涙の後で


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そして、言わなくて良かったと思うことになった。
楠田を誘ってもいいか訊いてみると、真藤先輩は渋い顔で首を振った。
「悪いが、それは嫌だな。俺は本当に千冬とデートのつもりだったんだから。デートは二人でするもんだろ?」
「拓馬さん…」
軽い気持ちで出かけるつもりだった俺は、その言葉を聞いて少したじろいだ。
すると、先輩はニッと笑って俺の背中を叩いた。
「大丈夫だよ。心配しなくても手は出さないって」
「そ、そんなこと心配してませんよッ」
先輩の冗談に途端に気が楽になって、俺は言い返すと笑った。
先輩がデートだと言ってくれるなら、俺もそのつもりで楽しもうと思った。



実際、クリスマスは本当に楽しかった。
昼に待ち合わせして軽くランチをし、午後は話題の映画を見て、それからイルミネーションに彩られた街を少しぶらついた。
男同士なのでお洒落な店でディナーでは悪目立ちするだろうと、カジュアルな洋風居酒屋のような店でご飯を食べた。
先輩はもう酒の飲める年齢だったのでアルコールを頼んだが、俺はノンアルコールのカクテルを頼んでもらった。
料理の種類も豊富で美味しかったので、俺はいつもよりも余計に食べてしまった。
店を出る頃には腹がはち切れそうだったが、同じく気分も満ち足りていた。
「俺の部屋に来るか?今日はちゃんと掃除してあるぞ」
先輩に言われて、俺は頷いた。
先輩の部屋は何時行っても言うほど汚くは無い。完璧に片付いている訳でもないが、不快に感じる程散らかっていたことも無かった。
部屋は1部屋だったが、キッチンは別で3畳ほどの広さだった。先輩は余り料理はしないが一通りの道具類は揃っていて、俺はこの部屋で料理をしたこともあった。
先輩がコーヒーを淹れてくれている間、俺は買って来たケーキを皿に移していた。
すると、テーブルの上に置いてあった携帯が鳴り、キッチンに居た先輩が戻って来た。
そして、携帯を持ち上げて、ディスプレイの表示を見た途端、顔色が変わった。
「もしもし?ユキか?」
先輩が驚いた口調で呼んだ名前を聞いて、俺も驚いて顔を上げた。
まさか、小金井先輩からなのだろうか。
「あ、ああ……元気だよ。おまえは?」
言いながら、俺の方を見て先輩が頷く。どうやら、相手は本当に小金井先輩らしかった。
「うん……うん…。え?……そうか…、うん……」
ドキドキと胸が鳴る。
ずっと、連絡を取り合っていなかったらしいのに、どうして急に小金井先輩は電話してきたのだろうか。
だが、真藤先輩の表情は複雑ではあったが悪いものではなかった。小金井先輩に何かあった訳ではないのかも知れない。
「うん、そうだな……。うん…、良かったよ。……あ、ユキ、千冬がここに居るんだ。声を聞くか?」
俺の方を見ながら先輩が言い、思わず喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
(俺と、話してくれるんだろうか……?)
拒絶されるのではないかと思い、怖くなって目を瞑った。
だが、腕を掴まれて顔を上げる。
すると、笑みを浮かべた先輩が携帯を差し出していた。
その顔を見てまた唾を飲み込み、俺は恐る恐る携帯を受け取って耳に当てた。
「千冬?」
俺が声を発する前に、小金井先輩の優しい声が耳に響いた。
「ゆ…、ユキ先輩…ッ」
馬鹿みたいに掠れた声で俺は言った。
鼻の奥が熱くなり、一気に涙が溢れる。
懐かしくて嬉しくて、そして、安堵した。
「元気だったか?連絡しなくてごめんな?いっぱい傷つけて、心配させたのに、ちゃんと謝ることも出来なかった。本当に悪かったと思ってる…」
すぐに言葉が出て来なくて、何度も首を振る。
目尻から涙が散るのが分かった。
「そんなことない…。俺が、俺の方こそ先輩に謝らなきゃならなかったんです」
「千冬が俺に謝ることなんて何ひとつ無いよ。千冬が傍に居てくれたことで、俺は本当に慰められたんだ。感謝することはあっても、謝ってもらうことなんて無い。信じて貰えないかも知れないけど、俺は本当に千冬が好きだった。千冬と付き合えて幸せだった」
「先輩……」
優しい言葉に涙が止まらなかった。
もう2度と話すことは出来ないと思っていたのに、小金井先輩は真摯に俺に気持ちを伝えようとしてくれた。それが何よりも嬉しかった。
「拓馬とは別に、千冬にもちゃんと連絡するつもりだったんだ。俺、2年間だけだけど日本を出て留学することにしたんだ」
「え…?留学?」
「うん、イギリスへ…。まあ、その期間が終わったら日本に帰って来てちゃんと卒業する予定なんだけどな。……いつか、千冬にもちゃんと会いたい。帰ったら必ず連絡するから」
「はい、待ってます。待ってますから…」
「うん、ありがとう」
涙を拭きながら頷き、携帯を返すと、真藤先輩はそれを耳に当てて立ち上がりながら口を開いた。
「ああ、番号は変えないよ。……うん、俺もメールする。うん、うん…、それじゃ、またな?」
喋りながらキッチンへ行くと、帰って来た先輩は手にカップをふたつ持っていた。
「ほら」
俺の前にカップの1つを置き、先輩はすぐ傍に座ると俺の頭に手を置いた。
くしゃくしゃと優しく髪を撫でられ、俺は先輩の目を見た。
「良かったな?」
「は、はいッ」
叫んで思わず抱き着くと、何時ものように先輩は俺を優しく抱きしめてくれた。



