涙の後で
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引っ越しの日、俺は母と、正孝さんの運転でアパートへ向かった。
荷物はそれほど多くなかったし、家電品などは電気屋が直接運んでくれるので俺たちは身軽だった。
掃除は引っ越す前に業者がやってくれていたので、俺たちは掃除機を掛けて埃を拭う程度で済んでしまった。
引っ越し業者に頼んだ荷物も到着し、同じ頃に、頼んで置いた家電品も運ばれて来た。
指示をする母が居れば俺と正孝さんは殆ど不必要で、却って邪魔になりそうだと、二人で外に出た。
「終わったら、やっぱり蕎麦だよね?」
正孝さんが言い、母に電話すると、近くのマーケットで材料を買って来るように言われた。
どうせ、細かい物を仕舞う段になるまで俺は必要無さそうだし、俺たちは二人で買い出しに行くことにした。
「どうせなら、調味料とか食材とかも少し揃えたら?荷物持ちが居る内に買っとくといいよ」
自分を指して正孝さんが言い、俺は甘えることにした。
マーケットで、蕎麦の材料と飲み物、それから基本の調味料や米、野菜や肉なども少し買い、俺たちは両手に1つずつの荷物を持ってアパートへ帰った。
ちょうど、全部の荷物が運び終わって業者が帰った所で、母は新しく買った調理道具や食器などを洗って仕舞おうとしているところだった。
買って来た食材を冷蔵庫に仕舞うと、正孝さんが母を手伝っている間に、俺は細々としたものを自分の使い易いように仕舞い直した。
片づけを終えた母が、蕎麦を茹でて、買って来た野菜で掻き揚げを作ってくれた。
日帰りで帰れる距離ではあったが、母の料理も暫くは食べられないかも知れないので嬉しかった。
母たちは、夜まで居て夕食も作ってくれると言ったが、二人とも明日は仕事だし、俺は帰ってくれるように言った。
「夕飯は適当に食べるから大丈夫だよ。掻き揚げも残ってるから天丼にでもするし」
「そう?まあ、千冬の場合、食べる方は心配してないけどね。物によっては母さんより上手く作れるし」
そう言って母は笑い、千秋のことも心配だからと、二人は帰って行った。
独りきりになった部屋は、大して広くも無いのに何だか妙に寂しかった。
今までも、家から離れて寮生活をしていたのだが、二人部屋だし、一歩部屋から出れば寮生がわんさか居るしで、独りきりになるのは却って難しい環境だった。
だから俺は、こうして独りきりの生活をするのは本当に初めてだったのだ。
それを思うと、何だか無性に寂しい気がした。
思い出して携帯を取り出すと、慶からメールが入っていた。
「引っ越し済んだか?俺もさっき片付いて、ボーっとしてる。学生寮って言っても、やっぱり何となく違うな。壁が薄くて、隣の部屋の音が丸聞こえなのが、ちょっと辟易するよ」
その文面を読んで俺は少し笑った。
煩いのが嫌いな慶には、その環境は苦痛だろう。
俺は慶に返信を打って、今夜はこっちで夕飯を食べないか、と誘った。
すると、すぐに慶から返信があった。
「それは嬉しいけど、いいのか?」
「勿論、いいよ。残り物の天ぷらで天丼だけど、それで良ければおいでよ」
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」
母と正孝さんを帰したものの、本当は独りでご飯を食べたくなかったし、慶が来てくれるのは嬉しかった。
アパートの場所を知らないので、俺は慶と大学の近くで会うことにした。
慶の入った寮は大学から5分ほどの場所だったが、構内にある訳ではない。まだ二人とも大学周辺の地理を覚えていないので、大学を拠点にしないと場所が分からなかった。
出掛ける支度をした後で、もう1度メールをチェックしたが、期待していた有川からのメールは入っていなかった。
今日が引っ越しだというのは分かっている筈だった。だから、もしかして、夜までには連絡をくれるのではないかと思っていた。
まだ、期待を捨てずにもう少し待とうと思い、俺は慶に会う為に部屋を出た。
待ち合わせの場所に着くと、慶はもう来ていた。
お土産に何か買うと言うので断ったが、結局、通り道にあるコンビニで菓子や飲み物などを買ってくれることになった。
そこは、慶がアルバイトをすることになっているコンビニだった。丁度、アルバイトの募集をしていたらしく、利便性も良かったので面接を受けて合格したらしい。
アルバイトは来週からということで、慶が店長に挨拶している間、俺はスイーツの棚の前でどれを買うか物色した。
