涙の後で


-7-

うとうとしたが、結局深く眠ることは出来ず、俺は早朝に起き出すと、そっと寝室を出て服を着替えた。
村内はよく眠っていて起きる様子はなかった。
俺はコートを着ると、そのまま部屋を出た。
本当は、もうこれきりで、ここへ来るつもりも、村内に会うつもりもなかった。
だが、昨夜の村内の、あの打ち拉がれた様子を見て、俺の決心は揺らいでいた。
慶の身代わりをさせてしまった事への償いの為にも、俺に出来る事があるならしてやりたい。本当は、愛せるものなら、心も全部与えても良かった。
もしかしたら、本当にそう出来るのかも知れない。
毎夜のように彼に抱かれて、好きだと囁かれたら、俺の心は本当に慶を忘れてしまうのかも知れない。
そんなことを考えながら、俺はまだ夜の明け切らぬ暗い道を歩いた。


部屋に帰り着くと、すぐに暖房を付けて部屋を暖め、風呂場へ行って湯船に湯を張った。
少し温まって、僅かでも眠ろうと思ったのだ。
身体は酷く疲れていた。自分のベッドなら、きっと少しは眠れるだろうと思った。
湯が溜まるまでの間、本棚に寄り掛かり、膝を抱えてじっと座っていた。
明日から、もうどうやって過ごせばいいのか分からなかった。
学校へは行くが、慶にも真藤先輩にも楠田にも、顔を見せられない気がした。
ここでみんなでご飯を食べたり、遊びに行ったり、今まで普通にしていたことが、全て夢のように思える。
誰に咎められることは無くても、自分だけは騙せない。
罪を犯したことを、俺だけは知っているのだ。


湯が溜まり、ゆっくり浸かると、やがて身体が温まり、少し眠気が訪れた。
ここで、このまま眠ってしまってもいいと思ったが、沈んでいる俺を見つける誰かが気の毒だと思い、湯船から出た。
身体を拭いて下着だけ着けると、俺はベッドに入った。
身体を温めたことが良かったのか、やがて俺は眠りに落ちた。



数時間しか寝ていないので、まだ頭がぼうっとしたが、俺は支度をして学校へ向かった。
避けていたのだが、とうとう学食で楠田に捕まってしまった。
俺の顔を見ると、楠田は眉を顰めた。
「なんだ?酷い顔して。寝不足か?」
「うん…。なんか色々考えて眠れなくなって…」
「考えるって何を?例の件なら俺の勘違いだったって分かったろ?大体、その日の内に、おまえの誤解を解く為に会いに行くなんてさ、戸田君はやっぱり脈有りだと思うぞ」
楠田はそう言ったが、俺は取り合わなかった。
慶の気持ちが俺に無いことは、俺が一番良く分かっている。今更もう、期待なんかしない。
それに、俺はもう慶の顔を見ることも出来ないのだ。
きっと、会えば罪悪感で居た堪れなくなるだろう。平静を装って傍に居ることなんか、とても出来そうになかった。
学食を出た所で立ち話をしていた学生が、俺を見るとサッと背を向けた。
見覚えがあるから、学園の時に一緒だった先輩だろう。もしかすると、俺に手紙をくれたか、携番を教えてくれた人かも知れない。
俺も楠田も、たまにそんな事に出会う。それは、きっと、過去に男相手に自分がした行為を恥じているからだろうと思った。
こちらは気にしていなくても、やっぱり消したい過去なのだろう。知らない振りをすることが、俺に出来る唯一の事だ。
俺は気づいてない振りをして、そこを通り過ぎた。
消したいと思っても消せないことは沢山ある。
俺にとっては、出合った全ての人が大切な人だったが、それでも、思い出せば辛くなることもあった。
村内との出会いを、後悔してはいない。
だが、また彼を傷つけるのではないかと思うと怖かった。

