涙の後で


-5-

俺の正直な感想を、慶は真摯に受け取ってくれた。
会って、もっと直接聞きたいと言われたが、俺は暫く時間が無いから、時間が出来たら連絡すると言った。
慶は残念そうだったが、分かってくれた。
楠田は俺の為と自分の好奇心を満たす為に、帰りにコンビニへ寄って行くらしかったが、俺はその前を通らないように回り道をして帰った。
部屋に入って、暫くの間ぼうっとしていたが、涙は出なかった。
さすがに、少しは成長したらしいと自分で自分が可笑しくなった。
それは一種の逃避行動だったのかも知れない。昨夜遅くまで慶の小説を読んでいたこともあって、俺は急に眠気に襲われた。
どうせ食欲もないし、このまま眠ってしまおうと、俺は服のままでベッドに横になった。


目が覚めたのは玄関のチャイムの音でだった。
時計を見ると、10時を回っていた。
こんな時間に誰だろうと思ったが、俺はのろのろと起き上がって、玄関へ向かった。
「はい、どちら様?」
俺が訊くと、すぐに返事があった。
「千冬、慶だ」
何故慶が、連絡も無しにこんな時間に来たのだろう。今までに、こんなことは1度も無かった。
「慶…、どうしたの?」
ドアを開けると、寒そうに身を縮めた慶が立っていた。
「いや…、今日コンビニに楠田が来て、なんか誤解してたみたいだったから。もしかして、千冬もそうなのかと…」
「え…?あ、兎に角入って…」
すっかり冷えているだろう慶を中に入れ、俺は暖かい飲み物を用意する為にキッチンへ行った。
「お茶でいい?」
「ああ、何でも」
慶の返事を聞き、俺は電気ポットに水を入れてスイッチを入れた。
誤解しているとは一体何のことだろう。もしかして、楠田の早とちりだったとでも言うのだろうか。
そうだったら嬉しい。俺の気持ちは少し浮上し始めた。
「誤解って何のこと?」
お湯が沸くまでの間、部屋へ戻ると、俺は慶に訊いた。
「ああ、なんか、俺とコンビニのアルバイトの子が付き合ってるんじゃないかって楠田が言うからさ…」
思った通り、慶の話とはそのことだった。
「うん、なんか楠田が慶と一緒に出勤してきたのを見たって…」
俺が言うと、慶は呆れ顔で首を振った。
「だからそれだよ。一緒に出勤って、途中で会ったから一緒に来ただけで、待ち合わせた訳でも何でもない。全く、相変わらずだよ、楠田は…」
苦笑した慶に、俺も笑って見せた。
「じゃあ、付き合ってないの?」
「いや…、実は付き合って欲しいとは言われたんだ。でも、断った」
「そうなの?」
「ああ。付き合うことになったなら、千冬にちゃんと言うよ。昨日何にも言わなかったのは、付き合うつもりが無かったからだ」
「そうなんだ…」
ホッとして俺は思わず笑みを浮かべた。
わざわざ慶は、俺の誤解を解こうとこんな時間に来てくれたのだ。その気持ちが嬉しかった。
お湯が沸いたのでお茶を淹れて出すと、すぐに手を伸ばして、慶は用心深く熱いお茶を啜った。
「でも何で断ったの?あの子、凄く可愛いのに…」
理由を知りたくて俺は訊いた。
「確かに可愛いけど、俺は暫く彼女とかはいいかなって…。おかしな話、ずっと男ばかりで生活してた所為か、何となく面倒臭くなってるんだよな…」
「何それ?若者の言うことじゃないよ」
俺の言葉に慶は苦笑した。
「そうだな。でも今はいいよ。千冬たちと飯食ったりしてる方が楽しいし」
慶の言葉に深い意味が無いのは分かっていた。
だが、可愛い女の子より俺を選んでくれたような気持ちにさせてくれた。
「小腹空かない?なんか、夜食作ろうか?」
現金なもので、安心すると俺は急に空腹を覚えた。
「え?いいよ、そんな…」
慶は遠慮したが、俺はキッチンへ行く為に立ち上がった。
「俺、帰ってすぐ寝ちゃって、夕飯食べてないんだ。だから、ついでだから…。ホットサンドでいい?」
「ああ、うん。悪いな…」
キッチンへ入って慶から姿が見えなくなると、俺は自然と笑みを浮かべてしまった。
まだもう少し、俺は誰かのものになる慶を見なくて済みそうだった。
明日、会ったら楠田に文句を言ってやろうと思いながら、パンにバターを塗った。



