涙の後で
-9-
深くは眠れなかったが、村内の体温のお陰で何とか朝までうとうとすることが出来た。
だが、疲れが抜けていなくて、目を覚ましても俺は起き上がる気になれなかった。
また俺が黙って帰ってしまうのを警戒してか、村内は俺を後ろから抱きしめたまま、静かな寝息を立てていた。
腕を解こうとすると、無意識なのか、眠っている筈なのに更に俺を引き寄せた。
俺はもう春休みに入っていたし、村内が仕事に行くのは夕方を過ぎてからだ。だから、二人して寝坊をしたところで支障はない。
俺は軽く溜め息をつくと、寝返りを打って彼の方を向いた。
よく見ると、顎の形が少し慶と似ていた。
指を伸ばしてその輪郭を辿ると、くすぐったかったのか、サッと手が伸びて来て顎を擦った。
髭が伸びていて、指にチクチクとした感触を与える。それを楽しむように触っていると、今度は手が悪戯していた俺の指を捕まえた。
「んーー、くすぐったいよ……」
眼を開けずにそう言い、村内は捕まえた俺の手を自分の身体に回させた。
「もう、起きるの?ちーちゃん……」
まだ目を瞑ったまま、寝ぼけた声で村内は言った。
「ううん、起きない」
「うん……。帰らないでね?」
「うん…」
返事をすると、俺は背中に回した手を村内のスエットの下から入れて裸の背中を触った。
「んーー…」
眠そうに呻くと、村内は俺の頭の天辺に唇を押し付けた。
また目を瞑り、俺は村内の体温を全身で感じた。
それから、また1時間ほどうとうとして、流石に空腹を感じて俺は起き上がった。
考えたら、昨夜、胃の中のものを綺麗に吐き出してしまっていた。何か作って食べようと思い、俺はベッドから這い出そうとした。
「ちーちゃん、起きるの?」
気配で目を覚ましたらしく、俺のスエットの裾を後ろから掴んで村内が言った。
「うん、お腹空いて…」
「じゃあ、俺も起きる」
まだ警戒しているらしく、村内はそう言って起き上がった。
昨夜炊いたご飯がまだ残っていたので、味噌汁と卵焼きを作り、それで遅い朝食にすることにした。
昨夜の衝撃から立ち直っていない筈なのに、食欲があることが不思議だった。
それに、目の前の村内をじっと見ても、少しも嫌な気持ちにはならなかった。
その優しさに触れる度、多分俺はどんどん好きになっているのだと思う。彼の心の傷を、寂しさを、少しでも癒せるのなら、俺は彼の傍に居るべきなのかも知れない。
俺がいつ、”帰る”と言い出すかと、村内は心配しているようだった。
洗い物を終えて、ソファに膝を抱えて座った俺の前に胡坐をかいてピタッと座ると、俺の両手を繋ぐようにして握った。
「夜まで居て?」
また、甘えるように村内は言った。
「今夜は仕事でしょ?」
「休む」
即答した村内を見て俺は笑った。
「駄目だよ。……また、すぐに来るから」
村内は答えず、握った俺の手を所在無げに弄んだ。
「……ちーちゃん、もう無理しなくてもいいよ…」
「え…?」
「来てくれて、俺は凄く嬉しいけど…、本当はもう帰したくないくらい好きだけど、……でも、もしちーちゃんが無理してるなら、これで最後でもいい。その代わり、夜まで居て?」
昨夜、俺が吐いてしまったことで、きっと村内はそう思ったのだろう。目を上げずに俺の手を見つめたまま言ったその様子で、辛いのに、俺の為に我慢してくれているのが分かった。
「無理なんかしてないよ」
俺が言うと、村内はやっと顔を上げた。
「ほんと…?」
「うん。また来るから…。約束…」
小指を出すと、村内は嬉しそうに自分の小指を絡めた。
子供みたいに指切りをして約束をした後、俺は着替えて村内の部屋を出た。
少し買い物をして、昼前に自分のアパートへ戻り、買って来た物を片付けている時に玄関の呼び鈴が鳴った。
出ると、真藤先輩が立っていた。
「た…くまさん…」