道を確認しながらアパートまで歩き、階段の下から先に立って、俺は慶を部屋まで連れて行った。
「静かだなぁ、ここは。それに綺麗だし、広い」
部屋に入った慶はそう言って苦笑した。どうやら、寮の部屋はかなり狭いらしい。
「男子学生も入ってるらしいんだけど、女子学生の方が多いみたいなんだ。だから、あんまり煩くないかも。あと、壁は厚いですって不動産屋も言ってたよ」
「ふうん。いいとこ見つけたな」
「うん。あ、夕飯、本当に天丼でいいの?それとも、何か他にも作ろうか?」
俺が言うと、持って来た袋を置いて座卓の前に座った慶は首を振った。
「いや、十分だよ。……そう言えば、長い付き合いだけど、千冬の手料理食べるのは初めてだなぁ」
言われて、俺も頷いた。
「そう言えば、そうだね。慶には家に来てもらったこと無かったし。俺がお邪魔するばっかりだったもんね。これからは、何時でも食べに来てよ。ま、そんなに大した物は作れないけど…」
「いや、天丼作れるだけでも凄いよ。俺なんか、カップ麺かトーストぐらいしか出来ないからな」
「それ、料理って言わないよ」
俺がそう言って笑うと、慶も苦笑した。
有川からは相変わらずメールが来ない。慶と喋っている間も気になって、俺は何度も携帯を確かめたが、とうとう夜になってもメールは来なかった。
天丼の他に、味噌汁と野菜炒めも作ることにして準備を始めると、慶も立って来て手伝うと言った。
包丁も碌に使ったことの無い慶なので、結局俺は野菜の切り方から教えることになった。
慶は不器用では無いし、飲み込みも悪くなかったので、ゆっくりではあるが野菜炒め用の野菜を全部切ってくれた。
「やってみると、結構楽しいな。寮にも共同の炊事場はあるから、俺も少しずつ料理を覚えるよ」
「そうだね。覚えて損はないかも」
慶に手伝ってもらって夕飯を作り終え、テレビのバラエティを見ながら食べた。
慶は何を食べても美味しいと言って褒めてくれた。
洗い物も手伝ってもらい、それからまたコーヒーを入れて、テレビを見ながら喋ったり、買ってもらったプリンを食べたりした。
9時過ぎになって、帰ると言った慶を外まで送って行ったが、なんだか別れるのが酷く寂しかった。
お互いに生活が落ち着けば時間の使い方も上手くなるだろうし、そうなればまた、ゆっくり過ごす時間も出来るかも知れない。でも、当分は無理だろう。
慶の姿が見えなくなるまで外で見送り、俺は一人きりの部屋へ帰った。
家に居ても、母も正孝さんも夜まで帰って来ないので猫の千秋と二人きりなのだが、遅くなったとしても二人とも必ず帰って来るし、やはり今とは違う。
今夜からは、本当に独りなのだと改めて思った。
独りになってみると、また有川から連絡がない事が気になった。
携帯を持ち上げては、此方からメールしようか迷い、また置いた。
そんなことを何度も繰り返しては溜め息をついて、俺はとうとう携帯をクッションの上に放り投げると、テーブルの上に突っ伏した。
引っ越しの日だからと言って、連絡をくれるとは限らない。そういう約束をした訳では無かった。
でも、今までの有川なら、必ずメールをくれて俺の様子を訊いてくれた筈だった。
だが、あの日以来、有川からのメールは1度も無かった。
頬を付けたままテーブルの木目を眺めていると、涙でじんわりとそれがぼやけてきた。
忙しいだけでは無いのだ。
もう、俺と有川は、前よりもずっと遠い存在になってしまったのだ。
そう思うと、悲しかった。
「あんなにキスした癖に…、抱いた癖に……」
呟くと、益々涙が出た。
「数え切れないくらい、好きだって……言った癖に…」
慶のことを忘れ切れずに、ずっと有川を裏切り続けていた。それなのに、いざ、ふられるのだと思ったら、馬鹿みたいに泣いている自分に呆れてしまう。
だが、どうしても涙が止まらなかった。
ティッシュの箱を取って涙を拭うと、俺は立ち上がって服を脱いだ。
シャワーを浴びてさっぱりして、少しは落ち着こうと思ったのだ。
まだ肌寒い時期だったが、震えながらシャワーのコックを捻り、お湯が丁度いい温度になるのを待って飛沫の下へ入った。
シャワーを浴びて少し気持ちもさっぱりし、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して飲みながら窓の所まで行く、カーテンを開けると、街灯に曝された下の通りが見えた。