慶が何度かメールをくれたが、俺はコンビニには行かなかったし、慶を部屋に誘うこともしなかった。
丁度テスト期間に入ったこともあり、慶の方でも別段、不審には思っていないようだった。
ただ、春休みには、また実家に来ないかと誘われた。
瑠衣子ちゃんのことは気になったが、俺は多分行けないだろう。何か断る理由を考えておかなければならないと思った。
一方で、俺はテストが終わったら、また村内を訪ねようと思っていた。
きっと、俺が黙って居なくなったことで不安な思いをしているだろう。
また会えるからと約束したが、それが本当に守られると信じ切ってはいない筈だった。
俺の他には誰も居ないのだと、村内の態度はそう感じさせた。
本当にそうなのかも知れない。
俺のものになりたいと、そんなことを言った相手は初めてだった。
冷蔵庫の中の使い切れなかった食材は、きっともうみんな駄目になっているだろう。村内が自分で何か作ったとは思えない。
また何か食材を買って、それから今度は甘い物も買って訪ねよう。
慶と違って、甘い物も平気だと言った。デザートにケーキかプリンでも買って行こう。
俺を許してくれるなら、一緒に食べてくれるなら、彼の為にまた料理をしよう。



テスト期間が終わって、楠田に遊びに行こうと誘われたが俺は断った。
久し振りに会わないかと、慶からもメールが来たが、春休みは実家に帰るからと言って断った。祖父の法事もあったので、本当に帰る予定はあったのだ。
そして、その代わり、食材を買い込み、俺は日曜日に村内のアパートへ行った。
居ないかも知れないと思ったが、チャイムを押して暫く待つと、ドアが開いた。
「ち…ちゃん…」
信じられないものを見るような眼で、村内は俺を見て息を呑んだ。
「もしかして、寝てた?」
もう午後だったが、真夜中過ぎまで働いている村内には、まだ朝の様なものだったかも知れない。寝巻のスエットの上下を着て、髪は寝癖で乱れていた。
その姿が少し可愛らしく感じて笑った俺を、村内は素早く抱き寄せた。
「ちーちゃんッ…」
物凄い力で抱きしめられ、俺は村内がどれほど不安に思っていたか、そして、どれほど俺を待っていてくれたのかが分かった。
「痛いよ。ケーキ潰れちゃうから…」
そう言ったが、村内は離してくれなかった。
「……ごめんね?黙って帰って…」
謝ると、今度は首を振った。
「また来てくれるなんて思わなかった。ちーちゃん…、ちーちゃん…」
その抱擁が切なくて、俺は少しの間言葉が出なかった。
「……材料買って来たから、夕飯作るよ。一緒に食べよう?」
やっと俺が言うと、村内は俺の身体を離した。
「うん…ッ」
嬉しそうに笑い、村内は俺の手から荷物を取った。
「ごめん、掃除してなくて…」
済まなそうに言われたが俺は首を振った。
「いいよ、大丈夫。急に来たんだし…」
訊くと、やはり寝起きで何も食べていないと言うので、デザートにと思って買って来たケーキを食べることにした。
コーヒーが入るまでの間ソファに座ると、この前のように村内が後ろに座り、やはり腕を回してきた。
俺の肩に、また温かい頬が乗る。息が項を擽って、満足げな溜め息が聞こえた。
「着替えないの?寝癖ついてるよ」
笑いながら俺が言うと、肩の上で首が振られた。
「もう少し、こうしてていい?」
「…うん。あったかい……」
外を歩いて来て冷え切っていた身体が、村内の体温でじんわりと温められていく。項にキスされたが、俺はそのまま抱かれていた。
「あれから何してたの?」
訊くと、村内はまた溜め息をついた。
「……何も…。店に行って、帰って来て寝て……。後は、ちーちゃんの事考えてた…」
振り向くと、村内はじっと俺を見ていた。
「怒ってないの?俺…、酷いことしたのに…」
俺の言葉に、村内の眉が僅かに顰められた。
「酷いこと…?黙って帰ったから…?」
俺は首を振った。慶の身代わりにしたことを言おうかと思ったが、やはり言えなかった。
「ううん…。もっと酷いこと…」
それだけを言うと、村内はふっと笑った。
「酷いことなんて何にもされてないよ。ちーちゃん、俺を許してくれたし、またこうやって会いに来てくれたし…」
俺の身体に回されていた腕が、僅かに緩められた。
「キスしたら、怒る……?」
少し怯えたような、だが、熱い眼で村内は俺を見た。
「ううん…」
返事をすると、俺は村内の方へ体を捻った。
最初は軽く、唇が重なっただけ。だが、すぐに下唇だけ吸われ、舌先で擽られて、もどかしさに自分から唇を開いた。
いつでも俺に甘えるような態度で接する癖に、いざ事が始まると、やはり村内はプロなのだと感じた。
俺など、赤子の手を捻るように翻弄され、すぐに夢中にさせられてしまった。
唇が離れて行ってもまだ目を開けられず、俺は村内の肩に手を回したまま溜め息をついた。
「ずるい…」
そう言って目を開けると、じっと俺を見つめる村内の視線とぶつかった。
「ずるい、こんなの…」
身体が疼いてしまったことが恨めしくて、俺は少し村内を睨んだ。
「ごめん…」
少し困ったような顔で笑い、村内は俺を抱きしめた。
「ケーキ食べようか…。もう、コーヒーも入ったね…」
そう言ったが、村内は俺を離そうとはしなかった。
「うん…」
そして俺も、離れようとは思わなかった。