何故、このタイミングで現れたのだろう。
驚いて俺が立ち竦んでいると、先輩はいつもの笑顔を見せて、手に持っていたケーキの箱を持ち上げた。
「プリン買って来た」
「あ、ありがとうございます…」
そう言って、俺は先輩を部屋の中に入れた。
「今、コーヒー淹れますね」
「ああ、ありがと。……帰って来たばっかりなのか?まだ、部屋が温まってないな」
「あ、はい。買い物してて…」
コーヒーメーカーをセットして戻ると、先輩は立っていた俺の手を掴んで隣へ座らせた。
「はい?」
じっと見つめられて俺が訊くと、先輩は黙って俺を引き寄せた。
「な……ッ?」
キスされそうになって慌てて押し退けると、先輩は笑みを浮かべていた。
「本当は朝帰りだろ?彼氏出来たんだ?」
「な、なんで……」
俺が戸惑うと、先輩はまた俺を引き寄せた。
「そうじゃなきゃ、千冬が俺を拒む訳ない」
「なッ、何言ってるんです?」
赤くなった俺を見て、先輩はまた笑った。
「でも、当たったろ?」
「……彼氏って訳じゃ……」
迷いながら俺が言うと、先輩は笑みを消した。
「じゃあ、なんだ?千冬がセックスだけの目的で男と付き合うなんて有り得ない。俺に嘘つくなよ」
言われて、俺は何と答えていいのか分からず、少し躊躇った。
「まだ…、その、何て言うか…、実感が湧かないって言うか……」
曖昧に答えると、先輩は少しの間、俺の顔をじっと見ていた。
「まあ、いいよ。俺は千冬には、そういう相手が居た方がいいと思うし…」
頷いて、俺はコーヒーを入れる為に立ち上がった。
やはり、先輩に嘘はつけない。本当に、何でも見抜かれてしまうのだ。
コーヒーを持って戻ると、先輩はケーキの箱を開けて、プリンとスプーンを取り出していた。
「昨日、コンビニに行ったら戸田が嘆いてたぞ。千冬に嫌われたみたいで、会ってくれないって」
「な…、そんな事ないですよ。春休みだって言っても、慶は仕事があるし、俺もそろそろ実家に帰るし…」
俺の言い訳を、多分先輩は信じていないだろう。だが、わざわざそれを暴くようなことはしなかった。
「そう言えば、戸田に聞いたけど、法事だって?まさか……」
心配そうな顔で訊かれ、俺は頷いた。
この事を聞いたから、多分こうして確かめに来てくれたのだろう。
「はい…。実は1年前に祖父が亡くなって…」
そう言うと、先輩の手がすっと伸びて俺の手を握った。
「何で言ってくれなかった?俺も世話になったのに。お参りくらいしたかったよ」
きっと祖父の死を知ったら、先輩はそう言ってくれるだろうと思った。だから、敢えて言わなかったのだ。
そう言うと、先輩は握っていた手に力を込めた。
「なに、水臭いこと言ってる。千冬が向こうに居る間に必ず行くから、墓参りさせてくれ」
「はい…。ありがとうございます」
先輩は村内のことを何も訊かなかった。
訊かれても答えられないし、嘘もつけない。結局、俺は黙ってしまっただろう。
先輩は、それを察してくれたのかも知れない。
セックスだけが目的じゃないと言ってくれたが、本当にそうだろうかと思った。
俺が本当の意味で抱かれたのは有川だけで、他の相手を知らないから経験豊富とは言えないかも知れない。だが、村内とのセックスは俺に経験したことのない快感を与えてくれる。それに、溺れていないと言えるだろうか。
村内は俺の為を思って、これで終わりでいいと言ってくれた。
だが、終わりに出来なくなっているのは、俺の方かも知れない。
「まさか、もう戸田に会わないつもりか……?」
訊かれて、俺はプリにに差し込んだスプーンを止めた。
「……分かりません。そんなの無理だって分かってるけど、今は会いたくなくて…」
「そうか……。まあ、千冬が決めたなら、それでいいんだろ。戸田は納得いかないだろうけどな。千冬が会ってくれない事が相当応えてるみたいだったし」
