涙の後で
-10-
正孝さんが家に帰ってくる前に、俺たちは家を出て、街へ向かった。
夕食を小さな洋食屋で済ませ、俺は有川を駅まで送った。
次は何時会えるか分からない。卒業式まで会えないのかも知れなかった。
「来週も来るよ?大丈夫なら、連絡して?」
「うん…」
有川の言葉に、俺は頷くしか出来なかった。何か言おうとしたら、泣いてしまいそうだったからだ。
見えなくなるまで後姿を見送り、それから正孝さんに連絡した。
正孝さんは車で俺を拾って、そのまま祖母の家へ向かうことになっていたのだ。
暫く待つと、正孝さんの運転する車が見えた。明日は休みなので、今夜は正孝さんも向こうへ泊ることになっていた。
「不便掛けちゃって済みません。俺がこっちへ来ればいいんだけど」
「いや、大丈夫だよ。俺も一人暮らしが長かったから大抵のことは出来るしね」
確かに正孝さんは、普段から家事を分担していたくらいだったので、一人になってもそれほど不自由ではないのかも知れなかった。
「千秋なんだけど、今から連れて行って少し慣らしておいた方がいいかも知れない。もしかすると、みんなで暫く家を空けることになるかも知れないし…」
正孝さんに言われて俺も頷いた。
祖父に何かあったら、暫くは帰れなくなるかも知れない。だとすると、千秋を残しては置けなくなる。
「そうですね。じゃあ、家に寄って下さい。フードとトイレも用意しないと」
一旦家に帰り、正孝さんが千秋の物を色々とトランクに積み込んでくれている間に、俺は逃げようとする千秋をなんとか捕まえてキャリーへ入れた。
車が嫌いな千秋は後部座席へ乗せたキャリーの中で鳴き続けていたが、好きなおやつを与えてやると、少しの間は大人しくなった。
携帯から知らせてあったので、祖母の家に着くと、駐車場まで母が迎えに来た。
やはり千秋が心配だったらしく、すぐに後部座席からキャリーを取り出した。
「ああ、ああ、ごめんね、ちーちゃん。すぐに出してあげるね?」
祖父の所為で気が弱くなっているのか、母は少し涙声だった。千秋にまで負担を掛けることが心苦しかったのかも知れない。
早く出してくれと鳴いていた千秋だったが、家の中に入ってキャリーを開けると暫くは様子を伺って出て来ようとはしなかった。
だが、出てくるとすぐに、今度は居間のキャビネットの隙間に入り込んで目だけを光らせた。
部屋へ入り、マナーモードにしていた携帯をチェックすると2件のメールが入っていた。
1件は有川からで、今日、会えて嬉しかったことと、また電話するからという内容だった。
それから、2件目は慶からだった。
「千冬、元気か?アパートは決まった?卒業式まで会えないのかな?暇があったら連絡くれると嬉しい。じゃ、また」
素っ気ない文章だったが、慶が俺のことを気に掛けてくれているのが良く分かった。
「元気だよ。慶は?大学から近くて便利な所が見つかったんでアパートは決めてきた。実は今、母と一緒に祖父の家に居るんだ。少し前に祖父が入院したことは伝えたけど、もう先が見えない状態なんだ」
すると、慶はまたすぐに返信を寄越した。
「そうだったのか。千冬も大変だな。卒業式には会えるといいけど…。千冬も体に気を付けろよ?じゃあ、また」
「ありがとう。落ち着いたら連絡する」
そう返信して、俺は携帯を閉じた。
有川に返信しようか迷ったが、声を聞きたかったので、後でまた電話することにした。
風呂に入る為に支度して居間へ行くと、千秋はやっと出てきて母の膝の上で寛いでいた。
正孝さんはもう入浴を済ませたと言うので、俺はそのまま浴室に向かった。
髪と身体を洗い、湯船に浸かろうとした時、扉の向こうで正孝さんの声がした。
「千冬君、お祖父さんの容体が変わったってッ。すぐに病院へ行くから。出られる?」
「あ、はいッ。出ますッ」
俺は慌てて答えると、正孝さんがまだそこに居るも構わず扉を開けて浴室から出た。
すると、強張った表情の正孝さんが、バスタオルを取って渡してくれた。
「急いで。俺は車を玄関へ回すから」
「はいっ…」
急いで体を拭くと、俺は濡れ髪のままで服を着て、居間へ飛んで行った。
すると、真っ赤な目をした母がバッグを持って立ち竦んでいた。
「母さん、行こう」
声を掛けて背中を押すと、母は黙って頷いた。
その夜、祖父は息を引き取った。
祖母と母の悲しむ姿は、辛くて見ていられなかった。
余り元気ではなかったとは言え、夏には真藤先輩と一緒に嬉しそうに晩酌をしていた祖父を思い出した。