本当は行くかどうか迷っていたのだが、約束していた通り、日曜日に少し食材を買って、村内のアパートへ向かった。
チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いて村内が現れた。
「ちーちゃん…、ほんとに来てくれたんだ…」
嬉しそうに言い、村内は俺を中へ入れた。
「約束したでしょ?ちゃんと守りますよ」
「うん…。嬉しい…」
今日は玄関も、部屋の中もちゃんと片付いて掃除もしてあった。キッチンにあったゴミの袋も消えて、流しの中も綺麗になっていた。
「なんか飲む?温かいの淹れるよ」
「俺がやりますよ」
そう言うと、村内は首を振った。
「いいから座ってて。俺がやるから」
買って来た食材を渡すと、村内は礼を言って受け取り、キッチンへ入って行った。
間も無くカップを持って戻ると、一つを俺の前に置いた。
「ありがとう…」
俺が礼を言うと村内は首を振って俺の隣に座った。
「何食べたいですか?何かリクエストあります?」
俺が訊くと村内はまた首を振った。
「ちーちゃんが作ってくれるなら何でもいいよ。俺、好き嫌いないし」
「そうなんです?じゃ、買っておいてくれた材料見て決めますね」
「うん…」
嬉しそうに笑って村内は頷いた。
本当に俺が来るのを待っていてくれたのだなと思った。俺の料理なんて大したことないのに、それでも、こんなにも期待してくれている。
随分、色々な女の人と付き合ってきたのだろうに、料理を作ってもらったことは無かったのだろうか。
施設にも居たと言っていたし、母親はアル中らしいから、もしかして村内は家庭料理というものを余り知らずに育ったのかも知れない。
「寒いからシチューと思って、その材料は買って来たんだけど…」
「うん…」
くすぐったくなるくらい俺を見つめたまま、村内は頷いた。
「あの…、そんなに見ないでくださいよ」
「あ…、ごめん」
そう言うと、村内は急いで向きを変えてカップを手に取った。
だが、すぐにまたこちらを向いて俺を見つめる。本当に居心地が悪くなる位だった。
「じゃ、じゃあ、ご飯作りますね」
俺が立ち上がると、村内も一緒に立ち上がった。
「手伝う…って言っても、俺は何にも出来ないけど…」
尻窄みに声が小さくなった村内の様子に少し笑い、俺はキッチンへ入った。
先ず、冷蔵庫を開けて何が入っているのか確認すると、肉やら野菜やら、それから調味料類がぎっしりと入っていた。
「何買ったらいいか分からなくて、取り敢えず目に付くのを色々買ったんだけど…」
「あー、それはいいけど、肉は焼肉用ばっかりですね。あ、生鮭がある。ムニエルにでもします?」
振り返って俺が見上げると、村内はニコニコしたまま頷いた。
小さいフライパンが一つしかないと言っていたが、調理道具も色々と揃えてあった。
俺は腕を捲って、料理を始めた。

