涙の後で


-9-

翌朝は少し寝坊し、起きるともう母と正孝さんは朝食を終えていた。
二人はもう年末の休暇に入っていたので、今日は買い物に行くらしく、少し遠くのデパートまで車で出掛けるらしかった。
母たちが出る時に一緒に車に乗せてもらい、俺も街へ出た。
待ち合わせ場所には少し早目に着いてしまったのだが、もう坂上の姿があった。
「真也…」
声を掛けると、坂上は見ていたスマートフォンから目を上げて、俺を見て笑った。
「ちふ」
坂上はそう言うと、少し眩しそうに目を細めた。
「待った?ごめん」
俺の言葉に坂上はすぐに首を振った。
「いや、俺も今来たとこ。それに、ちょっと早過ぎたと思ってたんだ」
苦笑しながらそう言った坂上に、俺は頷いた。
「俺の方が先かと思ったけど…。ね、何処で食べる?地元と言っても、久し振りだから変わったよね」
俺の言葉に、今度は坂上が頷いた。
「そうだな。帰って来ても、俺の場合、ゆっくり街なんか歩いたことないからなぁ。飯は大体、家でお袋の料理だし。ぶらぶらして、良さそうな所があったら入ろうか?」
「そうだね。そうしようか」
俺たちは向きを変えて、繁華街の方へ向かって歩き出した。
「真也、また少し身体が大きくなったみたいだな。背も伸びた?」
「ああ、そうかもなぁ。体重は間違いなく増えたけど、少しズボンも短くなった気がするから、背も伸びたかも」
「いいなぁ。俺ももうちょっとデカくなりたいよ」
「まだ伸びるかも知れないだろ?諦めるなよ」
「だといいけど…」
俺が溜め息交じりに言うと、坂上は少し笑った。
久しぶりに会った坂上は、確実に逞しさが増していて、その存在感が俺には少し眩しかった。 坂上が、真っ直ぐに自分の道を歩いているからだろうか。
いつまでも、何も得ずにふらふらしている自分と比べると、彼は本当に立派だと思った。
「大学はどう?柔道の稽古、きついんじゃない?」
俺が訊くと、坂上は笑いながら頷いた。
「きついっちゃぁ、きついな。やっぱり、高校の時よりは稽古も激しいよ。でも、やればやっただけの成果が出るのは分かってるから、苦ではないかな」
「ふうん…」
頷きながら、俺は坂上をじっと見た。
本当に、坂上は随分成長した。
それは、身体だけの事では無いのだと思った。
「なんだよ?そんなに見るなって」
照れ臭そうにそう言って、坂上は急に指を指した。
「あ、ほら。その店は?良さそうじゃないか?」
「え?ああ…、いいね。入ろうか」
俺たちは、落ち着けそうなその店に決めて入ることにした。
新しい店だったが、アンティークな雰囲気の洋食屋で、まだ時間が早い所為か席も2席ほどしか塞がっていなかった。
奥の方が空いていたので、俺たちはそこに座った。
50代くらいの、従業員というよりはここの奥さんといった感じの女性が、メニューを持って来た。
見ると、日替わりのランチセットがあったので、俺はそれにした。
坂上は同じセットにナポリタンを追加して頼んだ。
「ちふはどうなんだ?大学は楽しい?」
訊かれて、俺は頷いた。
「うん、楽しいよ。新しい友達も出来たし、先輩とか楠田とかもちょくちょく部屋に来るから寂しくないし」
「楠田?へえ…、学園では随分ちふを苛めてたけどなぁ」
笑いながら言った坂上に、俺も苦笑して見せた。
「まあ、一時はね。でも、卒業する頃はもう、仲良かったよ」
「そうだな。何にせよ、寂しくないなら良かったよ」
そう言って水を飲む坂上を見ていた俺だったが、心を決めて姿勢を直した。
「真也…」
「うん?」
コップを置いた坂上と視線を合わせ、俺は言った。
「俺、実は有川と別れたんだ」
「え……?」
驚いた顔をした坂上に僅かに頷いて見せると、俺は先を続けた。
「有川の家、商売が上手くいかなくなってね…。遠くへ引っ越すことになって、有川は学校を辞めて働きながら定時制高校へ通うことになって……。もう、会うことも出来なくなった。……だから、俺とはもう…」
口籠ると、坂上の手が伸びて来て、テーブルの上に置いた俺の手を包んだ。
無骨だが、優しく暖かい手。
それは、以前と変わらない坂上の手だった。
「あ、ごめん。大丈夫だよ。もう、随分前のことで、俺も吹っ切れたし。……有川もね、元気でやってるみたいで手紙もくれたんだ。だから、心配しなくていいよ」
俺が笑うと、坂上は頷いて手を離した。
「そか……」
ただ、それだけを言うと、坂上は優しい笑みを見せた。
「あ、真也は?彼女出来たの?真也ならモテるから、きっともう…」
そう言った俺の言葉を、手をブンブン振って遮ると、坂上は苦い顔をした。
「モテる訳ないだろ?俺なんて、授業受けている以外は殆ど道場に居るんだぜ。彼女なんて夢の話だよ」
「そんなことないだろ?きっと、真也が気付いてないだけで、憧れてる子はいっぱい居るよ」
俺の言葉に、坂上はまたブンブンと手を振った。
「居ない、居ない。女の子は俺みたいに柔道ばっかりやってるような男は相手にしないよ」
「そうかなぁ…」
「そうだって」
坂上が言い切った時、さっきの女性が料理を運んで来た。
日替わりランチは、カニクリームコロッケと白身魚のフライ、それにサラダとライス、ドリンク付きだった。
盛りも悪くないし俺には十分な量だったが、坂上はライスを大盛りに変更し、更にナポリタンの大盛りを付けても少し足りなかったのではないだろうか。
だが、味は良くて、二人とも満足だった。
「そう言えば、戸田は?元気?」
少し躊躇った後で、坂上は言った。
「ああ、うん。元気だよ。昼間は大学の近くのコンビニで働いてる」
「へえ…。良く会うの?」
「うん、まあ。慶は料理出来ないから、ご飯食べに来たりね…」
「そう…」
意識しないようにしたつもりだったが、坂上はそう言って頷いたきりで、黙ってしまった。
俺はもう、慶のことは諦めたつもりだった。
今では、単なる友達として付き合っているつもりだったが、もしかすると、坂上はそうは感じなかったのかも知れない。
俺は急に、慶のことを思い返してみた。
胸が詰まるようなあの感覚は、もう無かったが、それでも他の人を思うのとは違う。慶は今でも、俺にとっては特別な相手だった。