「そんな…、慶は別に俺に会えなくたって何ともないですよ」
俺が言うと、先輩はふっと笑った。
「千冬が思ってる以上に、戸田はおまえに心を寄せていると思うぞ。もう少し、勇気を出してみたらどうだ?」
優しく言ってくれたが、俺は下を向いたままで何度も首を振った。
勇気を出すも何も、もう俺は友達でさえいられなくなってしまったのだ。
法事の為に俺は金曜日に実家へ帰り、土曜日の朝に母たちとお寺へ向かった。
祖母に真藤先輩の言葉を伝えると、少し涙ぐみながら嬉しそうに頷いた。
来週には、荷物の整理を手伝いに、また祖母の家へ行くつもりだったが、村内に会う為に、日曜日の朝アパートへ戻った。
村内はどうせ午前中は寝ているだろうと、午後から食材を買って部屋へ向かった。
また起き抜けかと思ったが、今日の村内はちゃんと着替えていた。
どうやら早起きしたらしく、部屋も掃除してあった。それを言うと、村内は少し恥ずかしそうな顔をした。
「約束してくれたから、待ってたんだ…」
「ごめん…。じゃあ、もっと早く来ればよかったね。寝てると思ったから…」
俺が言うと、村内は首を振った。
「ううん。来てくれて嬉しい」
買い物してきた分を払うと言ったが、俺は断った。結局いつも、村内は俺が買ってきた分以上の金を渡してくる。だから、今回は俺が奢ることにした。
「お昼食べた?」
「うん。さっきパン食べたよ。紅茶も買っといた。ケーキあるから、今日は紅茶にする?」
嬉しそうに言われ、俺も笑いながら頷いた。
本当に、こんな会話をしていると村内は彼氏なのかも知れないと思う。
だが、学園に居た時の様に、誰かと付き合えばすぐに公認の彼氏になるような関係とは違い、今の俺たちは俺たち二人だけしか知らない付き合いをしている。だから、相手が彼氏なのかどうかは自分の気持ちだけの問題なのだろう。
腰に腕を回して見上げると、村内は優しい眼で見つめてくれた。
「キスしていいの?」
「うん…」
頷いたが、村内はキスしてくれなかった。
「駄目だよ、そんな顔したら…。このままベッドまで連れて行きたくなる」
「うん…」
また頷くと、村内は俺の額にキスをしてぎゅっと抱きしめた。
「そんな勿体ないこと出来ない。もっと、ちーちゃんとゆっくりして、一緒に居られる時間を楽しみたいんだ……」
村内の言葉が嬉しくて、俺は胸が熱くなった。
身体だけではなく、こうして俺の心も大切にしようとしてくれている。その優しさに、溶けてゆきそうだった。
村内が慶の兄なのかも知れないという疑いは、俺の中で消せるものではなかったが、それでもこうして一緒に過ごすのは楽しかった。
常にチクチクと胸は痛んだ。
だが、本当に嬉しそうにしている村内を見ていると、そんな痛みも忘れてしまおうと思うのだ。
「このケーキ美味しい…。何処の?」
箱を持ち上げてロゴを確かめながら俺が言うと、村内は自分のケーキをフォークで切って、俺の口元へ持って来た。
「店の近くのだよ。結構評判いいみたいだから買いに行ったんだ」
「ふうん…」
村内が差し出したケーキを口に入れながら、俺は箱をテーブルに戻した。
「ちーちゃん、俺のこと試してる?」
言いながら村内はまた一切れ俺の口元へ差し出した。
「うん?」
意味が分からず聞き返すと、俺はまた差し出されたフォークをパクっと咥えた。
「ほら、そういう可愛いことして」
咎めるように言われ、俺はケーキを飲み込むと言った。
「自分が食べさせた癖に…」
ただケーキを食べただけなのに可愛いなんて言われて、俺は少し恥ずかしくて頬を染めた。
「そうだけど……」
村内はそう言うと、身体を近づけて来て、俺の唇に付いていたらしいクリームを舐めた。
「俺…、すげえ幸せ…」
そう言って村内は、本当に幸せそうに笑った。