涙の後で


-10-

年末と正月を穏やかに家族だけで過ごし、俺は4日の朝、慶の家へ向かった。
行く前に、慶に確かめたが、瑠衣子ちゃんの具合は外泊出来るほどには回復していなかった。
だが、俺が行くのに合わせて、数時間なら外出は出来そうだということだった。
俺は少しほっとして、瑠衣子ちゃんにプレゼントするために買ったペンダントの包みを確認した。
俺のお土産が少しでも瑠衣子ちゃんの慰めになればいいと思い、その他に、千秋を被写体にして撮った写真を持って来ていた。
駅に着くと、驚いたことに俺を待っていたのは慶だけではなかった。
なんと、院長までが俺を出迎えてくれたのだ。
「す、すみません…。なんか、お手数お掛けして」
笑顔の院長に恐縮して俺が言うと、横から慶が不満げに口を出した。
「いいって言ってるのに、来るって利かなくて…。まったく、息子のことは迎えになんか来たことない癖に」
揶揄する慶の言葉など涼しい顔で受け流し、院長は言った。
「お前の仏頂面なんか見たって面白くないからな。…千冬君、折角家族と過ごしていたのに、済まないね。毎度、瑠衣子と慶の我が儘を聞いてくれてありがとう」
俺の背中に手を当てて外に促しながら、院長は歩き出した。
どうやら、駅の駐車場に車を停めて来たらしい。
俺は、まだ少し機嫌の悪そうな慶を振り返りながら一緒に歩き出した。

瑠衣子ちゃんのことは夫人が迎えに行っているとかで、俺たちが家に着く頃には戻って来るだろうという話だった。
余り長い間は無理らしかったが、お昼を一緒に食べて、お茶の時間を過ごすくらいは居られるらしい。
病院以外で瑠衣子ちゃんに会うのは、高1の夏休み以来だった。
院長の運転する車がガレージに乗り入れると、それを追い掛けるようにして夫人の車が戻って来た。
俺たちが待っていると、暖かそうなコートに身を包んだ瑠衣子ちゃんが、ゆっくりと車から降りた。
「千冬さんッ」
すぐに顔を綻ばせ、瑠衣子ちゃんは俺に近づいて来た。
だが、足元が覚束ず、少々よろけてしまった。
「あっ…」
慌てて支え、俺はそのまま瑠衣子ちゃんを抱えた。
「ごめんなさい…。ずっとベッドだから、足が少し弱っちゃって…」
恥ずかしそうに言った瑠衣子ちゃんに首を振ると、俺は彼女を支えながら家の方を指さした。
「大丈夫だよ。一緒に、ゆっくり行こう?」
「はい…」
少々頬を染めて、俺を見上げる瑠衣子ちゃんはとても可愛かった。
今日は髪を二つに結んで、ニットの帽子を被っている。風邪を引かないように、夫人が防寒対策をしっかりさせたのだろう。暖かそうなウールのマフラーが首の周りに何重にも巻かれていた。
俺が瑠衣子ちゃんと歩き出したので、慶が俺の荷物を家まで運んでくれた。
家に入ると、夫人はすぐに台所へ向かい、俺たちは居間のソファに腰を下ろした。
数時間でも家に帰れて、瑠衣子ちゃんは嬉しそうだった。
俺は早速、お土産を取り出して彼女に渡した。
「わぁ、ありがとう、千冬さん。…いつも私ばっかり貰っちゃって済みません…」
言いながら、それでも嬉しそうに包みを開け、ペンダントを取り出した。
「まあ、可愛いわね…。本当にいつも済みません、千冬さん。良かったわね、瑠衣子」
丁度お茶を運んできた夫人が、ペンダントを見て瑠衣子ちゃんに笑い掛けた。
「嬉しい…」
キラキラ光るビーズを眺めて、瑠衣子ちゃんは笑顔を見せた。
「慶にもこれぐらい気の利いた所があればなぁ」
院長の言葉に、また不機嫌そうな顔になったが、慶は立ち上がると瑠衣子ちゃんの後ろへ回った。
「つけてやるよ、瑠衣子」
「うん…」
笑みを見せて慶を振り返ると、瑠衣子ちゃんはペンダントをつけてもらった。
「似合うよ、瑠衣子」
院長に言われて、瑠衣子ちゃんは嬉しそうに頷くと俺を見た。
「ありがとう、千冬さん。凄く綺麗…」
「安物だけど…。喜んでもらえて良かった。……あとほら、うちの千秋の写真、もっと欲しいって言ってたから…」
俺が封筒を渡すと、瑠衣子ちゃんはすぐに写真を取り出して歓声を上げた。
「わぁ…、千秋ちゃんホントに可愛いなぁ。私も会ってみたい……」
「なんか、猫のくせに面食いらしくて…。凄く人見知りなのに、イケメンが来ると懐くんだよね」
俺が言うと、全員が笑った。
「じゃあ私は女だから、駄目かなぁ。仲良くなれないかな…」
「そんなことないよ。瑠衣子ちゃんなら、きっと仲良くなれるよ」
俺が言うと、瑠衣子ちゃんは笑顔を見せた。
本当に、いつか千秋にも会わせてやりたかった。それから、約束した通りに、慶と一緒に公園へも連れて行ってやりたいと思った。
だが、外泊もままならない今の状態では、それは叶わないことだった。