このまま傍に居て、また村内を傷つけるのが怖かった。
だが、離れて行ったら、彼はまたその孤独に押し潰されそうになるのかも知れない。
このまま愛せるなら、傍に居ることは罪じゃない筈だ。
本当に、このまま愛せるなら、彼に溺れてしまえるなら、俺はまた抱かれてもいい筈だった。
「いい匂いしてきた…。コーヒー飲もうよ」
そう言うと、俺は村内から離れて立ち上がった。
「あ、俺がやるよ。ちーちゃん、ケーキの箱開けて…」
「うん」
コーヒーを村内に任せて、俺はテーブルの上に置いたケーキの箱を開けた。何が好きか分からなかったので、自分の好きな2種類を選んで買って来た。
カップを運んで来た村内に先に選ばせて、やはり彼が持って来た皿に載せた。
本当に甘い物も好きらしく、村内は美味しそうにケーキを食べた。
「お腹空いてるんじゃない?早目にご飯作ろうか?」
俺が言うと、村内は首を振った。
「早く食べたら、早く帰っちゃうから…。遅くていい」
「……そんな心配しなくても、すぐに帰ったりしないよ。もう、春休みだから学校にも行かなくていいし」
「ほんと?」
「うん」
笑って見せると、村内も嬉しそうに笑った。


早目に台所に立ち、俺は村内に手伝ってもらって夕食を作り始めた。
思った通り、この前残っていた食材は使わずに全部駄目になって捨ててしまったらしい。だが、調味料類は残っていたので、それらを使って買って来た食材で3品ほどを作った。
ご飯を作ってくれるような女の人は居なかったのかと訊くと、村内は苦い笑いを口元に浮かべた。
「昔はね、居ないことも無かったけど、俺、何時も長続きしないから…。腐れ縁みたいに続いた女は大体、碌な女じゃなかったし。…今は、俺にとって女は全部客だから」
「恋人、欲しくないの?」
「……要らない。女は金掛かるし、今はそんな余裕ないし」
そんな女性ばかりではない筈だと思ったが、きっと村内は余りいい出会いをしてこなかったのだろう。 「男の恋人も居たことあるんじゃないの?」
俺を抱いた時の手慣れた感じを思い出して俺は言った。
すると、村内はまた笑った。
「恋人とかじゃないよ。…セックスは何度か経験あるけど…、それだけ。それに、まだ新人の頃、先輩に奉仕させられたり、前立腺マッサージとかさせられたりしたんだ。女に飽きて、後輩にそういうことさせる人も居たんだよ。……やな世界だろ?」
自嘲気味に笑い、村内はそう言ってサラダのレタスを千切ってボールに入れた。
「ちーちゃんは?今は居ないって言ったけど、前は居たんだろ?…彼氏…」
最後の言葉は躊躇いがちだった。だが、俺は素直に頷いた。
「うん…。みんな優しい人だった」
俺の答えを聞いて、村内は少し眩しそうな眼をした。
「そう…。良かった…、ちーちゃんの相手が優しい人で…」
それは心からの言葉に聞こえた。
村内は俺の事を心配してくれているのだろう。傷付かないことを願ってくれているのだろう。
そう思うと、心が温かくなるのを感じた。
村内は優しい男だ。
不幸な生い立ちで、今も幸せとは言えない生活をしていても、人の幸せを願う気持ちを持ち続けている。本当に優しい男だった。

