涙の後で


-7-

狭いバスタブの中で有川とセックスをし、羞恥を感じながらも何時もよりも興奮していたのも確かだった。
綺麗に洗ってもらった身体でバスタブから出ると、洗面台の鏡に映った俺の顔は見っとも無いほど高潮していた。
見ていられなくてすぐに顔を背け、身体を拭くと急いで下着を着けた。
バスルームから出ると、エアコンのお蔭で涼しくなっていた部屋が俺の熱を少しずつ冷ましてくれるのを待った。
バスルームを片付けて、有川がバスタオルを腰に巻いただけの姿で部屋に入って来た。
服を取って渡そうとした所へ、突然部屋のドアが開いた。
「千冬、帰ってたの……か…」
下着1枚の俺の隣に立っていた裸の有川を見て、ドアを開けて入ってこようとした慶の目が大きく見開かれた。

(なんでッ……?)

凍りついた俺の目の前で、慶がゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「ごめんっ」
そう言うなり、慶はドアを閉めた。
ドキドキと、恐ろしいほどに俺の鼓動が早まった。
俺と有川がプラトニックではないことぐらい慶も知っていただろう。だが、こんな生々しい場面を慶に見せたくは無かったのだ。
「うそ……」
そう言ったまま絶句した俺の肩に、有川の手が載るのが分かった。
「済みません。俺が調子に乗ったから……」
済まなそうな有川の声に、俺は我に返った。
「う…、ううん。慶がこんなに早く帰って来るなんて思わなかったから……。俺が悪いんだよ。雄李の所為じゃない」
「でも、気拙くないですか?……戸田先輩って、その、なんて言うか……」
有川の言いたい事は分かった。
慶は同性愛を否定はしていなくても、プラトニック以外の恋愛を受け入れるようには見えなかったのだろう。
「大丈夫だよ。この学校に2年以上も居るんだから、慶だって免疫ぐらいある。だから、心配しないで?」
安心させる為に俺が心にもないことを言って笑って見せると、有川はやっと頷いた。
だが、本当に心配していたのは有川よりも俺の方だったのだ。
(きっと、今度こそ軽蔑された……)
俺は心の中でそう思っていた。

有川が部屋へ戻り、1時間ほどすると慶が戻って来た。
今度はノックの音が聞こえ、俺が返事をするとドアが開いた。
俺の顔を見て、慶はちょっと躊躇うと口を開いた。
「ごめんな?夕方帰るって言ってたのに……」
低い声でそう言った慶に俺は首を振った。
「ううん。俺こそごめん…。部屋でとか、ルール違反だよな?反省してる……」
取り決めをしていた訳ではなかったが、男同士の性行為など考えたこともなかった筈の慶にとって、俺のしたことは気分が悪かったに違いない。
見られたこともショックだったが、それ以上に、慶に不快な思いをさせたことに心が痛んだ。
「いや、そんなことない。……付き合ってるんだから、そういうことだってあるよな。ただ、正直言って驚いた。これは単に、俺の勝手なイメージなんだけど、千冬は綺麗過ぎて性欲なんか無縁に見えるから…」
その言葉に、俺はすぐに答えることが出来なかった。
何でこんな俺なんかの事を、慶は綺麗だと言ってくれるのだろう。
だが、すぐに気付いた。
臆面もなく男の友達にこんな言葉をくれるのは、そこに恋愛感情など微塵もないからなのだ。
「言ったろ?俺だって普通に性欲くらいある。慶はまだ、俺と瑠衣子ちゃんを重ねてるんだよ。だから、綺麗だなんて言うんだ」
そう言って俺が苦笑すると、慶は一瞬黙った。
「……そんなことない。今ではもう、瑠衣子と千冬を重ねたりしないよ」
冷たい声に聞こえたのは、気の所為だったろうか。
それとも慶は、男と寝ているような薄汚い俺なんかを、大事な妹に似ていると言った自分の言葉を、今では取り消したいと思っていたのだろうか。
結局、夕食を一緒にと言った慶の意図も分からないまま、俺たちは別々に夕食を取った。



秋風が立つようになり、受験組の3年生は、朝と放課後の補習授業で忙しそうだった。
俺たちエスカレーター組はそれに比べればのんびりしたものだったが、一応、部活は引退して部室に行くこともなくなった。
傍から見れば、俺と慶の関係は何も変わっていないように見えただろう。
だが、俺だけに感じる溝のような物が二人の間にはあったのだ。
慶の態度が冷たくなった訳ではない。
だが、慶が俺のテリトリーに踏み込まないようにしているのがはっきりと分かった。
特に、有川の影が見えると、慶は何時の間にか居なくなっていることが多かった。
前には食堂で会うと、3人で食事をしたりテラスでお茶を飲むこともあったが、今ではそこに慶の姿を見ることは無くなった。
部屋で二人で居ても、お互いの机やベッドに別れて話はしても、前のように慶が俺のベッドに来て隣に座ることは無くなった。
それは、俺にとって酷く寂しかったが、同時に少し気持ちが軽くなったのも確かだった。
慶とは卒業と同時に離れ離れになる。そうすれば、俺もやっと未練がましいこの想いからも卒業することが出来るだろう。
こうして慶との間に溝が出来れば、俺の気持ちも少しずつ冷めていくのかも知れない。