それなのに、人というのはこんなにも呆気なく逝ってしまうのだ。
小さい頃、祖父は俺の父親代わりだった。今でも俺を心配して、いつも気に掛けてくれていた。
母たちを慰めたいと思ったが、思い出が蘇り、俺の方が涙を堪え切れなかった。
葬儀を終え、初七日を過ぎる頃には、祖母も大分しっかりしてきて俺も少しは安心出来た。
店をどうするか、母や叔父とも話し合っていたが、思い切って畳んで、一緒に住もうと言った叔父の言葉に、祖母も心を動かされているようだった。
俺の卒業式は出席出来ないだろうと思っていたが、入学式にも出なかったし、母は俺の高校生活の締めくくりだから出席すると言ってくれた。
だから、卒業式の日は、母と一緒に正孝さんの運転する車に乗って学校へ向かった。
学校に着くと、講堂へ向かう二人と別れて、俺は一人寮へ向かった。
すると、寮の入り口で有川が待っていてくれた。
「雄李ッ…」
人の目があるから傍に駆け寄っただけだったが、誰も居なかったら、多分抱きついていただろう。
有川も両手を出そうとして気付き、苦笑しながらその手を引込めた。
「とうとう、これが最後なんだね?」
寂しそうにそう言われ、俺は首を振った。
「そういう言い方するなよ。嫌だ…」
「ごめん。そうだね…」
だが、有川の寂しげな笑みは変わらなかった。
「式が終わったら寮に行くよ」
俺が言うと、有川は頷いた。
「うん、待ってる」
もっと一緒に居たかったが、集合時間が来て有川は学校へ向かった。
俺も、1度教室へ集合することになっていたが、在校生よりは集合時間が遅かったので、思い出を噛みしめるようにして、ゆっくりと周りを見ながら学校へ向かった。
何人もの同級生や知った顔に出会い挨拶を交わしたが、みんな今までとは何処か違った表情をしていた。
見慣れた風景の中に居る筈なのに、まるで空気が違うような気がして、何だか切なかった。
もう、生徒としてここへ来ることは無いのだ。
そう思うと、寂しくて堪らなかった。
「千冬ッ」
声を掛けられて振り向くと、そこには慶の姿があった。
暫く振りに見る慶は、何処か少し大人びたように見えた。そして、今更ながらに、俺は慶が好きなのだと思った。
近づいて来る慶の笑顔が、酷く眩しくて俺は目を細めた。
「久し振りだな。大変だったろ?」
心配そうにそう言う慶に、俺は頷いた。
「うん、まあ。でも、もう大分落ち着いたよ。母も来週から仕事に出ることにしたし」
「そうか…。でも、千冬も家を出るし、お母さんも寂しんじゃないか?」
「うん。でも、正孝さんが居てくれるから大丈夫だと思う。……慶は?瑠依子ちゃん、どう?会いに行けなくてごめんな?」
俺の言葉に慶は首を振った。
「何言ってるんだ。それ所じゃなかったろ?瑠依子は大丈夫だよ。ちょっと心細くなってただけなんだ。却って余計な心配かけて悪かったな?」
「ううん。約束したのに行けなくて、心苦しかったんだ。大学が始まる前に、1度会いに行くって伝えて?」
「いいのか?無理しなくていいんだぞ」
「ううん、俺も会いたいし…。来週にでもお邪魔するよ」
俺の言葉に、慶は頷いた。
「ありがとう。いつも、悪いな」
そう言った慶と一緒に歩き出し、俺たちは校舎へ向かった。
すると、途中で、友達と一緒に写真を撮っていた楠田に出会った。
「うぉうッ、お二人さぁん」
嘘泣きをしながら抱きついてきた楠田に、俺も慶も苦笑したが、押し返したりはしなかった。
「寂しいよぉ。卒業したくなーい」
「大袈裟だよ。大体は同じ大学なんだから、すぐに会えるだろ?」
俺が言うと、楠田はプッと頬を膨らませた。
「なんだよ、もう。折角なんだから気分出せよな。それに、戸田君とはもう、中々会えなくなるもん」
「そうだな。寂しいよ」
慶が苦笑しながらそう言うと、楠田は意外な言葉に目を丸くした。
「ほんとっ?じゃあ、メールしていい?」
携帯を出してそう言った楠田に、慶はまた苦笑しながら頷いた。
「いいよ」
慶も携帯を出して、楠田とアドレスのやり取りを始めた。
それを傍で見ていた俺の所に、同窓生が来て一緒に何枚か写真を撮った。
他にも慶のアドレスを知りたがった奴らが居たが、慶は笑って誤魔化して教えなかった。
俺のアドレスは、以前、教えた覚えのない連中まで知っていることが分かって驚いたが、慶のアドレスはほんの少数の人間しか知らなかったし、それも他に漏らす心配のない人間ばかりだったので、本当に貴重だった。