心尽くしの夫人の手料理で昼食を済ませたが、瑠衣子ちゃんは余り食が進まなかった。
だが、お茶と一緒に出て来たケーキは殆ど食べることが出来た。
居間でお茶を飲みながら、瑠衣子ちゃんに訊かれるままに、俺は大学のことや家のこと、友達のことなどを話して聞かせた。
だが、楽しい時間はあっという間で、もう病院へ帰る時間になってしまった。
瑠衣子ちゃんは無言のまま母親に抱き着いて、帰りたくない意思を表したが、聞いてはもらえなかった。
「可哀相だけど、駄目よ。明日も調子が良かったら、少しの間帰っていいって藤間先生が仰ってたでしょ?だから、今日はもう戻りましょう」
本当は夫人だって、もっと居させてやりたかっただろう。だが、瑠衣子ちゃんの為に心を鬼にしてそう言った。
「千冬と一緒に送って行くよ。すぐに帰らないで夕方まで居るから、な?瑠衣子」
慶が宥めると、瑠衣子ちゃんはやっと夫人の身体から離れた。
その目が真っ赤になっているのを見つけると、俺は胸が痛くなった。
夫人の運転する車の後部座席に瑠衣子ちゃんと並んで座り、俺は彼女と手を繋いだ。
瑠衣子ちゃんは俺を見上げて笑ったが、何も言わなかった。ただ、俺の手を強く握り返した。
心細いと感じていたのは、多分俺の方だった。
儚げなこの少女が消えてしまいそうな気がして、俺は何度も繋いだ手の感触を確かめようとした。
約束通り、夕方まで病室で過ごし、俺と慶は夫人を残してバスで帰ることにした。
だが、外に出ると、院長の車が待っていた。
「なんだよ。居るなら病室に来ればよかったのに」
慶が呆れたように言うと、院長は咎めるような顔をして彼を見た。
「行くのはいいが、みんなが一遍に帰ってしまったら瑠衣子が余計に寂しがるだろ?」
院長の言葉に、慶は何も言わず、車に乗り込んだ。
相変わらず、二人の関係は余り良くなっていないらしい。
だが、こうやって遠慮せずに、思ったことを口に出来るのも本当の親子だからだと思った。
家に帰ると、慶に誘われて部屋に行った。
荷物は寮に送ってあるので、慶の部屋は前にも増して殺風景だった。
だが、本棚にはまだ俺の読んでいない本が沢山あったので、それを物色しつつ慶の話に耳を傾けた。
「親父の奴、マジで千冬のことが好きみたいだな。息子の友達だってのに、まったく…」
呆れたような慶の言葉に、俺は笑った。
「妬いてんの?大丈夫、お父さんを取ったりしないよ」
俺がふざけると、慶は本当に嫌そうな顔になった。
「やめてくれよ、気持ち悪い。アレで良かったら千冬にやる」
そう言われて俺は笑うと、見つけた本を手に、慶の隣へ座った。
「いいの?俺はお父さん好きだよ。慶に似てるし…」
すると、慶は真面目な顔になって俺を見た。
「……だから嫌なんだ…」
「慶……」
何故、そんなことを言うのか俺には分からなかった。
慶は余り自分の容姿のことを気に掛けたことはなかったし、どんなにみんなから憧れの眼差しで見られても、その意味を考えたこともないようだった。
だから、自分が父親によく似ていることに対して、嫌悪感を持っているなんて思わなかったのだ。
「どうして……?俺は慶の顔、好きだよ…」
滅多に言えないが、俺は本心を言った。
すると、慶の目が少し大きく開いた。
「ほんと……?」
「うん、ほんと」
「だって…、怖いって言ったろ?」
その言葉を聞いて俺は少し笑った。慶は俺が最初に言ったことを今でも気にしていたらしい。
「だから、言ってないって。機嫌悪いのか…って訊いただけだろ?それに、それと好き嫌いは関係ないよ」
「そうか…、なら良かった」
何故かほっとしたように慶は言った。
「これ、借りる。いい?」
何だか心がざわざわして眼を逸らし、手に持った本を見せて言うと、慶は頷いた。
「ああ、いいよ。……なあ、千冬…」
「うん?」
「言いたくないんだと思って、ずっと訊かなかったけど…、有川とはどうなったんだ?会ってる様子がないけど……」
本当はずっと気に掛けていてくれたのだろう、言い辛そうに慶は訊いた。
もう泣かずに話せるようになった筈だった。心配してくれている慶の気持ちに応えるためにも、俺は本当のことを話そうと思った。
「……うん。もう、付き合ってない…」
「そうか…」
「本当は薄々分かってたろ?……慶が外で俺を見つけて負んぶして運んでくれた日、あの時、雄李は俺に別れを言いに来たんだ」
俺の言葉に慶は頷いた。
「やっぱり、そうか…」
俺は慶に、有川の家のことや、今どうしているか、それから手紙をくれたことなど、全部隠さずに話して聞かせた。
「そうだったのか……。嫌いで別れた訳じゃないのに、千冬も有川も辛かったな……」
「うん…。でももう、気持ちは大分落ち着いたよ。今は、雄李と家族が元気でいてくれることを願うだけ…」
俺が言うと慶は頷き、黙って、慰めようとするように俺の肩を撫でた。



