涙の後で


-3-

村内とラーメンを食べてから1か月が過ぎ、俺はもう彼のことを思い出すことも無かった。
慶も忙しいのか、俺の誕生日の後は部屋に来なかったが、大学の行き帰りにコンビニに寄れば大抵は顔を見ることが出来たので、寂しいということも無かった。
楠田は相変わらず大勢の友達と賑やかな生活をしているようだったが、時折、部屋に現れてはご飯を食べて帰った。
その日も、あれを作れ、これを作れと我が儘を言って俺に夕飯を作らせ、満足気にそれを平らげた。
「そう言えばさ、この前、友達と久し振りにあのカフェに行ってさ…」
食後のお茶を淹れて出した俺を見上げて楠田は言った。
「あのホスト、相変わらず来てたよ。それで、俺に声掛けてきてさ…」
そこまで言うと、楠田はふぅふぅ吹いた後で熱いお茶を啜った。
「千冬くんは元気かって…。元気だって言ったら、良かったってさ。まあ、それだけだったけど……」
「そう…」
俺が答えると、楠田はまたお茶を吹きながら上目遣いで見た。
「あいつの店、近いのかと思ったら案外遠かった。カフェに近いから来てるんだと思ったけど、そうじゃなくてマスターと元からの知り合いなんだとさ。だからやっぱり、お前が会ったのって偶然じゃなかったのかもよ」
「店は遠くても、近くに住んでるのかも知れないだろ?大体、俺があのマーケットに行くのなんか分かる訳ないじゃん」
俺が言うと、楠田は肩を竦めた。
楠田は疑っているようだったが、待ち伏せは有り得ないだろう。俺が何処に住んでいるのか村内は知らないのだし、俺の行動範囲だって知る筈がない。だとしたら、何度出合おうと、それは偶然に過ぎないのだ。
だが、楠田のお陰で、俺は忘れていた村内の寂しげな顔を思い出してしまった。
もう元気にはなったと思うが、また、あの公園で体が冷えるのも構わずにぼんやりと座っている日もあるのだろうか。
ほんの少しだが、その孤独を垣間見てしまうと、やはり気になってしまう。だが、だからと言って俺が彼に何かしてやれる訳でもなかった。
寒いから帰りたくないだの、ここに泊めろだの、うだうだと時間を潰していた楠田だったが、とうとう観念して帰って行った。
一人になると、途端に寂しくなる。こんな時は、未だに、賑やかだった寮生活が懐かしくなるのだった。

また会いたいと言いながら、村内は、別れる時に連絡先を教えろは言わなかった。
結局は縁が無かったからだろうと思っていたが、彼との縁は切れた訳ではなかった。
週末に実家へ帰り、日曜の夕方戻ると、俺は駅からアパートまでの道を歩いていた。
すると、目の前の店から1組の男女が出て来た。
女が引き留めようとしていたが、それを男は振り払おうとしていた。
見ると、その男は村内だった。
思わず立ち止まると、二人の会話が耳に入った。
「だから、もう、俺そういうの止めたんすよ」
困ったように村内が言うと、女は顔を紅潮させて強い調子で言った。
「何言ってんのよ。あたしが幾らあんたに貢いだと思ってんの?今更そんな…」
女の言葉を村内は遮った。
「俺、頼んでないよね?金もプレゼントも、何一つ、くれって言った訳じゃない。悪いけど、俺に会いたかったら店に来てよ。何時でも歓迎するし」
早口でそう言うと、村内は女にサッと背を向けた。
そして、そこに俺が立っているのに気が付いた。
「ちーちゃん…」
幾らか顔を強張らせた村内に、俺は軽く頭を下げた。
すると、足早に俺に近づき、村内は俺の手を取った。
「ちーちゃん、行こう」
グッと腕を引かれ、俺は驚いて言った。
「ど、何処に?」
だが、村内はそれには答えず、ただ俺の腕を引っ張ってどんどん歩き始めた。
客らしいその女性から逃げたかったのかも知れない。俺はそう思って、仕方なく一緒に歩いた。
「何処行くんです?」
振り返って、女から大分遠ざかったのを確認し、俺は訊いた。
「何処でもいい…。ちーちゃん、何処行きたい?」
俺の方を見ようとせず、硬い声で村内は言った。
俺は軽く溜め息をつくと、やっと腕を離させた。
