕の向こうに落ちていた。
すぐに確かめてみたが、やはり有川からの返信は無かった。
不安な気持ちのまま、俺は大きく息を吐くと、両手で顔を擦った。
今日は返信をくれるだろうか。
もし、くれなかったら思い切って電話してみようかと思った。
たった1日、連絡が取れないくらいで大袈裟だとは思ったが、卒業と同時に自分たちの関係は終わるのかも知れないと、ずっと不安に思っていた俺にとって、有川からの返信がない事は恐怖にも近いことだったのだ。
「嫌だからッ。これで終わりとか、嫌だから……ッ」
思わず呟いて、俺は両腕を目の上に載せた。

無性に寂しくなって、俺は起き上がるとパジャマのまま部屋を出た。
寝坊の慶が起きている訳はないと分かっていたが、慶の部屋に行ってそっとドアを開けた。
部屋の中は、もう大分荷造りが済んでいて、引っ越し用の段ボールが幾つか積まれていた。
ベッドを見ると、やはり、慶はよく眠っていた。
半分うつ伏せで、顔はよく見えなかったが枕を抱えた腕は裸だった。もしかすると、俺にパジャマを貸してしまったので、自分の分が無かったのだろうか。
詰めてしまった荷物の中から出すのが、面倒だったのかも知れない。
そう思うとおかしくなって、俺は少し笑った。
以前、眠る慶の唇を盗んだこともあった。
あの時、眠っている自分の兄に、友達の俺がキスするのを見てしまった瑠依子ちゃんの衝撃は、一体どれ程のものだったのだろうか。
きっと、あの小さな胸に納めておくには大き過ぎる出来事だったろう。
それなのに、瑠依子ちゃんは誰にも言わず、俺を守ってくれた。俺の卑劣な行為を許してくれたのだ。
あの優しい少女がこのまま良くならなかったら。そう思うと、身体が震えてくるようだった。
こんなことは前にもあった、と慶は言っていた。また良くなるから心配するなとも。
夫人も、俺たちの前で瑠依子ちゃんのことを口にすることは無かったが、きっと随分心配しているに違いない。
口には出さなくても、家族全員が瑠依子ちゃんのことを気に掛けているのが分かった。
瑠衣子ちゃんの病状が心配なのと、有川が返事をくれないことの二つが俺を酷く不安にさせていた。
一人で居るのが辛くて、こうして来てしまったが、慶を起こすのは気が引けて、俺はただそっと手を伸ばして彼の髪に触れた。
これぐらいでは慶が起きないことぐらい、3年間の付き合いで知っている。俺は、友井先輩からのラブコールがあった間を除いて、慶の目覚まし代わりだったのだから。
だが、丁度眠りが浅くなった時だったのか、髪を触ると慶は身動きをして薄っすらと目を開けた。
「千冬…?もう、朝か?」
俺は手を引込めると首を振った。
「うん。でも、まだ早いよ。寝てていいよ」
俺が言うと、慶は伸びをしてはっきりと目を開いた。
「どうかした?」
「ううん。ごめんね?起こして…。目が冴えちゃって、本でも借りようと思っただけだから」
俺が言うと、慶は手を伸ばしてヘッドボードに置いてある時計を取った。
「6時15分か…。んー…、もう少し寝るよ。本は適当に持ってって」
「うん、ごめん…」
時計を置いて寝返りを打とうとした慶にそう言うと、俺は立ち上がろうとした。
だが、慶に手を掴まれて驚いて振り返った。
「千冬?本当は何か話があったんじゃないのか?」
じっと見つめられて、俺は首を振った。
「ううん…、無いよ。何にも……」
「嘘だ」
「慶……」
掴まれた手を取り戻そうとしてグッと引いたが、慶は離してくれなかった。
すると、その時、俺のポケットに入れてあった携帯から着信音が響いた。
「あ、ごめん。俺、戻る…」
そう言うと、俺は携帯に目をやりながら慶に背を向けた。
メールは待っていた有川からの物だった。
急いで開くと、先ず、返事をしなかったことへの謝罪の言葉から始まっていた。
昨夜は疲れて早く寝てしまったこと。携帯の電源を切ったまま忘れていたこと。そして、俺の引っ越しが済んだら、下宿先の方へ会いに行くからとのことだった。
引っ越しは今度の日曜日に決まっていた。引っ越し業者にも頼むのだが、母と正孝さんも一緒に来てくれるつもりらしかったので、休みの日じゃないと拙かったのだ。
「それまで会えないってことなんだ……」
引っ越す前に、俺の方から有川の家に会いに行くつもりだったのだが、もしかするとそれは迷惑だったのかも知れない。
やっぱり、俺が卒業してしまうと、前のような熱は冷めてしまったのだろうか。だから、自分の方に来られるのは少し面倒な気がするのだろうか。
そう考えると悲しくなった。
だが、会いに来てくれる気持ちはまだあるのだ。すぐに悪い方に考えて、有川の気持ちを勝手に決めつけるのは良くない。そう思って、俺は返信を打った。
「分かった、忙しそうだね?大丈夫?また、お店を手伝ってるの?早く会いたいよ。来る時は連絡して?駅まで迎えに行くから」
すると、すぐにまた返信が来た。
「俺も早く会いたい。じゃあ、また」
余りにも素っ気ない文章に、少し驚いた。
そして次の瞬間、体の中を恐怖が駆け上って行った。
やっぱり、もうお終いの時が近づいているのかも知れない。有川は俺に、別れを告げに来るつもりなのかも知れない。
見つめていた携帯の画面が涙で歪んだ。