まだ、好きなのだろうか。
いや、きっと、一生好きなのだと思う。

遠くから見ていられるだけでもいい。
俺はずっと、慶と関わっていたいのだと思った。
暫く、黙ったままで料理を口に運んでいたが、坂上はやがて、ふと手を止めた。
「いつか……」
口を開くと、坂上は俺を見た。
「いつか、戸田にちゃんと気持ちを伝えた方がいい。今すぐとは言わないけど、でも、そうした方がいいよ」
「真也……」
俺が驚くと、坂上は優しい笑みを見せた。
「ちふはもう諦めたつもりでいるけど、でも、俺は脈があると思ってる。戸田はちふの事を特別な存在だと思ってる。気付かないだけで、戸田もちふと同じ気持ちだと思うよ」
「そ、そんな事ないよ…」
俺は驚いて、持っていたフォークを落としそうになった。
「け、慶は、違うよ。……あ、いやその、俺ももう全然前とは違うから。俺だって、慶の事は友達としか思ってないよ?」
俺が言うと、坂上はまた笑みを見せた。
「いいよ、ちふ。俺にだけは本心を言えよ。俺の時も、有川の時も、ちふが真剣に付き合ってなかったなんて思ってない。でも、それでも戸田の事は別だった。俺たちよりも、もっともっと特別な存在だったんだろ?……今でも」
「し、真也…」
言葉を失い、俺は黙った。
心を見透かされたようで何も言えなかった。
だが、まだ俺には、慶に本心を告げる勇気はなかったのだ。

諦めたふりをして、いつでも逃げている。
そして、このまま逃げていたいのだ。

逃げていれば傍に居られる。

いつか日下部に言われたように、きっと、そう思っていたのだろう。
だから俺は、ずっとずっと逃げていたかったのだ。