そして、今の俺の心配は慶のことよりも有川の方だった。
部室に行くことが無くなった俺を、有川は放課後になると教室へ迎えに来た。そして、図書館やテラス、裏山や部屋などで毎日のようにデートを重ねた。
もうすぐ別れが来るのだから、俺だって出来る限り一緒に過ごしたい。だが、なんだか有川は酷く焦っているようで、人目の無い所で俺に触れることばかり考えているように見えた。
そんな有川の態度が、俺には怖かった。
俺の卒業だけではない、本当の別れが、すぐそこに迫っているように思えてならなかったのだ。
「んっ、いや…ッ」
もう大分寒くなった裏山でシャツのボタンを外され、俺は慌てて唇を離すと有川を押し退けようとした。
だが、その両手首を、有川ががっちりと捕まえてしまった。
「ゆ、雄李ッ…」
余りの力強さに、俺は顔を顰めて彼を見た。
「何で嫌がるの?いつもそうだ。千冬さんは、俺とすることに何時までも抵抗を消そうとしない。なんでだよ?本当は好きじゃないから?ただ流されてるだけだから?」
食って掛かるような有川の態度に、俺は驚いて目を見開いた。
「ち、違う…。そんな、そんなことないよ。ただ俺は、ここじゃ嫌だって意味で言っただけだ」
険しい顔で俺を見つめるその目に少し恐怖を感じ、俺はコクッと喉を鳴らした。
「ご、ごめん…。ただ、ここは寒いし、それに、いつ誰が来るかも分からないし、そ、外でするなんて俺……」
最後は声が震えそうになり、言い訳をしている自分が酷く惨めに思えて、何故有川を拒んでしまったのかと後悔していた。
すると、手首を掴んでいた手が離され、その代わりに有川は俺の身体を抱きしめた。
「ごめん…。千冬さんを責めるなんてどうかしてた。でも、お願いだから拒まないで。……拒まれると、不安になるんだ」
「雄李…」
“不安”という言葉を、有川はこの時、初めて口にした。
だがきっと、その思いを彼はずっと抱えていたに違いなかった。
だからこそ、不安を消そうとして俺の身体を求めるのだろう。
有川の髪を撫でると、俺は彼の頬に頬を摺り寄せた。
「何が不安なの?俺の気持ちが変わるとでも思ってるの?卒業したら、もう終わりだって思ってるの?」
有川が、僅かに首を振るのが分かった。
そして、俺の身体を抱き直すと、その腕に力を込めた。
「思ってないよ。…ううん、思いたくない…」
「雄李…」
身体を離すと、俺は有川の目を見つめた。
「俺は変わらない。そう言ったろ?信じてくれないの?」
俺の言葉に、有川はまた首を振った。
「そうじゃない…。ごめん、俺がおかしいんだ…」
そう言って力なく笑う有川を見て、俺の不安は大きくなった。
どうしようもない別れが、すぐ其処に見えるようで、怖くて堪らなかった。
「いいよ、しよ?……寒くても平気だから」
俺が言うと、有川はまた首を振った。
「いい…。もう、千冬さんが嫌がる時にはしないよ」
「嫌じゃないよ。言ったろ?本当に、雄李とするのに抵抗なんか無いから」
俺の言葉に有川は笑って頷いた。
「うん、分かってる。でも、いいんだ。その代わり、もっとこうして、くっついていようよ」
ギュッと抱き寄せられ、俺は有川の腕の中にすっぽりと納まった。
だが、有川の温もりに包まれても、何故だか何時ものように安心することが出来なかった。
「離したくないんだ…。本当に、離したくない…」
「じゃあ、離すなよッ」
泣きそうになって、俺は有川の胸に顔を押し付けた。
離したくないけど、どうしようもない。 そう言っているように聞こえて、怖かった。
「うん。離さないよ」
有川は言ってくれたが、それでも俺は身体の震えを止められなかった。



