涙の後で
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その時、ドアにノックの音がして、俺は慌てて涙を拭った。
「千冬?」
慌てて服を着てきたらしい慶が、ドアを開けて入って来た。
「どうした?やっぱり、何かあったんだろ?」
近づいて来た慶は心配そうな顔をしていた。
首を振って何でもないと言おうとしたが、その言葉を口にする前に、涙が頬を零れ落ちてしまった。
「千冬…」
慶の腕が俺の体を包んだ。
今までに俺は、何度こうして慶の腕に慰めて貰っただろう。
抱きしめられる度に慶の腕は逞しくなっていくような気がした。そして、反対に俺の心は益々弱くなっていくように思えた。
「もう、駄目かも……。雄李は俺と別れたいのかも……」
「有川が、そう言ったのか?」
訊かれて、俺は首を振った。
「そうじゃない……。はっきり言われた訳じゃないけど…」
「なら、まだ分からないだろ?確かにあの学園から離れると、急に冷めてしまう恋もあるかも知れない。でも、俺には有川はそんな奴には思えない」
「うん…」
そう、慶の言っていることは正しい。有川は、そんな不誠実な人間じゃない。それは俺にだって良く分かっているのだ。
「ごめん。考え過ぎかも知れない。ごめんな?いつもこんな、うじうじしたとこばっかり見せて。最近、慶に慰めてもらってばっかりだ…」
無理に笑って見せると、慶は眉根に皺を寄せた。
「そんなの気にするな。瑠依子の事でも余計な心配掛けてるんだ。千冬がナイーブなのは分かってるのに…」
慶の言葉に俺はまた首を振った。
「そんなんじゃないよ。俺はただ、弱いだけ。どうしようもなく弱いだけなんだ」
「千冬…」
もう1度抱きしめてくれようとした慶の腕を、俺はそっと押し返した。
気持ちは嬉しくても、もう甘えてはいけない。有川のことで泣いている癖に、一方では慶の腕に頼っているなんて虫が良すぎて恥ずかしくなる。
「もう平気。ありがとう」
俺が言うと、慶も頷いて手を降ろした。
早かったが、そのまま二人で階下に降りた。勿論、夫人はもう起きていて、朝食の支度をしてくれていた。
「早いのね?慶さんがこんなに早く起きて来るなんて、雨でも降るんじゃない?」
そう言われて、慶は苦笑した。
「お腹空いたの?もう少し待っててね」
夫人の言葉に頷くと、俺たちは居間の窓から庭に出た。
午前中の内にまた瑠依子ちゃんを見舞って、午後は俺の着替えを買いに行くことにした。
本当は有川に会いに行くつもりだったが、その予定が無くなってしまったので、明日までここに世話になるつもりだった。
少しすると、院長が起きて来て俺たちを見つけて庭に出て来た。
「慶がこんな時間に起きてるなんて驚いたな。これも、千冬君のお蔭かな?」
笑いながらそう言った院長に、慶は苦笑した。
「まったく、親父も母さんも、二人で同じようなこと言うなよ」
「言われても仕方ないだろう?まあ、これからは同じ部屋で起こしてくれる千冬君は居ないんだからな。精々、自分で起きられるようにすることだ」
「はいはい。大丈夫だよ。俺だってちゃんと自立するって」
父親と息子のこういう何げない会話が、俺にとっては憧れでもあり、そしてなんだか少しくすぐったかった。
朝食を済ませて院長を見送ると、俺たちも支度をして家を出た。
病院に着くと、瑠依子ちゃんはやはり食欲が出ないのか、今日は点滴のチューブに繋がれていた。
痛々しいその姿に、俺は言葉を失いそうになったが、俺たちを見て精一杯元気そうに振舞っている彼女のことを思うと、それではいけないと思い直した。
今朝は慶が早起きしたことを報告したり、昨夜は慶のパジャマを借りたら、俺には大きかったことなどを話した。
何を聞いても瑠依子ちゃんは楽しそうにしてくれたが、以前のようにベッドの上に座り直すことは無く、ベッドの背を起こしはしたが、枕から頭を上げることは無かった。
1時間ほど部屋に居て、また買い物の帰りに寄ると約束し、俺たちは一旦、病院を出た。
