涙の後で


-6-

翌朝、寝坊の筈の慶が、俺を心配して7時過ぎに電話をくれた。
「凄い、一人で起きられたの?成長したんだ、慶…」
笑いながら俺が言うと、慶は少し呆れた様な口調で言った。
「そりゃないだろ?昨夜は様子が変だったから心配したんだぞ?大丈夫なのか?」
「言ったろ?何でもないって。ちょっと、一人暮らしやら大学の事やらで不安になっただけだよ。本当にもう、大丈夫だから」
「なら、いいけど。……なあ千冬、俺に遠慮するのは無しだからな?何かあったらちゃんと言えよ?寮で同室だった時ほどは近くないけど、それでも俺は傍に居るんだからな?」
「…うん。ありがと」
慶の気持ちは、泣きたいほど嬉しかった。
だが俺は、その気持ちを受け入れる訳にはいかなかった。
「今日は午後から拓馬さんが来るんだ。慶も、夕飯食べに来たら?」
「……いや、俺はいいよ。邪魔したら真藤先輩に恨まれそうだからな」
冗談口で言ったようだったが、もしかすると本気だったのかも知れない。慶は何故か、俺と真藤先輩が近づくのを嫌がるところがあった。
「そう?ならまた、今度来てよ。慶の好きな物、作るから」
「ああ、ありがとう。じゃあ、またメールする」
そう言って、慶は電話を切った。
多分、昨夜、あんなに迷惑を掛けた癖に、俺の態度が白々しかったのが面白くなかったのだろう。最後の声は少し素っ気なかった。
苦笑いして立ち上がり、バスルームへ行く。鏡を見ると、酷い顔だった。
ベッドに入っても、じわじわと涙が出て、有川の事ばかり思い出していた。
中々眠れなかった所為もあって、目が腫れている。
溜め息をつくと、俺は湯船に湯を溜めて風呂に入る準備をした。
ゆっくり湯に浸かれば、少しは浮腫みも取れるだろうと思ったのだ。
食欲は余りなかったが、風呂から出ると冷蔵庫を開けた。
バターとジャムを出し、パンをトースターに入れた。それからミルクを温めて、そこにコーヒーを入れてラテを作った。
「先輩、何が好きだっけ?」
独り言を言って焼けたトーストを皿に載せ、マグカップと一緒にテーブルまで運んだ。
「好き嫌い無かったよなぁ。なに作ろうかな…?」
今まで、こんなに独り言を言ったことは無かった。
だが、自分以外は誰も居ないこの空間が酷く嫌で、どうしても声を出して喋ってしまった。
「買い物行かなきゃ。先輩…早く来てくれないかな…」
会うのが怖いのに、それでも早く会いたかった。
早く会って、ただ、先輩の傍で笑っていたかった。