「何処も何も、俺、アパートに帰る所だったんです。もう、あの人も居なくなったみたいだし、俺も帰りますよ」
すると、村内は一瞬、泣きそうな顔になった。
「なんで?折角、やっと会えたのに……」
それはまるで、俺との再会を待ち望んでいたかのような言葉だった。
何故、村内が俺に執着するのか分からない。別段、優しくしたつもりもないし、一緒に居て楽しいと感じさせるほど会話が弾んだ訳でもない。
「……じゃあ、お茶でも飲みます?」
俺が言うと、村内は何時もの人懐っこい笑みを浮かべて頷いた。


「驚いた?さっき……。あんなんばっかだよ、俺に集まって来る女なんて」
卑下するように村内が言うのに、俺はメニューから眼を上げた。
「今日は休みなんですか?休みの日もお客さんと会うの?」
すると、村内は少し唇を歪めた。
「あの客、随分金使ってくれたから断れなくて…。でも、俺はもう何も貰う気ないし、見返りで寝るのも嫌だって言ったら、キレちゃって…」
自嘲するように笑い、村内は黙った。
本当に村内は自分の仕事に嫌気がさしているようだった。
俺は気を変えるように、彼の方へ向けてメニューを広げた。
「何にします?」
訊くと、村内はメニューを見ずに言った。
「ちーちゃんは?」
「俺は…、ココアにしようかな。温まるし…」
「じゃあ、俺も」
「甘いの平気なんです?」
俺が訊くと、村内は頷いた。
「うん、大丈夫。甘いのも好きだよ」
俺は頷いて、店員を呼ぶとココアを二つ頼んだ。
「あ、そうだ…」
何かを思い出したようにポケットを探り、村内は何かを掴み出した。
「はい。…もしかして、また会えたら渡そうと思って持ってたんだ」
「え…?」
俺の前に置かれたのは、5センチ程の小さなクマのぬいぐるみだった。
「これ、誕生日の数だけあるんだよ。ちーちゃんの誕生日の売ってたから…」
「あ、ありがとう…」
多分、300円位で雑貨屋などに売っている物だろう。もしかしたら、客へのサービスで使う物なのかも知れなかったが、わざわざ俺の誕生日の物を買ってくれたのだと思うと断るのも悪い気がした。
「こんなもんで、ごめんね?」
「いいえ。可愛いですね」
俺はクマを受け取り笑って見せると、それをカバンの中へ入れた。
「誕生日は、誰かにお祝いしてもらった?」
「ええ、友達と先輩に…。家で鍋しました」
「へえ……」
何故か眩しそうな顔をして村内が頷いた時、ココアが運ばれて来た。
火傷しないようにふーふー吹きながら、俺たちは暫く黙ってココアを飲んだ。
「……やっぱり、仕事、辞めたいんですか?」
気になって俺が訊くと、村内は下を向いたまま諦めたように笑い頷いた。
「うん……。でも、今は無理だ」
「お金が……要るの?」
躊躇ったが俺は訊いた。
「まあね。……俺が出来る仕事で、今以上に稼げるものなんか無いしさ」
ココアのカップをソーサーの上に載せ、村内は両肘を突くと指を組んで、その上に顎を載せた。
「俺のお袋さ……、本当はアル中なのよ」
「え……?」
「病院に入ったり出たりでさ、それにも金掛かるし、出たら出たで、全部飲んじまうし…。 おまけに、俺にも借金があるし…。嫌でも今は、仕事を辞める訳にはいかないんだ」
「そう……ですか」
俺が言うと、村内はふっと笑った。
「ちーちゃんのお母さんは凄いね。一人でちーちゃんを立派に育てて、大学まで行かせてくれて…。憧れるよ、そういう母親…」
「そんな…」
確かに母は、父の死後も挫けずに生活を支えて、俺に惨めな思いもさせず育ててくれた。今更ながらに、俺は母にもっと感謝しなければと思った。
「俺のお袋は、随分若い時から酒に溺れてさ、覚えてる限りじゃ、俺が5歳ぐらいの時には大抵酔っ払ってたよ。お陰で俺も施設に入ったり出たりの繰り返しで…」
そこまで言うと、村内は俺の顔を見てぎこちなく笑った。
「ごめん…。俺の身の上話なんて聞きたくないよな。あんまり他人に話したことなかったんだけど」
そう言って村内は、またカップを持つと少し冷めたココアに口をつけた。
「そんなことないですよ。…話したいなら聞きます」