慶には未だに父親に反発する気持ちがあるのだろう。
だが、俺から見ればそれは遅い反抗期のようなものに見えた。
だから、気持ち悪いなどと言っていても、本当は父親が俺を気に掛けるのに少しは嫉妬しているのだろうと思っていた。
その院長が、俺の部屋を訪ねて、またオーディオ室に誘ってくれた。
読みかけの本に栞を挟み、俺は彼に付いて部屋へ行った。
今夜は俺に紅茶を淹れてくれ、自分は少し呑むつもりらしく、グラスにブランデーを注いだ。
「いつも本当にありがとう、千冬君。瑠衣子もとても嬉しそうだった」
言われて俺は首を振った。
「いえ…。俺なんか何にも…」
「ここ数年、瑠衣子は殆ど病院だからね、気晴らしさせてやりたくても中々……。君が来てくれると、本当に喜んでるんだよ」
「そうならいいですけど……」
じっと見つめられて、俺は少々居心地が悪くなり、急いで紅茶のカップに手を伸ばした。
「慶も瑠衣子のことは可愛がってるんだが、どうにもあいつは不愛想だからね」
苦笑しながら院長が言うのに、俺も少し笑った。
「でも、瑠衣子ちゃんには凄く優しいですよ。いつも気に掛けてるし…」
俺が言うと、院長は頷いてから少し笑った。
「君にも優しく出来てるかな?」
「え?」
「いや…、慶は友達が居なかった訳じゃないが、深く付き合うのが苦手らしくて、本当に仲のいい友達は居なかった。人のことは気にしないというか、何に対してもクールだったし、友達にも冷淡な態度をとることがあるんじゃないかと心配なんだ」
慶の方では父親を煙たがっているようだが、やはり院長は慶のことよく分かっているし、随分心配しているのだ。
「最初は取っ付きづらかったけど、でも慶は優しいですよ。俺のことも、いつも気に掛けてくれるし、辛いことがあると慰めてくれます。優しくて、頼りになります」
俺が答えると、院長は嬉しそうな顔になった。
「そうか…、それなら良かった」
グラスに酒を継ぎ足すと、院長は続けた。
「やはり、あの高校に行って良かったのかも知れないな…。君や他の友達に出会えたお陰で、随分あの子は変わったらしい。……子供の頃、色々あったからね。捻くれてしまったんじゃないかと心配だったんだよ」
やはり、慶の出生に対して、院長は随分責任を感じているらしかった。
「私が、慶の母親を愛せれば良かったんだがね……」
呟くようにそう言って、院長はふっと笑った。
慶の本当の母親とはどんな人だったのだろうか。
慶自身も、余り良く思っていないようだった。
だが、子供まで作ったほどの相手を、院長は何故愛せなかったのだろう。
その理由を、勿論俺が訊くことは出来ない。
だが、その存在が、今でも慶や院長の心に、しこりの様なものを残しているのは確かだった。