午前中は、掃除や洗濯、そして買い物に行って過ごし、昼食は適当に済ませて、俺は真藤先輩が来るのを待った。
昼ごろに来たメールで、1時半ぐらいには着くからとのことだった。
待っていると、1時半丁度に玄関のチャイムが鳴った。
俺が玄関に駆け寄ってすぐにドアを開けると、笑みを浮かべた先輩が立っていた。
「おいおい、ちゃんと確かめてからドア開けたか?もう、寮住まいじゃないんだから気を付けないと駄目だぞ」
呆れたように先輩に言われ、俺は苦笑いしながら頷いた。
「今日は特別です。先輩が来るって分かってたからですよ」
俺が言うと、先輩は笑いながら頷いた。
「まあ、そう言うことにしておくか」
「いいから、入って下さい。ほら、早く」
俺が急かすと、先輩は中に入って来た。
「ふぅん、いい部屋だな。新築じゃないって言ってたけど、新しいじゃないか」
「はい、前の人が綺麗に使ってたみたいで」
俺の言葉に頷き、先輩は靴を脱いで部屋に入った。そして、持っていたケーキの箱を俺に差し出した。
「懐かしい物…ってほどでもないか、まだ」
笑ながらそう言った先輩に礼を言い、俺は持ち手の部分を広げて中を覗いた。
「あれ?これ……」
見覚えのある容器に入ったプリンを見て俺は顔を上げて先輩を見た。
「分かったか?寮の食堂のプリンだよ」
「え…?先輩、寮に行ったんですか?」
驚いて俺が訊くと、先輩は頷いて俺のベッドに腰を下ろした。
「ああ、昨日な…」
「え?何か用があったんですか?」
俺たちが卒業してしまった学園には、もう先輩が知っている生徒もいない筈だった。それなのに、何故わざわざ寮に行ったのだろう。
「うん、実は中島先生な、学校を辞めたんだ」
「えッ?何時ですか?」
思いがけない話に、俺は驚いて聞き返した。
俺たちの卒業式の時にも学校側からそんな話は聞かなかったし、最後に世話になった礼を言いに行った時も、先生も何も言わなかった。
「大袈裟にしたくないからって生徒には知らせなかったらしい、まあ、中ちゃん先生らしいけどな」
「そんな…、一言言ってくれたっていいのに…」
急に寂しさが込み上げて俺が言うと、先輩は苦笑しながら頷いた。
「いっぱいお世話になったのに、ちゃんとお礼も出来なかった」
俺が言うと、先輩はまた苦笑しながら首を振った。
「そう言うのが苦手なんだよ、あの人は。だから黙って居なくなるつもりだったんだ。……しかも、日本からまで消えるってさ。ボランティアの医師団に入って辺境国へ行くんだって。まったく…、あっさりとしたもんだ…」
そう言った先輩の声は酷く寂しそうだった。
ずっと以前、先輩の片想いの相手は中島先生ではないかと思ったことがあったが、それを俺はまた思い出した。
「陣中見舞いに電話したら、突然その話だよ。驚いてる暇もなく今日には寮も引き払うって言うからさ、昨日、急いで顔見に行ったんだ。学校側にだって後任の準備もあるだろうし、本当は随分前から決めてた筈だろ。けど、そんな素振りさえ見せないで…。行ったら、もう、荷物も全部送った後で、部屋には鞄1個と本が何冊かしかなかったよ」
呆れたように先輩は言ったが、本心では泣きたかったのではないだろうか。そう感じて、俺は思わず先輩の首に腕を回した。
「千冬…」
いきなり抱きつかれて先輩は少し驚いたようだったが、すぐに俺の身体に手を回して抱き返してくれた。
「泣くなよ。俺は大丈夫だって…」
そう言って先輩は笑ったが、それは強がりだと思った。
俺が首を振って更に抱き着くと、先輩の手が背中を撫でるのが分かった。
「千冬……」
すぐ耳元で俺を呼んだ先輩の声が切なく響いた。
やはり、先輩の想い人は中島先生だったのだ。
それなのに、多分、最後の最後まで先輩は自分の気持ちを告げなかったのだろう。そして、笑って先生と別れて来たのだ。
それを思うと、俺の胸は張り裂けそうだった。
昨夜の有川との別れがまた蘇る。それが相俟って、涙が止まらなかった。
「泣くな、千冬、泣くなよ…」
そう言う先輩の声も泣きそうに思えた。
それなのに、先輩の手はまだ俺を慰めようとする。
自分の方が辛いのに、先輩の優しい手は俺を慰めようとして、俺の背中を撫で続けた。



