涙の後で


ー第11部ー

まだ休みは残っていたが、俺は家には戻らず、慶と一緒にアパートへ戻って来た。
慶はもう、明日からはアルバイトに行かなければならないので、学校は休みでものんびりは出来なかった。
楠田も、もう家から戻って来たらしく、暇なら会おうと言ってきた。
別に予定もなかったので承知すると、すぐに俺のアパートに顔を見せた。
前々から誘われていたが、余り気乗りせず、今まで1度も行ったことがなかった、”カッコいいマスター”の居るカフェ、というのに行こうというので、俺は渋々ながら付いて行った。
そこは、大学の近くにある所為か客は学生が多かった。
カフェといっても昔の喫茶店のような雰囲気で、メニューにも”ナポリタン”や”エビピラフ”などが並んでいた。
確かにカウンターの中に居るマスターはカッコいいと言えば、カッコよかったが、40前位のどう見ても妻帯者だった。
だが、驚いたことに、もう楠田の興味はそのマスターには向けられていなかった。
「カッコよくても子持ちじゃね」
肩を竦めてそう言い、楠田はもうマスターには見向きもしなかった。
それなら何故、わざわざ俺を連れて来たのかと思ったが、その理由を、楠田は小声で言った。
「もうちょっと待ってな。これぐらいの時間によく来るんだ…」
また誰か、今度は常連客の中にでもいい男を見つけたのかと呆れると、楠田はカウンター近くの席に座って、入口の方を見た。
注文を終えて、まだ飲み物が運ばれて来ない内に、その客が現れた。
「来た…。高梁、目を閉じて」
「え?」
何事かと思って俺が訊き返すと、楠田は手を伸ばして俺の瞼を抑えようとした。
「いいから、目、閉じろって…」
仕方なく、言う通りに目を瞑ると、入って来た客がカウンターに座ってマスターに挨拶するのが聞こえた。

その声を聴いて、俺は驚いた。
それは、慶の声にそっくりだったのだ。

俺が思わず、目を開いて振り返ると、楠田が面白そうにくすくす笑った。
「な?吃驚したろ?」
「う…、うん…」
驚きの冷めやらぬ俺の目に映ったのは、慶とは似ても似つかない男だった。
歳は22、3歳位だろうか。服装や雰囲気から察するに、どうやら水商売らしい。座って背を向けているので顔はよく分からなかったが、背は高そうだった。
だが、マスターと談笑するその声は、確かに慶にそっくりだった。
(似てる…。目を瞑ってたら分からないくらいだ……)
直に聞いてもこれだけ似てるのだ。電話を通したりしたら、きっと聞き分けられないだろう。
何だか嫌な気持ちがして俺が見ていると、男は視線を感じたのか振り返った。
顔は勿論、慶とは全く似ていなかった。だが、男振りは悪くなかった。
商売柄か少々チャラい感じはしたが、目鼻立ちは結構整っている。そして、俺と目が合うと、何故かニッと笑った。
慌てて眼を逸らすと、男は立ち上がってこちらに近づいて来た。
因縁でも付けられるのかと、ちょっと怯えていると、男は俺の方に屈むようにして言った。
「こんちわ」
ニコニコ笑われて、俺も仕方なく彼を見上げた。
「こ、こんにちは…」
「何処かで会った?」
小首を傾げる様にして言った男に、俺は急いで首を振った。
「い、いいえ。初めて来たので…」
「そっか…。ごめんな?邪魔して」
そう言うと男は、初対面とは思えない懐っこい笑顔を見せてカウンターへ戻って行った。
傍で聞くと、本当に慶が喋っているようだった。
「び…っくりした…。まさか、来るとはね…」
楠田が俺の方へ身を乗り出し、小声で言った。
俺が頷くと、チラリとその男の方を見てまた言った。
「最初に聞いた時は何処かに戸田君が来てるのかと思ってキョロキョロ探したよ。声の主が分かったら面白くなっちゃってさ。一遍、高梁を連れて来ようと思ったんだ」
「あの人…、いつも来てるの?」
俺が訊くと、楠田は頷いた。
「マスターに訊いたら、大体これ位の時間になると来るらしいよ。ホストらしいけど、店に出る時間が遅いから、軽く食べたりして、のんびりしていくらしい」
「そう…」
さすが、楠田の調べは進んでいた。だが、男と接触したのは今日が初めてだったらしく、何時もは声を聴いていただけらしい。それに、余りに声が慶に似ていたから面白がっていただけで、本人に興味が有った訳ではないらしかった。
確かに彼は楠田のタイプではなかった。
飲み物が運ばれて来て、俺たちは休み中の出来事などを話しながらそれを飲んだ。
選んでもらったペンダントを、瑠衣子ちゃんが喜んでくれたと話すと、楠田は当然と言いたげに頷いた。
すると、またあの男が席に近づいて来た。
「君たち、大学生?これ、俺の奢り」
愛想よく言うと、男は俺たちのテーブルに店の手作りだというシフォンケーキを置いた。
「い、いえ。貰えないですよ…」
俺が慌てて返そうとすると、男はその手を留めて、また懐っこい笑みを見せた。
「いいから、いいから。今日はこれ、売れ残ってんだってさ。だから食べなよ」
カウンターのマスターの方を親指で示しながら言い、男はサッサと席へ戻って行った。
楠田のことは見覚えていたのかも知れないが、話をしたことも無いのだし、俺に至っては初対面だというのに、なんて気さくなのだろうと驚いた。
声はそっくりでも、見た目だけでなく性質も慶とはまるで違っていた。
「ま、遠慮なくいただくか…」
楠田はそう言ってフォークを取った。
俺は躊躇ったが、残しても捨てられるだけなのかも知れないと思い、やはりフォークを取ってケーキを食べた。
食べ終わって店を出る時、礼を言うと、男は笑って手を振った。
もう、この店に来る気もなかったし、男に会うのもこれきりだろうと思っていた。
慶にそっくりな声の持ち主だから興味を惹かれない訳でもなかったが、自分が付き合う種類の人間ではないと思ったのだ。
楠田も俺の反応を見て満足したのか、それからは誘ってくることもなかった。