少し離れた場所に、ワゴン車が1台停まっている。その車の後部座席のドアが開いて、誰かが降りた。
見るとは無しに見ていたが、その人影がこちらに向かって歩いて来た。
街灯の下まで来た時、それが有川だと言うことに気付いた。
「雄李…ッ」
驚いて思わず声に出すと、俺はペットボトルをテーブルに置いて玄関に向かった。
急いでサンダルを引っかけ、ドアを開ける。
階段の上まで走って行った所で、下から上って来る有川が見えた。
「雄李ッ」
叫ぶと、有川は立ち止まって俺を見た。
「千冬さん…」
「なんで?メールくれないから、俺…」
言葉に詰まって、俺は黙ると急いで駆け下りて有川の腕を掴んだ。
「兎に角、来て。俺の部屋…」
「ごめん。連絡も無しに突然…」
「いいよ、そんなの。入って」
部屋のドアを開けて玄関の中に有川を入れると、俺は靴も脱がずにその身体に抱き着いた。
「来てくれて嬉しいっ。会いたかった…」
「うん、俺も…」
ぎゅっと抱きしめられて、また涙が出そうになった。
もしかすると、もう会えないのかと思っていた。だが、有川はこうして会いに来てくれたのだ。
「ごめん。ごめんね?ごめん、千冬さん……」
切なげに言い、有川の息が俺の旋毛をくすぐった。
その声が、余りに悲しくて俺は胸が痛くなった。
有川は、ただ俺に会いに来てくれた訳じゃないのだ。
それをはっきりと感じる。
そして、避けようのない事実が今、目の前に突き付けられようとしているのだと分かった。
「い、やだ…。なんで謝るの?やだよ。やだ…ッ」
有川の身体を掻き抱くようにして俺は言った。
予感はあった。
ずっと前から、感じていなかった訳じゃない。だけど、まだ先の事だと思っていたかったのだ。
「ごめん…。泣かないで?お願いだから……」
俺の頬を両手で包み、自分こそ泣きそうな声で有川は言った。
「いや…。離さないって言っただろ?」
首を振ると、溜まっていた涙が飛び散った。
「千冬さん…」
名前を呼ぶと、有川は俺にキスをした。
何度も、何度も。
忘れまいとするように。
「好きだよ。好きだッ」
絞り出すようにそう言って、有川は俺をきつく抱きしめた。
「じゃ……、なんで?」
もう会えないのだと分かっていても、その理由は告げられていない。
「なんで…?」
ギュッと上着を掴むと、有川はその手を握って離させた。
「大分前から、俺が家の仕事を手伝ってるって言ってたでしょ?」
「……うん」
俺が頷くと、有川は少し口元を緩めた。
「家が商売をやってるのは言ってあったけど、本当は忙しくなったんじゃなくて、景気の所為や近くに大型店が出来た所為で、売り上げがどんどん下がってたんだ」
「え……?」
「従業員に給料が払えなくて、借金して払ってたんだけど、もうそれも無理で、従業員を解雇して両親だけでなんとかやってた。だから俺も、長期休みには手伝ってたんだけど……でも、とうとう、どうにもならなくなったんだ」
「じゃあ、お店が…?」
俺が訊くと、有川は辛そうに頷いた。
「借金が返せなくて、店は抵当に取られた。それでも全部は返せないから、まだ借金があるんだ。……勿論俺も、あんなに金の掛かる学校には通えない。だから、学校も辞めた」
「雄李…」
まさか、有川の家がそんなに大変な状態になっているなんて、全く知らなかった。
俺に心配を掛けまいとして言わなかったのだろう。一人でずっと、辛い思いを抱えていたのだ。
「店も家も無くなったから、九州の親戚を頼って引っ越すことになったんだ。俺も働きながら定時制の高校へ通うことにした。……だから、もう会えない。…会えないんだ」
「雄李、雄李ッ……」
仕方ないと分かっていても諦め切れなかった。
離したくなくて、俺はまた有川にしがみ付いた。
「ごめんね?千冬さん。ずっと傍に居るって、別れないって約束したのに……。ごめんね?」
俺の肩の上で、有川は辛そうに言った。
「俺こそ、ごめん。何の力にもなれなくて、何もしてあげられなくて。ごめんね?ごめん、雄李……」
「千冬さん…」
いいんだ、と言うように首を振って、有川は精一杯の笑顔を見せた。
それが悲しくて、俺はまた涙を溢れさせた。
その涙を何度も俺の頬から拭い、有川は言った。
「もう、行くね?親父たち、車で待ってるから」
「今からもう、行くの?じゃあ、本当にこれで…?」
答える代わりに俺の頬を包み、有川は長いキスをした。
俺の涙の所為で塩辛いキスだっただろう。
これが最後のキスなのに、甘いキスさえ俺は有川に残すことが出来なかったのだ。