涙の後で
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結局俺は、そのまま村内の部屋まで連れて行かれた。
確かに歩いて10分ほどの所で、思ったよりもずっと安そうなアパートだった。
部屋は一応二間あったが、キッチンは俺のアパートよりも狭く、家具も安物かリサイクル品が多かった。
脱ぎ散らかした服を慌てて片付け、村内は俺に座るように言った。
ゴミだけは散らかっていなかったが、規格の袋にそのまま放り込んでいるらしく、流しの前に口を広げたまま置いてあった。
「ご、ごめんね、汚くて…。すぐに着替えて来るから待ってて…」
それなりに稼いでいるのだろうが、それでも追いつかないのだろう。店に出る時に身に着けている物以外は村内が贅沢している様子はなかった。
最初に会った時の印象は、どんどん変わっていく。それに連れて、俺の村内に対する好意も強くなっていった。
「寒いよね。暖房点けようか?」
寝室で着替えながら、村内は俺に話し掛けてきた。
「いえ、大丈夫です。すぐに出るんだし…」
俺が答えると、村内はセーターに腕を通しながら部屋から出て来た。
「でも、ヒーターだけでも…」
そう言うと、村内はソファの脇に置いてあったセラミックヒーターのスイッチを入れた。
「すぐに温まるから…」
そう言って、ソファの上で寒さに縮こまっていた俺を振り返った。
「ちーちゃん…」
何かが込み上げて来たようにサッと近づいて、俺が逃げる間もなく村内は俺を抱きしめた。
いや、抱きしめたというのとは違う。
今まで色々な人が俺を抱きしめてくれたが、それは俺を自分の懐の中に入れるような行為だった。だが、村内はまるで縋るようにして俺の胸に顔を押し付けた。
強いフレグランスが鼻を擽った。
まだちゃんと着れていなかった服は乱れ、少し背中が見えていて、まるで大きな子供のようだと思った。
そして、最初に会った時から比べて、村内の口調が段々俺に甘えるように変わってきているのに気が付いた。
それが、強い孤独を村内の中に感じさせた。
俺は振り払わず、黙って村内の背中に腕を回した。
すると、ゆっくりと顔を上げ、村内は俺を見上げた。
「キスしたいな……」
まるで叶わないことのように言い、村内はただ俺を見つめた。
答えを待っていた訳ではなかっただろう。やがてふっと笑うと、俺の身体を離して立ち上がった。
「ごめん…。すぐ支度するね」
「……何か作りましょうか?」
俺が言うと、村内は驚いて振り返った。
「外で食べなくても、俺が作りますよ」
「ほ、ほんと?」
村内は俺の前に戻って来て膝を突くと、両手で俺の手を掴んだ。
「味に保証はしませんけど」
俺が言うと、村内の顔に嬉しそうな表情が広がった。
だが、何かに気づくと、すぐにまた悲しそうな顔に戻ってしまった。
「駄目だ…。俺んち、作ってもらうにも材料なんかなんも無いし。それに…、小さいフライパンが1個あるだけで、鍋も何も無いんだ」
がっくりと肩を落とした村内を見て、俺は何だか本当に可哀相になってしまった。
言葉を掛けようとすると、サッと顔を上げてまるで祈るように俺を見上げた。
「今日はさ、外で食べよう?そしてさ、今度は道具も買っておくし、材料も買っておくしさ、あと、掃除もちゃんとしとくから、だから、ちーちゃん…、また来てくれないかな…」
ギュッと、俺の手を掴む手に力が籠る。痛いほどのその力に、俺は村内の不安を感じた。
「いいですよ。じゃあ、この次は村内さんの好きな物作りますから」
「ちーちゃん…」
信じられないと言いた気な顔で村内は言葉を詰まらせた。
一体俺に、何を期待しているのか。どんな理想を見ているのだろうか。
それがどんなものだろうと、俺は村内の思っているような人間では無いのに。
「ほら、行きましょう。早く立って、支度して下さい」
俺の膝の上に有った手をポンと叩くと、村内は弾かれた様に立ち上がった。
「わ、分かった。待ってて…」
慌てて寝室へ戻る村内を見送り、俺はそっと溜め息をついた。