料理が出来上がって、また狭いテーブル一杯に皿を並べると、俺たちは向かい合って座った。
俺に遠慮せず、酒を呑んでもいいと言ったが、村内は仕事以外では余り呑みたくないのだと言って、ご飯を食べた。
「旨い…。ほんとは、すげぇ腹減ってたんだ」
嬉しそうにそう言って村内は料理を口に運んだ。
時間が早かったしケーキも食べたので、俺は余り腹が減っていなかったが、その分村内が食べてくれたので、皿はすっかり綺麗になった。
また二人で皿を洗い、コーヒーを持って部屋に戻ると、村内はまたソファの上で俺を抱える様にして座った。
「テレビ見る?この時間って何か面白いのあったかな?」
リモコンを手に取って村内が言った。
こんな事をしていると本当に恋人同士のようだった。
我慢しているが、きっと村内は俺を抱きたいのだろう。
だが、また俺は、彼を慶の身代わりにしてしまうかも知れない。それが怖くて、踏み出せなかった。
「お風呂入ってくれば?ずっと寝癖のままだよ」
俺がくすくす笑うと、村内も一瞬笑みを浮かべたが、すぐに首を振った。
「いやだ。…ちーちゃんの傍に居たい」
気が付いて、俺は言った。
「今日は黙って帰ったりしないよ。ちゃんと待ってるから」
「……ほんと?」
やっぱり、それを心配していたらしい。
「うん、絶対」
俺が請け合うと、村内はやっと立ち上がった。
「じゃ、ちゃちゃっと…」
「大丈夫。ほんとにちゃんと待ってるから、ゆっくり入って来て」
俺が言うと、村内は頷いて着替えを取りに寝室へ入って行った。
村内が風呂に行くと、俺は思い出してコートのポケットから携帯を出した。
チェックすると、何件かメールが入っていて、そのひとつは慶からだった。
3月の半ばに家に帰るつもりだということで、よかったら一緒に来ないかと誘ってくれた。
それは、いつもと変わらない慶だった。
俺が今、男の部屋に居ることなど勿論知らない。その男と、今夜もまたセックスするかも知れないことも、勿論知らなかった。
3月には祖母の家の片付けを手伝う予定なので、悪いが行けそうもないと返信した。祖母はやはり店を閉める事に決めたので、片付けを手伝うのは嘘ではなかった。
だが、3月中ずっとという訳ではない。行くつもりなら、慶と一緒に行けないことは無かった。
だが、俺は行かない。
いや、もう2度と行けないだろう。


立ち上がって服を脱ぐと、俺は風呂場へ向かった。
狭いユニットバスだが、トイレは別になっていて、ドアを開けると小さな湯舟と洗面台がある。バスタブの中でシャワーを浴びていた村内が、髪を後ろへ撫で付けながら振り返った。
「ちーちゃん…」
全裸の俺を見て、村内は驚いた様子だった。
「俺も一緒に入る」
「……狭いよ?」
「うん…」
近づいてバスタブの中へ足を入れた。
「シャワーだけで寒くない?」
「平気……」
言いながら濡れた村内の身体に腕を回した。
「少し温まらないと…」
言いながら村内はシャワーヘッドを壁から外し、俺の背中へ熱い湯を掛けた。
「ちーちゃん、真っ白だから、すぐにピンクになるね」
俺の身体に満遍なく湯を掛けながら村内は言った。
返事はせず、彼の身体に腕を回したままで俺は顔を上げた。
「……いいの?」
じっと見つめたままで村内は言った。
「うん…」
俺が頷くと、ゆっくりと村内の唇が近づいた。