あれから有川は、無理に俺の身体を求めようとはしなくなった。
だが、彼の様子がおかしいことに変わりは無かった。
楽しげにしていても、心から笑っていないように見えたし、ふとした時に何かを考え込むような表情を見せることがあった。
だが、俺はもう何も訊かなかった。
訊いても答えてくれないのは分かっていたし、答えを聞くのが怖かったのも確かだったのだ。
俺の様子がおかしいのを慶も分かっていたのかも知れない。
いつも一緒に居る有川の姿が傍に見えないと、何か言いたそうに俺を見ることがあった。
だが、相変わらず慶は余計なことを訊こうとはしなかったし、踏み込んで来ようともしなかった。
有川が求めてくれなくなったことが不安で堪らず、俺は度々、眠れない夜を過ごしていた。
最近では、二人きりになると、しがみ付いては俺の方からキスを求めてしまう。それでも有川は、以前のように身体を欲しがってはくれなかった。
その夜も、昼間の彼の様子を思い出しては溜め息をつき、ギュッと枕を抱えると、俺はいけないと思いながらも目に涙を滲ませていた。
「千冬?」
眠っていたと思っていた慶に突然声を掛けられて、俺は吃驚して、急いで涙を拭った。
すると、慶は起き上がって此方に近づいてきた。
「千冬?泣いてるのか?」
「ち、ちがっ…」
ゴシゴシと目を擦り、俺は顔を背けた。
電気は消してあったので暗くて見えないとは思ったが、それでも慶の方に顔を向ける勇気はなかったのだ。
「千冬……」
慶がベッドの端に座るのが分かり、軋みと共に手が俺の髪に触れた。
暗闇の中でも、目が慣れていた所為か、何処に頭があるのか位は分かったのだろう。その手は、ゆっくりと俺の頭を撫でた。
「なにか…、あったのか?有川と……」
「ううん。何でもない。何にもないよ…」
俺はそう言ったが、慶は信じていないようだった。
「無理するな。話したいなら聞くし、泣きたいなら泣けよ。俺は気にしないから」
「慶……」
俺が起き上がると、慶は俺の頭から手をどけた。
慶はきっと、ずっと俺の様子がおかしいのを心配してくれていたのだろう。距離を置いていたようでも、友達として気にかけてくれていたのだ。
「ありがと…。でも、言っても仕方ないんだ。何を言っても、どうにもならないことだから……」
そっと、慶の手が探りながら俺の肩に乗った。
「ずっと眠れてないだろ?明日にでも、中島先生に相談した方がいい。最近、顔色も良くないぞ」
「うん。でも、いい…。薬とか飲みたくないし」
「でも、眠らないと良くないよ」
心配してくれる慶の気持ちは嬉しかったが、今の俺が欲しいのは当たり前の言葉なんかじゃなかった。
「なら、抱きしめてよ」
自棄になって俺が言うと、肩の上から慶の手が去って行った。
「不安で堪らないんだ。……だから、抱きしめて」
してくれる筈は無いと分かっていたが、優しくしてくれる慶に縋りたくなって俺は言った。
すると、離れていくと思っていた慶の身体が近づいて来て、腕が絡みつくと、ギュッと俺の身体を抱きしめてくれた。
「これでいいか?」
「……うん」
涙が込み上げてきて、俺は小さな声でそう言うと、両腕を慶の背中に回した。
まさか、本当に抱きしめてくれるなんて思いもしなかった。だが、慶に躊躇いは感じなかった。
「こんなことで安心出来るなら、何時でも言えばいい」
優しくそう言われて、俺はただ頷いた。
以前に抱きしめてくれた時より、慶の身体は逞しくなっているような気がした。
「平気なの?俺のこと、気持ち悪いと思ってたんじゃないの……?」
俺が訊くと、慶は笑ったようだった。
「なんで?そんなこと思う訳無いだろ?」
そう言った後で、慶はまたクスッと笑った。
「でも、普通はしないよな。例え友達だって男同士でこんなこと…。ここに居るとみんなおかしくなる。色んなことが緩んできて、色んなことが普通になる。でも、少なくとも俺は、千冬以外の男を抱きしめたりはしないだろうけど……」
「……なんで俺にはしてくれるの?」
怖かったが知りたくて、俺はそう言った。
「だって、千冬は特別だから。…前にも、そう言ったろ?」
「うん…」
“特別”の意味は知っている。
確かに前にも、慶はそう言ってくれた。

“特別な友達”

今でも慶は、そう思ってくれているのだ。
「きっと大丈夫だよ。千冬の不安の原因は知らないけど、でも、きっと大丈夫だ……」
慶の言葉を無責任だとは思わなかった。
ただ彼は、俺を少しでも安心させようと思って言ってくれたのだと分かったからだ。
「うん…」
もう1度頷き、俺は目を閉じた。
こうしてこのまま、慶が朝まで抱きしめていてくれたらいいのにと思いながら。