彼に対して、こんなに深入りするつもりはなかった。
楠田も心配していたように、多分、俺と村内は住む世界が違い過ぎる。本当なら、関るべきではないのだ。
だが、絶望の中に居るような村内を見捨てるような真似は、俺には出来なかった。
街の洋食屋で夕飯を食べた後、村内は俺をアパートまで送ると言ったが、俺は断った。
日曜は店が休みだと言うので、次の日曜にご飯を作りに行くと約束して別れた。
村内と会っていることは、楠田にも慶にも言うまいと思った。
余計な心配をさせたくなかったし、それに、村内の声が自分と似ていると知ったら、慶はきっと嫌な気持ちになるだろう。
今日はもう、仕事は上がって寮に居る時間だろう。コンビニの前を通り掛かったが、慶が居ないと思うと寄る気にはならなかった。
慶と同じ昼のアルバイトの中に、可愛い女の子が一人居る。その子が慶に気があるに違いないと、楠田が言っていた。
本当は気になっていたが、俺は慶と会ってもそのことには触れないようにしていた。
もしかすると、あの子が慶の彼女になる日が来るのかも知れない。
その時俺は、きっとまた泣きたくなるだろう。
男は駄目だと言っておきながら、村内は俺とキスしたいと言った。
キスして欲しいと言った俺を、以前、慶は信じられないものを見るような眼で見た。
だが俺は、それでも慶が好きだった。
そして、また慶に彼女が出来たとしても、俺はきっと慶を好きなままだろう。
アパートの階段の下まで来た時、コートのポケットの中で携帯の着信音が響いた。
取り出して見ると、慶からだった。
「もしもし?……うん、今帰って来たとこ」
近くに居るので寄ってもいいかと訊かれ、俺は勿論OKした。
慶が来る前に少しでも部屋を暖めておこうと、俺は急いで階段を上って部屋の鍵を開けた。
部屋に入って急いで暖房をつけ、小型のヒーターも点けると、コートを着たままでキッチンへ入り、コーヒーメーカーをセットした。
コートを脱いでハンガーに掛けた時、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、笑みを浮かべた慶が立っていた。
「寒かったろ?」
俺が訊くと、慶は頷きながら玄関に入って来た。
「ご飯食べたの?」
「うん、今、友達と食って来たとこ」
靴を脱いでマフラーを外しながら慶が言った。
「友達…?」
「うん、夜学の…。寮も一緒で最近結構よくツルんでる奴」
女の子ではなかったことを知り、少しほっとして俺は頷いた。
「今、コーヒー淹れてるから待ってて」
「ありがとう…」
頷くと、慶は座卓のいつもの位置に腰を下ろした。
「コンビニ以外で会うの久し振りだな?」
「そうだね。慶、忙しそうだったし…」
「いや、あんまり入り浸っても悪いかと思ってさ。…って、今更だけどな」
苦笑した慶につられて笑ったが、俺は毎日でも来て欲しいと思っていた。
「なんか最近、変わった事あったか?」
訊かれて、すぐに村内の顔が浮かんだが、俺は首を振った。
「ううん、別に…。慶は?」
「うん…、まあ、無いことも無いけど…」
歯切れの悪い返事だったが、その理由は何となく分かった。多分、コンビニのあの女の子だろう。
告られて、付き合うことになったのかも知れない。
だとしても、俺に話してくれなくていい。
知りたくない。
本当に、知りたくないのだ。
「あ、コーヒー入ったかな」
立ち上がって、俺はキッチンに逃げた。
後何度、俺は慶の恋を見ることになるのだろうか。
結婚して、子供が出来て、幸せに暮らす慶の、その人生の中に、俺は何時まで存在していられるのだろうか。
カップにコーヒーを注ぎ、それを持って戻ると、慶は本棚の上から真藤先輩がプレゼントしてくれたブックマーカーを取って眺めていた。
「これ、真藤さんから?」
訊かれて俺は少し驚いて言った。
「何で分かったの?」
「なんとなく……。真藤さんは千冬が好きそうな物を知ってるよな」
そう言って、慶はブックマーカーを元の場所に戻した。
コーヒーのカップをテーブルに置いて俺が座ると、慶は脱いだコートを引き寄せてポケットから何かを出した。