やっと泣き止んだが、昨夜から泣き続けていた所為で頭が重かった。
そんな俺の頭を膝の上に載せ、先輩は髪を撫でてくれた。
優しい手に撫でられて、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。だが、目の周りが熱くて、ぼうっとして良く見えなかった。
「プリン…食べないのか?コーヒー淹れてくれよ」
言われて、俺はやっと起き上がると先輩の顔を見た。
「俺の代わりに泣いてくれてありがとな?でも、もう泣くことない。今日は久し振りに会ったんだから、もっと楽しい話をしよう」
そう言って、先輩は腫れた俺の目の縁を撫でた。
「ごめんなさい。折角、来てくれたのに…。コーヒー淹れますね。あ、昨日、慶から貰ったお菓子もあるんだ」
気持ちを切り替えようとして、俺は何とか明るい声を出そうとした。
「戸田が来たのか?そう言えば、戸田は大学でも寮だったな」
「はい。…あ、大学近くのコンビニでバイトするそうですよ」
「ああ、あそこ…。じゃあ、しょっちゅう顔見るかもな。2日に1度くらい行くからなぁ、あそこは」
「そうですか?あ、じゃあ拓馬さん、何時もコンビニ弁当ばっかり食べてるんでしょ?」
俺が言うと、先輩は少々苦い顔をした。
「仕方ないだろ?作るたって俺のレパートリーなんか限られてるし、作りに来てくれるような女の子も今の所はいないしなぁ」
それを聞いて俺は笑った。
「ホントですか?作りに来てくれる娘なんて、いっぱい居そうだけど」
俺が言うと、先輩は苦い顔のままで首を傾げた。
「まあ、誘えば来てくれるような娘も居ないじゃないけどな…」
それはそうだろう。こんなに恰好良くて優しい先輩がモテない訳はない。
だが、今の先輩にはそんな女の子たちとの付き合いが面倒に思えるのかも知れないと思った。
「じゃあ、ここに食べに来たらいいですよ。俺、結構色々作れますから」
俺が言うと、先輩は顔を輝かせた。
「本当か?それは嬉しいけどな」
「勿論です。ずっと団体生活してたから、急に独りって寂しいですよ。一緒に食べる人が居るのは俺も嬉しいです」
「そうか。じゃあ、ちょくちょく来させてもらおう。言ってくれれば材料は俺が買って来るからな?」
嬉しそうにそう言われ、俺も嬉しくなって笑った。
やっぱり、先輩の傍に居ると心が安らぐのが分かる。誰よりも、俺を癒してくれる人なのだと改めて思った。
傷心の筈なのに、さっきの一瞬を除いては、そのことを微塵も感じさせない。本当に強くて優しい人だった。
だからこそ、俺はもう先輩に心配をさせたくなかった。
先輩が触れないのをいいことに、俺は有川との別れを口に出さなかった。
このまま、自然に話せるような日が来るまで、俺は黙っているつもりだった。
コーヒーが入り、俺はそれと一緒に昨日貰った手作りのタルトを先輩に勧めた。
「お、旨そうだな…」
「慶のお母さんの手作りなんです。お菓子の先生が出来るくらいでプロ級なんですよ」
俺が言うと、先輩は頷きながらタルトを口に入れた。
「うん、旨い」
嬉しそうにそう言った先輩に頷き、俺もタルトを手に取った。
その後で、先輩が買ってきてくれたプリンも食べたが、相変わらず素朴で美味しかった。
夕方になり、食事の支度をはじめようとすると、手伝うと言って先輩も一緒に台所に立った。余り料理は出来ないと言っていたのは本当らしく手際がいいとは言えなかった。
だが、話をしながらふざけ合いながら、二人で一緒に作ると楽しかった。
昨夜のあの、死んでしまいたいほどの辛かった思いを忘れた訳ではなかったが、それでも、俺はこうしてまた笑う事が出来るのだと思った。
悲しみは、少しずつだが確実に薄れていく。
そうでなければ、人間は生きていけないのだろう。
先輩のように強くは無い俺だったが、それでも前を向こうと思った。
そうでなければ、有川にだって申し訳ない。

食事をし、話をし、またお茶を飲みながら話をして夜が更けていった。
10時を過ぎ、別れたくなかったが、今度は俺が先輩の部屋に行くことを約束し、ドアの外で見送った。
先輩は何度か振り返って手を振ってくれた。だが、やがてその後ろ姿も見えなくなってしまった
「寂しいな…」
先輩の姿が見えなくなると、自然と口から呟きが漏れた。
俺は有川と別れ、先輩は中島先生とさよならをした。
何も言わないままだった先輩の気持ちを、中島先生は察していたのだろうか。
俺の前で先輩の話をする時、先生は誰よりも先輩の事を理解しているように思えた。だが、その心に秘めた想いにまで気付いていたのかどうか俺には分からなかった。
知っていても、応えられないならば、先生はきっと気付いていない振りをしたに違いない。それを分かっているから、先輩も何も言わなかったのだ。
有川が会いに来てくれないと、連絡をくれないと不安がって、めそめそと時を過ごしていた子供っぽい俺とは違う。
だが、その別れの辛さには変わりはないのだ。
奇しくも、俺も先輩も同じ日に突然の別れを経験した。
その心の中にはどれ程の悲しみを秘めているのか俺には分からない。だが、先輩はもう前を向こうとしているように見えた。
俺がこの別れを乗り越えるまでには、どれほどの時間が掛かるか分からない。
だが、それでも俺も、前を向こうと思った。
昨夜決意したように、顔を上げて、もう誰にも頼らずに生きていきたい。
だから俺は、また込み上げてきた涙を堪えて、独りきりの部屋に戻った。