それを教えてもらえたのだから、楠田は随分嬉しかっただろう。
友達と別れた楠田と一緒に、俺たちは連れだって校舎へ向かった。
辛いことも沢山あった筈なのに、今になって振り返ると、全てがいい思い出だったような気がした。
今は、有川と離れ離れになることが俺にとっては一番辛いことだった。
そして、慶とはまた別の関係を築けるような気がしていた。
多分、それは穏やかな、親友と呼べるような関係を。
「寂しいな、本当に……」
珍しく楠田が、しんみりとした調子でそう呟いた。
「うん…」
頷いて、そちらを見ると、慶も頷いていた。
昼も夜も、俺たちはこの狭い世界で一緒だった。
ここで友達を作り、恋を覚え、その身を焦がす辛さも知った。
辛い別れも経験し、人の悲しい想いも垣間見て、少しずつ大人になったのだ。
俺が、どれほど成長出来たのかは分からないが、それでも入学した頃より、きっと大人になったのだろう。
正孝さんへの幼い恋は、慶の出現であっという間に終わった。思えばあれは、憧れよりも強い想いではなかったのかも知れない。
ここに居る間、俺は何人の人を傷つけたのだろうか。
小金井先輩のことも、真藤先輩のことも、坂上のことも。
そして、俺はきっと慶のことも傷つけただろう。余計な心配を掛けて、酷い言葉も何度も投げた。
自分をもっと好きになれと、慶は言ってくれたが、とうとうそれは出来なかった。
そして、きっと俺は有川のことも傷つける。
どんなに相手を幸せにしたいと望んでも、何時もそれは叶わないのだ。
そう思うと、また怖くなった。
自分の存在が、忌まわしくさえ思えて、俺はこの晴れの日に相応しくない表情をしていたのかも知れない。
慶の手が肩の上に乗って、俺はハッとして顔を上げた。
「千冬、今日で終わる訳じゃないよ?」
どういう意味で言ったのか分からなかったが、慶が俺を慰めようとしてくれたことは分かった。
「うん…、そうだね」
自分との関係を言ったのか、それとも有川と離れることを悲観している俺を慰めてくれたのか、慶は優しい表情をしていた。
「あ、そうだ。高梁、下宿先教えてよ?戸田君は学生寮だったよね?遊びに行っていい?」
わざとなのか、重くなったその空気を壊すように、楠田はそう言って慶の腕に掴まった。
「まあ、いいけど」
苦笑しながらそう答えた慶に、楠田は嬉しそうににんまりと笑って見せた。
見上げると、桜並木の蕾は、まだ大分固かった。
朝に夕に何度も何度も歩いた桜並木。この道にも随分と思い出がある。
その一つ一つを噛みしめるようにして、俺は歩いた。
図書館、グラウンド、武道場、裏山へ続く道。
初めて真藤先輩とキスした林の中。
先輩たちの衝撃的な場面を見たのもあそこだった。
今でも、真藤先輩の片思いの相手は分からないままだったが、もうそれを訊く気もなかった。
写真部の部室が見えて懐かしく感じていると、やはりそちらを見ていた楠田がクスッと笑った。
「俺、真藤先輩か小金井先輩と付き合えなかったら、写真部なんて、すぐ辞めるつもりだったんだけどな…。結局、最後まで在籍しちゃった。結構、楽しかったのかもな」
「楽しかったよ。先輩も後輩も、みんな良かったし」
俺が言うと、楠田は少し肩を竦めた。
「ふん。高梁らしい台詞だね。……俺に苛められたの忘れてんの?」
「そんなの、もう忘れた」
俺が笑いながら答えると、楠田も笑った。
「そうだよな、俺の苛めなんて、思えば可愛いもんだったしー」
「何言ってんだよ。酷い奴だと思ったんだから」
「えー?今、忘れたって言ったじゃん」
「やっぱ、嘘。忘れてない」
俺がそう言うと、やり取りを見ていた慶が楽しそうに笑った。
その顔を見て、眩しそうな目になると楠田が言った。
「戸田君、前より笑うようになったね」
「そうか?だとすれば、千冬のお蔭かもな…」
「え……?」
俺が戸惑うと、慶はまた笑みを見せた。
「俺、この学校に来て良かったよ」
そう言って笑う慶に、俺は胸が熱くなるのを覚えた。
「うんっ。俺も」
俺が答える前に、楠田がそう言って俺と慶の間に割り込むと、二人の腕を掴んだ。
「なあ、式が終わったらテラスでお茶飲もうよ。最後にさぁ」
楠田の言葉に俺と慶は顔を見合わせて頷き合った。
「そうだな。そうしうようか」
「うん…。」
俺が言うと楠田は勢いよく頷いた。
「よし、決まり。さ、行こう。集合時間に遅れたらカッコ悪いよ」
「うん。行こう」
慶と顔を見合わせてそう言うと、俺は楠田に腕を引かれたまま歩き始めた。