慶と正月明けの4日に再会する約束をして、俺は忘れないように瑠依子ちゃんへのプレゼントを荷物の中に入れて家に帰る支度をした。
独りで帰るからいいと言ったのだが、正孝さんが車で迎えに来てくれた。
その助手席に乗り込み、近況などを話しながら何度も正孝さんの横顔を見る。
3年前、あれほど辛かったことが嘘のように、今は穏やかな気持ちで彼を見る事が出来た。
そしてまた、改めて、正孝さんへの想いは幼い憧れに過ぎなかったのだと確信した。
今は、正孝さんが母と再婚してくれて良かったと心から思える。こうして離れて暮らすようになると、母の傍に信頼出来る人が居てくれることが本当に有難いことだと思えた。
家に帰ると、母が待っていた。
千秋は俺の所に様子を見に来て、少しだけお愛想をすると、すぐに正孝さんの膝に乗ってしまった。
ずっと家に居ない俺よりも、すっかり正孝さんに懐いている。それは仕方のなっことだったが、少し寂しかった。
夜は久しぶりの母の料理を食べ、3人で一緒にテレビを見た。
こんな風にしていると、俺たちもやっと、普通の家族のようになれた気がして俺は少し嬉しかった。
穏やかな気持ちになり自分の部屋に入ると、ふと地元の友達のことを思い出した。
携帯を取出しメールすると、坂上はすぐに返信をくれた。
やはり今日から実家に戻っているとのことで、俺は少し迷ったが、今度はメールではなく彼の番号に電話を掛けた。
坂上とは卒業して以来、時折メールのやり取りはしていたが会ったことは無かった。
柔道の強い東北の大学に推薦入学したので、遠征や稽古で実家にも滅多に戻れないらしい。どうしているのか気になっていたのだが、中々会う機会がなかったのだ。
電話に出た坂上の声は元気そうだった。俺は何となくホッとして自然と唇を緩めた。
「ちふ、元気だったか?」
相変わらず俺のことを"ちふ"と呼んでくれる。その優しさが坂上だと思った。
「うん。久しぶりだね?真也も元気そうだ」
「俺はいつでも元気だよ」
変わらない坂上の声に、俺は嬉しくなった。
「いつまでこっちに居られるの?久しぶりに会いたいな」
「一応、3日までは居られる。でも、夜には帰るんだけど…。正月は一応、親戚なんかが来るから出られそうもないんだ。明日か、明後日なら大丈夫だけど、ちふは?」
「うん、俺も大丈夫。じゃあ、明日会わない?ランチでもしようよ」
俺が言うと、坂上はOKしてくれた。
待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切ると、俺は久しぶりに坂上に会えることで、少しわくわくした気持ちになった。
酷いことをして傷つけてしまった坂上に、俺は今でも負い目を感じていた。
多分、誰よりも俺に優しかったのは坂上だろう。俺のことを恨んで嫌っても仕方ないのに、今でも坂上は俺に、変わらない優しさで接してくれる。
もしかすると、坂上にとって俺と会うことは今でも辛いことなのかも知れない。でも、出来ることなら、このままずっと彼とは友達でいたかった。
それに坂上には、有川と別れたことを、会ってきちんと話さなければならないと思っていたのだ。