俺が言うと、村内は笑って首を振った。
「いや、いいよ。俺の事より、ちーちゃんの事教えてよ。嫌じゃなかったらさ」
「別に、話すことなんかないですよ。俺なんか至って平凡ですし…」
俺が答えると、村内は寂しそうな顔をした。
「そっか…。やっぱり嫌だよね、俺になんか話すの」
「そういう訳じゃないです。何話していいのか分からないだけ」
俺は自分が村内に同情し始めているのを感じていた。
不幸な生い立ちも、不本意な仕事をしなければならないことも、何処までが本当なのか分からなかったが、全部が事実だとしたら辛くない訳はない。
今彼は、それに耐え切れなくなっているのかも知れないと思った。多分、心の内を話せる相手も居ないのだろう。
「今日…、会えて嬉しかった。もうきっと、会うことも無いんだろうなって思ってたからさ」
心からそう言っているように聞こえたが、俺は答えなかった。
慶と同じ声でこんなことを言われると、妙に心に響いてしまう。絆されまいと思っていても、難しかった。
「なんで俺なんです?気に入ってもらえた理由が、俺には分からない」
村内は答えを少し躊躇っているようだったが、結局口を開いた。
「最初に見た時、凄く綺麗だなって思ったんだよ。男の子だってのは分かってたけど、話してみたくて…」
そこまで言うと、気が付いたように眼を上げて俺を見た。
「あ、別に口説こうと思った訳じゃないよ。ただ、話してみたかった…。ちーちゃんは、きっと汚れてない世界に生きてるんだろうなって…」
俺は戸惑いを隠せなかった。
慶も、そして村内までも、なぜ俺に対してこんな印象を持つのだろう。
「俺は…、そんなんじゃないですよ。狡くて汚い…、綺麗なんかじゃないです」
俺が言うと村内は激しく首を振った。
「そんなことないよ。綺麗だよ、ちーちゃんは…。話して分かった、やっぱ俺の思った通りだった」
嬉しそうに言って、村内は俺をじっと見た。
居た堪れない思いがして、俺は眼を上げられなかった。
「ごめん……。気に障った?」
俺が黙っているので、村内は不安そうに言った。
「いいえ…」
顔を上げずに俺が言うと、手が伸びて来てテーブルの上に置いた俺の手を掴んだ。
「変な気持ちで言ったんじゃないよ?……ちーちゃんが俺みたいな男と付き合ってくれる訳ないしさ…」
やっと眼を上げて、俺は村内の不安げな眼を見た。
「何言って…。村内さん、男でもいいの?」
掴まれていた手を引っ込めながら俺が言うと、村内は慌てて首を振った。
「いい訳ないよ、男なんか…」
だが、一瞬口籠ると今度は吐き捨てるように言った。
「でも、女も好きじゃない」
こんなにも男を売り物にしている癖に、と俺は思った。
今日の村内はこの前の質素な彼とは違って、客と約束していたからだろう、随分、金の掛かった身形をしていた。
手首には高級ブランドの腕時計が光り、フレグランスも香ってくる。服もすべてブランド物だろうし、靴も随分いい物のようだった。
今までは意識して見なかったが、確かに村内には素人にはない色気があった。
「ちーちゃん、時間あるなら、ご飯行こうよ」
期待を込めた目で見られたが、俺は首を振った。
「嫌です。……今日の村内さんは目立ち過ぎだし」
「あ…」
村内は自分の服を見下ろして、ばつの悪そうな顔をした。
「な、なら、着替えるから。それならいい?」
どうしてこんなに、必死になるのだろう。俺なんかと、何故そんなに居たがるのだろうか。
「分かりました。じゃあ、ここで待ってますから…」
俺が言うと、村内は首を振りながら立ち上がった。
そしてまた、強引に俺の手を掴んだ。
「駄目だよ。行こう」
「えっ?」
驚く俺を引っ張り、村内はレジで金を払うと、また俺の手を引いて表へ出た。
「逃げたりしないですよ。ちゃんと待ってますから」
そう言ったが、村内はまた首を振った。
「俺の部屋、ここからそんなに遠くないから」
「ちょッ…」
まさか、部屋まで連れて行かれるとは思わず、俺は少し慌てたが、村内は手を離そうとはしなかった。