それはパソコンのフラッシュメモリーだった。
「え?なに?」
差し出されたそれを受け取ったが、俺は意味が分からずに慶を見た。
すると慶は少し照れたように笑った。
「俺の小説…。一応完結したから読んでもらおうと思って。遠慮なく駄目出ししていいからな?千冬の感想を聞かせてくれ」
「えっ?いいの?俺が読んでも?」
驚いて俺が言うと、慶はまた笑った。
「勿論だよ。ほんと、まだまだだけど、千冬に最初に読んでもらいたかったから…」
「慶……」
俺は感動して言葉を詰まらせたまま、慶を見つめた。
最初の読者に、慶は俺を選んでくれた。
それだけで、泣き出したいくらい嬉しかった。
「ありがとう…。凄く楽しみ…」
フラッシュメモリーを見つめて俺が言うと、慶は首筋をポリポリ掻きながら言った。
「がっかりしなきゃいいけどな…」
「そんなことないよ」
俺が急いで言うと、慶はまた照れくさそうな顔をした。
結局慶は、例の女の子のことは何も言わなかった。
もしかすると、俺の早とちりだったのかも知れない。
慶が帰った後で、俺はパソコンの電源を入れると、早速フラッシュメモリーを差し込んだ。
慶の文章は読み辛くはなかったが、まだ慣れていないのか思っていたよりも硬い感じだった。
そして、驚くことに、それは全てがフィクションではないようだった。
主人公の生い立ちが、慶とよく似ていたのだ。
引き取られた父親の家で、主人公を育ててくれたのは祖母だったが、息子が素性の良くない女に産ませた子供を、どう扱っていいのか思いあぐねているような処があった。
だが、それでも祖母は愛情を注いでくれたが、祖父の方は随分冷淡だったようだ。
これが事実を基にして書いたのだとしたら、慶は随分辛い思いもしたに違いなかった。
だが、物語の他の部分は創作らしく、慶との共通点はなかった。
伏線が拾い切れていない処や、稚拙さを感じさせる部分もあったが、俺は慶の小説が嫌いではなかった。
俺が慶に心惹かれているという事実を差し引いても、慶には才能があると感じた。
面と向かって感想を言うのは気恥ずかしかったので、俺は後で、そのことをメールで伝えようと思った。
何よりも、慶が最初の読者に俺を選んでくれたことが、本当に嬉しくて堪らなかった。
だが、その幸せな気持ちを、翌日楠田が打ち崩した。
大学のゼミで顔を合わせると、楠田は俺を引っ張って言った。
「おい、例のコンビニの子、とうとう戸田君に告ったんじゃないか?」
思い掛けない言葉に愕然として俺は楠田を見た。
「な、なんで、分かるの?」
「今日、ここに来る時にさ、コンビニの前を通ったんだけど、二人揃って仲良く出勤する所だったぞ。あれってまさか、一緒の部屋から来たってこと?」
眼を見開いた楠田の顔から俺は目を逸らした。
「そんなの俺が知る訳ないだろ?」
胸が苦しくて、それだけ言うのがやっとだった。
昨夜、慶は一言もそんなことは言わなかった。
まさか、俺の部屋からそのまま、彼女の部屋に行ったというのだろうか。
(そんな……)
違うと思いたかった。だが、違うという確信も無かった。
後で小説の感想を携帯に送り、今日の帰りにコンビニに寄って、フラッシュメモリーを返そうと思っていた。
だがもう、今日は慶の顔を見る勇気が無い。いや、多分暫くの間は、普通に接することは出来ないだろう。
お昼にでも感想だけ送って、フラッシュメモリーは預かっておこう。そして、暫くは会えなそうだと言おう。
あのコンビニの子は本当に可愛い子だった。あの子を目当てに、店に行く男子学生も沢山いた。慶の心だって動かすことも出来るだろう。
席に着いて、俺は深い溜め息をついた。
もう随分、平気になったつもりだった。
今では、他人から見ればちゃんと友達同士に見える筈だった。だが、やはり慶に特定の相手が出来たと知ると、こんなにも心が乱れてしまうのだ。
(駄目だな…、ほんとに俺……)
自分に呆れて笑ってしまいそうだった。
だが、諦めるしかない。
いや、もうずっと以前に、俺は諦めると決めていた筈だった。