ソファの前の小さなテーブルしか料理を並べる場所はなかった。
全部の皿を何とか載せると、俺たちは向かい合ってカーペットの上に座った。
「いただきます…」
子供のように目を輝かせ、村内は嬉しそうに料理を口に運んだ。
「うん、旨いっ」
余りの喜びように、俺の方は気恥ずかしくて堪らず、曖昧に笑って頷くと目を伏せて箸を持った。
何度も何度も、旨いと言い、村内は俺の作った料理を残さず平らげた。
「はぁ、腹いっぱい…」
些か膨らんだ腹を撫でて、村内は言った。
俺よりも年上の、身体だってずっと大きい、男臭さをぷんぷん匂わせているような村内が、何だかまるで無邪気な子供の様に思えて、俺は可笑しくなった。
「お茶、淹れるね?」
俺が立ち上がろうとすると、村内は慌てて手を伸ばして俺を抑えた。
「いいよ、俺がやる。ちーちゃんは座ってて」
「じゃあ、テーブルの上片付けるよ。置くとこ無いし」
「あ、じゃ俺も一緒に…」
そう言うと、村内は食器を重ねて流しへ運んだ。
茶葉も急須も無いというので、村内にコーヒーを淹れて貰い、俺は汚れ物を洗い始めた。
すると、コーヒーメーカーをセットし終わった村内が俺の隣へ来て、洗った食器を濯ぎ始めた。
幾ら俺が小さいとはいえ、小さな流しを前に男二人が作業するとなると、狭くて重なるように立つしかなかった。
今日は村内から香水の匂いはしなかった。
その代わり、俺の来る前に風呂にでも入ったのか、幾らかボディソープの匂いがした。
「ちーちゃん、ホントにありがと…。全部旨かったよ」
「それなら良かったけど…」
食器を洗い終わり、俺は手を拭いた。ちょうど、コーヒーが入ったので、カップを出してそれに注いだ。
村内も食器を片付け終わって、二人で居間に戻った。
これを飲んだら帰ろうと思っていたが、隣に座った村内が何だかソワソワしているのに気づき、俺は彼を見た。
「どうかしました?」
俺が訊くと、村内は首を振ってコーヒーを飲んだ。
だが、その顔は何だか少し悲しそうだった。
コーヒーを飲み終わり、それを流しへ片付けると、俺はそろそろ帰ろうとコートを取りに行った。
すると、その後ろから付いて来た村内が、俺の腕を掴んだ。
「まだ、帰らないで」
「え…?」
「もっと居てよ、ちーちゃん…」
見上げると、また泣きそうな顔で俺を見ていた。
腕を掴んでいた手を宥める様に軽く叩きながら俺は言った。
「また来ますよ。ね?」
すると、村内は激しく首を振った。
「嘘だ…」
言うなり、腕が俺を捕まえて抱き寄せた。
「もう来ないんだろ?そう思ってるんだろ?」
俺の肩の上で、村内は決めつける様にそう言った。
何故、分かったのだろう。
これきりで、縁を切ろうと思っていた俺の気持ちが、何故分かってしまったのだろう。
「俺のこと嫌い?俺、馬鹿だし、汚い仕事してるし、だらしないし…。でも俺、俺はちーちゃんが好きなんだ」
嫌いな訳じゃない。
最初は警戒していたが、もう随分好きになってしまった。
だからこそ、いけないと思う。
傍に居て、これ以上絆されたら、俺はきっと、とんでもないことをしでかすだろう。
だってこんなにも、”好き”と言われてドキドキしている。
慶と同じ声で”好き”と言われて、泣きそうになっているのだ。
「ほんとに、また来るから…。約束する」
宥める様に背中を撫でたが、村内は駄々っ子の様に何度も俺の肩の上で首を振った。
「嫌だ。帰らないで…。傍に居て…」
「村内さん…」
引き離そうと俺が腕を上げた時、村内の方がサッと離れた。
だが、次の瞬間、俺は彼の腕に抱き上げられていた。
「な…ッ。下ろして」
俺がもがくと、村内は黙ったままぎゅっと力を入れ、そのまま俺を寝室まで運んだ。
「い、嫌ッ…」
ベッドの上に下ろされ、慌てて逃げようとした俺を村内は後ろから抱きしめた。そして、片手で俺の顎を掴むと、自分の方に向けさせた。
「や…め……ん…」
逃げようとしたが、キスされてしまった。
必死になった村内の力は強く、圧し掛かられると動けなかった。
片手で俺の手首を掴み、もう一方の顎を掴んだ手を離さず、村内はキスを続けた。


嫌悪感は無かった。
沢山の女性を抱いて来ただろう村内のキスは、俺に抵抗する隙も与えずに、頭の芯を痺れさせた。
駄目だ、と心の中では分かっているのに、動くことが出来なかった。
「駄目だ…、こんなことしたら……」
やっと自由になった口で俺は言い、村内を見上げた。
「嫌だ…。帰さない……」
そう言った村内は、怖い程、男の顔をしていた。