涙の後で
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外まで見送りたかったが、家の人たちの目があると思い、階段の上で見送った。背中が見えなくなると、部屋に入って今度は窓から見送った。
有川は、街灯の下で1度だけ立ち止まって、俺が見ている窓を見上げた。そして、ほんの少し手を上げると、寂しそうに笑って、また背中を向けた。
走って車に戻ると、もう振り返らずに乗り込んでしまった。
有川が乗り込むと、すぐにエンジンが掛かって車は発車してしまった。
家族に無理を言って、わざわざ会いに来てくれたのだろう。黙って居なくなることも出来たのに、さよならを言いに来てくれたのだ。
「う……」
その場に座り込み、窓の外を見つめたままで俺は泣いた。
終わる時が来るのは分かっていた。
でも、こんな終わり方だなんて思ってもいなかった。
突然過ぎて、心が付いていけない。余りにも急な幕切れだった。
もう、これで有川には会えないのだ。それが、現実とは思えなくて、俺は呆けたようになって座っていた。
何も考えられずに、ただ、頬を涙だけが伝う。
このままずっと、俺はこの場所から動けなくなってしまうような気がした。
傍に落ちていた携帯に気付き、俺はハッとしてそれを手に取った。
何も出来なくても、時々は愚痴を聞いて有川を慰めることぐらいは出来るかも知れない。そう思って俺は有川の携帯に電話した。
だが、もうその番号は使われていなかった。
「え……?」
驚いて立ち上がり、もう1度掛け直す。
だが、やはり繋がらなかった。
他に理由があるのかも知れない。だが、この時は、有川が俺の声さえ聞きたくないのだと思えて胸が押し潰されそうになった。
何の力にもなれない不甲斐無い俺は、すっぱりと切り捨てられたのだと思えた。
「雄李……?…雄李ッ」
叫んで、俺は走り出した。
これきりもう、本当にもう2度と会えないのだ。
そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
とっくに車は走り去ってしまった。それは分かっていたが、俺は部屋を出ると、夢中で車の向かった方向へ走った。
走っても走っても、勿論、有川の乗った車は見えなかった。
やがて、息が上がり、足が縺れて、転ぶ様にして地面に両手を突いた。
「うううう……」
情けなかった。
情けなくて、涙が出た。
傍に居たのに、何も気づかなかった自分が。
有川を独りで悩ませてしまった自分が。
あんな別れ方をさせてしまった自分が。
情けなくて、死んでしまいたかった。
自分が部屋着のまま走ってきたことも、途中でサンダルが脱げて片方裸足だったことも、その時は気付かなかった。
突然、手の中で携帯が鳴り出し、その時になって初めて自分が携帯を握りしめていたことに気付いた。
見ると、相手は慶だった。
習慣で、通話を押し耳に当てる。だが、まだ泣き止めずにいて声は出せなかった。
「千冬?おまえ、何処に居るんだ?部屋の鍵、開いたままだぞッ」
慶は怒っていた。
ドアに鍵も掛けずに出掛けた俺を、不用心だと言いたいのだろう。
「ごめ……」
やっと、声が出せたがそこまでだった。
慶の声を聞いた所為で余計に泣きじゃくりそうになって、俺は片手で口を塞いだ。
「おい、千冬?どうした?何かあったのか?」
答えられずに、俺は口を塞いだままで首を振った。
「千冬ッ?何処に居るんだ?おい、千冬ッ」
慶の声が焦り始めるのが分かり、俺は電話を切った。
このまま繋いでいても、どうせ答えられない。俺は携帯の電源も切って、のろのろと立ち上がった。
ここに居ても仕方がない。
もう、有川は遠くまで行ってしまっただろう。