瑠依子ちゃんのことも心配だったし、やはり、今朝の有川からのメールも気になっていたしで、俺は自然と口数が少なくなった。
慶も、元々余り喋る方ではないし、俺たちはただ黙々とバス停まで歩いた。
街へ出て下着や靴下などを買い、それから本屋へ行って暫く時間を潰し、昼は本屋の近くのファーストフード店で済ませた。
病院へ戻ると、瑠依子ちゃんは点滴を外していたが、やはりベッドの背を少し起こして横になっていた。
余り疲れさせないように、少しだけ話をして、俺たちは夫人に家まで送ってもらった。
院長は相変わらず忙しいらしく、夕食の時間になっても帰って来なかった。
だが、俺が部屋で本を読んでいると、ノックの音の後で院長がひょっこりと顔を覗かせた。
「アイス買って来たんだけど、オーディオ室で一緒に食べないか?」
持っていた袋を持ち上げて見せながら、院長はそう言った。
「あ、はい…。頂きます」
嬉しくなって俺はすぐに本を閉じると立ち上がった。
「慶は?」
ドアの外に出て訊くと、院長は眉を顰めて肩を竦めた。
「要らないそうだ。もうすぐ、また家を出て行くんだから、少しは付き合ってくれてもいいと思うんだがな」
「慶は甘いの苦手だから…」
執成すように俺が言うと、院長は苦笑した。
「まあ、今日は千冬君が居るから買って来たんだけどね。どうせ、慶は食べないと思ったし」
「え?そうなんですか?済みません…」
恐縮して俺が言うと院長は笑った。
「謝ることないよ。千冬君と話が出来ると思って喜んで買って来たんだから」
そう言って、院長はオーディオ室に入って行った。俺も後に続くと、何時ものソファに腰を下ろした。
「コーヒーを淹れよう。はい、好きな方を選んで」
袋の中から出したアイスクリームのカップを見せられて、俺はキャラメル味の方を選んだ。
「明日帰るの?」
「はい。日曜日に引っ越しなので」
「そうか。慶は碌な荷物も無いからって、引っ越しは一人でいいそうだ。千冬君の所はご両親が手伝うんだろう?」
「あ、はい。俺も業者にに頼むんだから来なくていいって言ったんですけど、二人とも心配らしくて」
慶は一人でやるつもりなのに、俺は親掛かりなのが恥ずかしくて顔を赤らめたが、院長は優しい笑みを見せた。
「いいじゃないか。親は頼って欲しいものだよ。それでなくても、段々に親は必要なくなってくる。だから、関われる間は関わりたいんだよ」
「そう言うものでしょうか」
「そう言うものだよ」
そう言って、院長はアイスクリームのカップを開けた。
瑠依子ちゃんの病気のことを訊いてみたかったが、不躾な気がして訊けなかった。
その代わりに、俺の下宿先の話や家の話など、院長に訊かれるままに話して聞かせた。
他愛のない会話だったが、こうして院長と話をするのが俺は好きだった。
1時間ほどを過ごし、俺は院長にお休みを言って部屋を出た。
明日も朝早くから病院へ行くのだろうし、余り遅くまで邪魔をしては悪いと思ったのだ。
慶の部屋の前を通ったが、ノックはしなかった。
慶は多分、小説を書いているのだろうし、こちらも邪魔したくなかった。
とうとうあれから、有川は1度もメールをくれなかった。
俺の下宿先へ訪ねて来るまで、連絡もくれないつもりなのだろうか。
それを思うと、じりじりと、胃の辺りが焼けるような気がした。
本当は、今すぐにでも有川に会いに行きたい。会って、俺と別れるつもりなのか、確かめたかった。
今の状態は、まるで蛇の生殺しのようだ。
有川が何を考えているのか分からないからこそ、不安で不安で堪らない。せめて、今の有川の気持ちの一部でも見る事が出来たのなら、少しは救われるような気がした。
あまり眠れずに朝を迎え、夫人に頼まれて慶を起こしたが、返事はしても目は開けなかった。
昨日、院長に自立すると言ったばかりだったが、昨夜は遅くまで執筆していたのかも知れない。
一応、もう1度声を掛けてから階下に降りると、先に朝食を済ませた後で少し散歩した。
この近所は何度か歩いていたので、迷うことは無かった。
住宅街の庭を眺めたり、前に慶と行った公園の中を歩いたりした。