だが、その男と俺の縁は切れた訳ではなかったらしい。
マーケットで買い物をして帰る道すがら、花屋の前で立ち止まって観葉植物を眺めていると、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、カフェで会った男が立っていた。
今日はグレーのダッフルコートにジーンズという、この前よりは大分地味な出立だったが、懐っこい笑みは変わらなかった。
「こんちは。買い物?」
俺の手に下がっているマーケットの袋を見て男は言った。
「あ、はい。この前はご馳走様でした」
俺が頭を下げると、男はまた笑みを見せた。
「いやいや…。お礼を言ってもらう程のことじゃないよ。でも、縁があるね?……君、名前は?」
訊かれたが、俺は答えを躊躇った。まだ、会うのは2度目だし、相手の素性もよく知らないのに名乗っていいものかと思ったのだ。
「あ、ごめん。訊く前に自分が名乗らなきゃな?俺は村内(むらうち)(こう)。よろしく」
手を差し出されて、俺は仕方なくそれを握った。
「高梁千冬です」
軽く頭を下げながら、俺は名乗った。
まさか、向こうから名乗って来たのに、無視する訳にもいかないだろう。
「へえ?可愛い名前だな…。千冬……」
呼ばれて、俺はドキリとした。
慶と同じ声で名前を呼ばれると、ざわざわと心が騒ぐようだった。
「あ、あの…、じゃあ俺、もう行くんで…」
もう1度頭を下げて離れようとすると、村内はさっと俺の腕を掴んだ。
「よかったら、お茶しない?時間無いの?」
またあの懐っこい笑みを見せ、村内は言った。
「いや、あの…」
俺が腕を取り戻そうとすると、村内はすぐに手を離した。
「そんなに警戒しなくても…。別に獲って食ったりしないよ」
苦笑しながらそう言い、村内は掌をこちらに向けた。
「いや、なんで俺を誘うんです?碌に話もしたことないのに…」
「んー、可愛いから?」
「かっ…」
しゃあしゃあとした調子で言われ、俺は絶句した。
だが、すぐに気を取り直すと言った。
「じゃあこれ、ナンパなんですか?俺、男ですけど…」
すると村内はニッと笑って言った。
「まあ、そう取ってくれてもいいよ。……じゃ、千冬君、お茶飲もうか。ね?」
また腕を掴まれ、俺はすぐ近くのカフェへ連れて行かれた。
別に村内が悪い人間だとは思わなかったが、余りにも慶に似た声で話されると、何だか落ち着かなかった。
暖かいラテを買ってもらい、俺は村内と向かい合って座った。
「千冬君は、大学何年生?」
「1年です」
「へえ…、じぁあ18歳?いや、もう19か…」
「18です。今月誕生日が来て19です」
俺が言うと、村内の眉が上がった。
「今月誕生日なの?へえ、おめでとう」
にっこりと笑い掛けられ、俺は曖昧に頷いた。
「どうも…」
これは身上調査なのだろうか。この男の目的は一体何なのだろうか。
それにしても、どうしてこんなに慶とそっくりな声をしているのだろう。
この声で、毎夜女性に甘い言葉を言っているのだろうか。
何だかだんだん混乱してきて、俺は熱いラテをグッと飲んだ。
「あつッ…」
「大丈夫?」
そう言うなり、村内は立ち上がると、冷たい水を持って戻って来た。
「ほら、飲んで」
「ありがとう…」
思わぬ優しさを見せられ、俺は少し気持ちを緩めた。
「村内さんはホストなんでしょ?」
「うん、まあね…」
「さっき、ナンパって言ったけど、俺は貢げませんよ」
俺が言うと、村内は吹き出して笑った。
「あはは…。まさか、そんな目的じゃないよ。心配しなくていいって…」
笑みを消すと、村内はカップを持った。
「たまにはね、商売っ気抜きで話したい時もあるんだよ。……全然、俺の知らない世界の相手と……」
何だか酷く寂しそうな眼をして村内は言った。
ちゃらちゃらして見えるが、心の中には思いも寄らぬ寂しさを抱えているのだろうか。
「俺…、もう行かないと。肉とか買っちゃったし…」
そう言って立ち上がると、村内が俺の手を掴んだ。
「また、お茶しようよ。…お茶飲むだけ。ね?」
俺に警戒させないようにと思ったのか、村内は精一杯の笑顔を見せて言った。
なんだか冷たく断ることが出来ず、俺は頷いてしまった。
だが、連絡先を教えた訳でもなく、待ち合わせをした訳でもない。だから、本当にまた会う機会があるのかどうかも分からなかった。