裸足の方の足を引きずりながら、俺はアパートに向かって戻り始めた。
途中で、俺を探していたらしく息を切らせた慶と出会った。
「千冬ッ」
俺を見つけて叫ぶと、慶は走り寄って来て俺の腕を掴んだ。
「どうしたんだ?何があった?」
揺さぶられたが、俺はただ首を振っただけだった。
「千冬、何があったんだ?」
心配そうな慶の顔を見て、俺はまた首を振った。
「何でもない。大丈夫……」
「何言って…。おまえ、その足…ッ」
片方しかサンダルを履いていない俺の足元に気付き、慶は驚いた様子でそう言った。そして、くるりと後ろを向くと俺の前に背中を差し出した。
「ほら、負ぶされ」
「いいよ。平気…」
「平気なことあるかッ。いいから負ぶされっ」
怒鳴られて俺はビクッとすると、思わず慶の背中に掴まった。
「ごめん…」
重そうに立ち上がった慶にぼそりと言うと、慶はほんの少しだけ頭を振り向かせた。
「寮に戻ったら、母さんから千冬宛てに菓子が届いてたから持って来たんだ。明日でも良かったけど、悪くなったらと思って。何があった?……もしかして有川が?」
「……何でもない。風に当たりに来て……それだけ…」
俺が答えると、慶は溜め息をついた。
「言いたくないならいい…」
その言葉を聞いた途端、止まっていた涙がまた溢れた。
慶の肩を掴む指が震える。
「ご…めん…」
震える声で俺が言うと、慶は振り返った。
「千冬?」
「ごめん、迷惑かけて、ごめん…、ごめん…」
「千冬?そんなに、気にすることない。迷惑だなんて思ってないよ」
慶はそう言って慰めてくれたが、俺が謝ったのは言葉通りの意味ではなかった。
慶の事を諦め切れていない癖に、その背中で他の男を思って泣いていることに。
何時も何も出来ない癖に、こうしてみんなに優しさを貰っていることに。
そして、出会ってしまったことに。
慶にも有川にも、他の皆にも申し訳なくて堪らなかったのだ。
その時の俺は、まるですべての不幸を自分が運んで来るようにさえ思えた。
俺と出会っていなかったら、きっと皆もっと幸せだったに違いないと思ったのだ。
「そんなに泣くなよ。さっきは怒鳴って悪かったな?もう、寮と違うから鍵を開けっ放しで出掛けるなんて不用心だと思って、つい…」
返事が出来ずに俺はただ首を振ったが、慶には通じたようだった。
「少し待ってたんだけど、帰って来ないから。心配になって電話したんだ。でも、携帯を持って出てたから良かったよ。これで、連絡も付かなかったら大騒ぎするところだった」
慶は笑いながらそう言ったが、俺は勿論笑えなかった。
だが、何とか涙が止まり、俺は慶の肩を叩いた。
「降りるよ。重いだろ?」
曲がった所で明るい通りに出る。そうなると、人目だってあるだろう。
だが、俺の言葉に慶は首を振った。
「大丈夫だ。もう少しだから」
「でも、人に見られたら恥ずかしいだろ?」
「平気だよ。酔っぱらったふりでもしてろよ」
「そんな…」
躊躇う俺に構わず、結局慶はアパートまで負ぶって運んでくれた。
途中で、何人かの通行人と擦れ違ったが、別に此方を気にする様子も無かった。
アパートのドアノブには、慶が持って来たらしい紙袋がぶら下がっていた。
俺を玄関の中に入れてから、慶はそれを取って渡してくれた。
「足、洗って、ついでにシャワーも浴びた方がいいぞ」
余程酷い顔をしていたのだろう。慶は俺の顔を見ながらそう言った。
「うん。なんか、適当に飲んでて…」
冷蔵庫を指さしながら俺が言うと、慶は頷いた。
洗濯済みの部屋着と下着を持って俺はバスルームに入った。
体中から力が抜けて、そして顔中が腫れているような感覚だった。
足だけを念入りに洗い、後はざっと湯を浴びた。足の裏が傷ついていてヒリヒリと沁みたが気にしなかった。