携帯だけは持って出たが、ぶらぶらする間、1度も鳴ることは無かった。
家に帰ると、やっと起きてシャワーを浴びた慶が朝食を食べていた。
今日は夫人も午前中に病院へ行くと言うので、俺たちはそれを待って車で連れて行ってもらうことにした。
その間、慶が残った荷物の整理をすると言うので、俺も手伝うことにした。
学生寮は狭いし、そんなに沢山の荷物は持って行けない。その中でも、慶の荷物は圧倒的に本が多い。だから、荷物の整理と言っても残っているのは本の梱包だけだった。
「こんなに持って行って、置くとこあるの?」
俺が訊くと、慶は頷いた。
「うん。小さいけど押入れがあるから下半分は本を入れようと思って。後は小さい本棚を持って行くからそこに…」
「そう。寮ってベッド?」
「うん、一応…。って言っても、高校の時の寮の方が広いし設備も断然いいけどな。まあ、今度は一人部屋だけど。前の部屋の半分も無いし、風呂もトイレも共同なんだ」
「へえ…」
喋りながら、慶が分けて置いた本を梱包し、持って行く荷物は大体出来ていた。
その内に、夫人が呼びに来て、俺たちは病院へ行く為に車に乗り込んだ。
瑠依子ちゃんは今日も寝たままで点滴を受けていた。
俺たちの顔を見ると、嬉しそうに笑ったが、相変わらず生気が無い。俺が、今日の午後には帰ると言うと、悲しそうな顔になった。
「今度は何時会えるかなぁ…?学校が始まったら忙しくなるだろうし、暫くは会えないですよね?」
「うん、そうだね。暫くは来られないかも知れない。また、手紙書くね?メールもするからね?」
俺が言うと、瑠依子ちゃんは笑みを見せて頷いた。
「はい。ありがとう。待ってます…」
だが、そう言った後で、瑠依子ちゃんの顔からは笑みが消えた。
「元気になって、千冬さんのお祖父さんたちのカフェへ連れて行ってもらうって約束してたのに、夏が終わって冬を越しても結局ベッドから出られない。私、もう何処へも行けないのかな……?」
悲しそうにそう言った瑠依子ちゃんを見ているのが辛かった。
だが、一緒になって悲しんでいては、益々瑠依子ちゃんが落ち込んでしまう。祖父が亡くなって、カフェもどうなるか分からないことも言う必要はないと思った。
俺は無理に笑うと、彼女の手を取った。
「そんなことないよ。きっとまた出掛けられるようになるから…。そしたら、すぐに連絡して?迎えに来るからね」
俺の言葉に、瑠依子ちゃんは頷いた。
「うん。ありがとう、千冬さん…」
後ろ髪を引かれるようにして瑠依子ちゃんに別れを言い、俺は慶と一緒に病室を出た。
バス停まで歩く間、慶は済まなそうに俺に言った。
「また、千冬に余計な心配させたな。瑠依子も、大分心細くなってるんだと思うけど、本当に大丈夫だからな?あんまり、気にしないでくれよ」
「うん…」
頷いたが、心配するなと言われても無理だった。
だが、俺が幾ら気に病んでも、瑠依子ちゃんの具合が良くなる訳ではない。暗い顔を見せて、慶に気を遣わせるのも嫌だった。
バスに乗って街へ出ると、軽食の店へ入って昼食を済ませた。
俺はいいと言ったが、慶は駅まで送ってくれると言ってきかなかった。
幾ら同じ大学だと言っても、通う時間帯が違うし、もしかすると慶とも暫くは会えないかも知れない。そう思うと、何だか酷く心細くなってしまった。
離れ難い気持ちから、俺は駅までの道をなるべくゆっくり歩いた。
慶も、分かってくれているのか、急かすようなことはしないで俺に合わせて歩いてくれた。
「千冬、何かあったら遠慮しないで知らせろよ?一人で悩んだりするな」
突然そう言って、慶は確かめるように俺を見た。
「うん。ありがとう…」
「心細くなったら、何時でも抱きしめに行くから」
その言葉に驚いて、俺は彼を見上げた。
すると、慶の顔は笑っていた。
からかわれたのだと思い、俺も笑うと、慶の手が肩の上に乗った。
「本当だよ。きっと行くからな?」
何処までが冗談なのか、俺には分からなかった。
だが、肩の上に乗った慶の手は、酷く暖かく感じた。