学校で会った時に、村内と再会したことを話すと、楠田は大げさに驚いて見せた。
「なにぃ?お茶飲んだぁ?……なにそれ、待ち伏せッ?」
「ち、違うって…。偶然会ったんだよ」
俺が否定すると、楠田は俺を睨むように見ながら首を振った。
「いやいやいや…、そんな訳ないだろ。いやまあ、どっちにしろ、何だってお茶なんか飲んだ?幾ら戸田君に声はそっくりだって言っても、ありゃ、高梁のタイプじゃないだろ?」
その言葉に俺は顔を顰めた。
「止めろよ。そういうんじゃないよ。別にお茶飲むくらい、いいかなと思っただけ」
「ふぅん…。まあでも、深入りすんなよ?ああいう男は信用出来ないから」
心配してくれているらしい楠田に、俺は頷いた。
「分かってる。それにもう、会うこともないよ、きっと」
俺が言うと、楠田も納得したようだった。
楠田ももう、あのカフェに行くつもりはないようだったし、俺も勿論、足を向けるつもりはなかった。
あのカフェに行かなければ、村内に会うこともないだろう。まさか、そんなに何度も偶然が重なる訳がない。
別に、村内に対して嫌な感情を持っていた訳ではなかったが、かと言って、積極的に関りたいとも思っていなかった。
余りに慶に似過ぎている声が、まったく違う顔から出てくるのが、どうにも気持ちを落ち着かなくさせる。
そんなことを思いながら、大学の帰りに慶の居るコンビニ寄った。
慶は、棚の前にしゃがんで商品整理をしていたが、俺が後ろから声を掛けると振り向いて笑みを見せた。
「今帰りか?」
「うん。新作のスィーツある?この前、売り切れだった…」
「苺のか?今日はまだあったと思うよ」
言われて、俺はスィーツの棚に行くと、お目当ての苺のケーキを手に取った。
こうやって改めて聞いても、やはり村内と慶の声はそっくりだった。
1度並べて聞いてみたい、なんて、俺は不謹慎にもちょっとだけ思ってしまった。
「そう言えば千冬、もうすぐ誕生日じゃなかったか?」
レジに入って、俺のケーキと炭酸水をスキャンしながら慶が言った。
「覚えてたの?」
驚いて俺が訊くと、慶は当然と言わんばかりに頷いた。
「そりゃ、覚えてるよ。千冬の誕生日くらい」
「ありがと…」
俺が笑うと、慶はレジ袋に入れた商品を渡してくれながら言った。
「誰かと約束してるのか?してないなら、ケーキ持って行くよ」
「え…?ほんと?」
「ああ。丁度土曜だし、学校休みだから。コンビニのじゃなくて、ちゃんとしたケーキ屋の買ってくから」
「ありがとう…」
嬉しくて、俺は少々感動してしまった。
毎年、寮では誕生日になると、俺にも慶にもあちこちからプレゼントが届いたものだったが、 お互いに何か贈ったことはなかった。5月の慶の誕生日には今度は俺から何か贈ろうと思った。
浮き浮きした気分でアパートへ戻る道を歩いて行くと、途中の公園のブランコに見覚えのある男が座っていた。
(嘘……)
もう会うこともないと思っていた村内にまた遭遇し、俺は本当に驚いていた。
だが、村内は俺に気が付いてはいないようだった。
そのまま通り過ぎようとしたが、何を思っているのか、日の暮れかけた空を見上げた寂しげな様子が気になって、つい足を止めてしまった。
すると、声を掛けた訳でもないのに、まるで引き寄せられるようにして村内が俺を見た。
「千冬……くん」
驚く様子もなく、ただ村内はふっと笑った。
「……こんな所でどうしたんです?お仕事、行かないんですか?」
そろそろ出勤の準備をする時間だろうと思い、俺はそう訊いた。
「うん……。今夜は休もうかと思って。何だか、もうどうでもいいってか…」
力の無い声でそう言い、村内はまた少し笑みを見せた。だが、それは、いつもの様な、あの人懐っこい笑みではなかった。
「寒くないんですか?」
俺が訊くと、また空を見上げて言った。
「ああ…、そっか。寒いね…」
俺は歩き出すと、村内に近づいた。
前に立つと、彼は黙って俺を見上げた。
「お茶飲みましょう。…約束だから……。今日は俺が奢りますよ」
俺が言うと、村内は俺をじっと見上げた。
「……マジ?」
俺が頷くと、今度は少し嬉しそうに笑った。