戻ると、テレビを見ていた慶が振り返った。
「足、切ってないか?見せてみろよ」
「大丈夫だよ。少し擦り剥いたみたいになってるだけだから…」
「そうか?」
「うん…。ありがとう、慶。俺ならもう大丈夫だから帰って。お母さんには後でお礼の電話しておくから」
世話になった慶に対して追い出すような事を言うのは失礼だと分かっていたが、今は慶の顔を見ているとまた泣いてしまいそうで怖かったのだ。
有川のことを言ったら、きっと慶はまた俺を抱きしめて慰めてくれるだろう。
だが、今の俺は、例え相手が慶でも有川以外の誰の腕にも抱きしめられたくなかった。
「分かった。じゃあ、帰るよ。またな?」
慶は、俺の失礼な態度に怒った様子もなく、そう言って立ち上がった。
「うん、本当にありがとう。…また、ご飯食べに来て?」
「ああ。メールする」
「うん…」
慶を玄関まで見送って部屋に戻ると、俺はテーブルの前にぺたりと腰を下ろした。
テーブルの上には慶のお義母さんが送ってくれたお菓子の袋が乗っていた。
それを手に取り中身を出してみると、綺麗にラッピングされた箱の中に手作りのタルトが入っていた。
「美味しそう…」
呟いたが、食べたいとは思わなかった。
箱を閉じて、またテーブルの上に戻すと、俺はそこにごろりと横になった。
ひとつの季節が、これで終わったような気がした。
あんなにキスして、好きだと言って、何度も抱き合っても、人はこんなにもあっさりと別れを迎えられるのだ。
慶とだって、明日突然会えなくなるかも知れない。
俺だけが、ここから動けずに、去って行く皆の背中を見送り続けなければならないような気がして、酷く怖くなった。
ベッドの上の携帯が鳴り出し、俺はハッとすると起き上がって携帯を手に取った。
だが、期待した有川からの電話ではなかった。
「拓馬さん…」
それは、真藤先輩からだった。
躊躇ったが、通話を押すと携帯を耳に当てた。
「千冬?引っ越し済んだのか?」
「あ、はい。今日…」
「そうか。場所は?何処だ?」
「あ、えと…」
俺が説明すると、先輩はすぐに分かったようだった。
「それなら、俺のトコからそんなに離れてないな。明日暇か?午後から行くよ」
「あ、はい。大丈夫です」
俺が返事をすると、先輩の声が少し変わった。
「なんだか元気ないな。何かあったのか?」
心配そうに言われて、俺は慌てて言った。
「いえ、そんなことないです。バタバタしてて少し疲れたから…。明日、楽しみにしてます」
「そうか?なら、いいけど。…じゃあ、明日な?」
「はい…、それじゃ」
電話を切ると、俺はまたごろりと横になった。
明日、先輩と会っても、今日の事は決して悟られてはいけないと思った。
何時でも鋭く、俺の事を見抜いてしまう先輩だったが、もし訊かれても絶対に言うまいと決めた。
これからは、もう誰にだろうと甘えない。自分の事は全部一人で解決するのだ。
俺さえもっとしっかりしていれば、有川だって悩みを打ち明けてくれた筈だった。
最後の最後まで、俺は有川を少しも甘えさせてはやれなかった。
ただ、頼っていただけ。
ただ、しがみ付いていただけ。
俺の方が年上なのに、いつもいつも、気遣わせて守られていただけだった。
そんな自分と、もう、さよならしたいと思った。
誰かに頼られたい訳では無かったし、自分に力が無いのは分かっている。でも、せめて誰の迷惑にもならずに、心配を掛けずにいられるようになりたかった。
俺が落ち込んでいると知ったら、真藤先輩は何時ものように、迷いもなく俺に暖かい手を差し伸べてくれるだろう。
だがもう、その手を掴んではいけないのだ。
もう2度と、誰の手にも縋ったりしない。
明日からは、何があっても、俺は一人で立っていよう。
そう決めて、涙を拭った。