涙の後で


-8-

有川の様子が変わることはなかったが、俺はもうくよくよするのは止そうと思った。
現金なもので、慶に慰めてもらったことと、”特別”だと言ってもらえたことが、俺の心からほんの少しだが不安を取り除いてくれた。
それに、有川と一緒に居られる時間は、本当にもう僅かだった。
暗い気持ちで過ごすより、少しでも楽しい気持ちで過ごしたかったのだ。
冬休みに入るとエスカレーター組は寮から出てしまう者が殆どだったし、俺も母の休みの日に付き合ってもらい、大学へ入ってから住むアパートを探すことにしていた。
だが、俺は有川が望むなら冬休みが終わるまで寮に残ろうと思っていた。
「ホント?じゃあ、残ってよ」
俺が話すと、有川は嬉しそうにそう言った。
「うん、じゃあ残るよ。どうせ、帰ってもすることないし。本当は卒業まで居たいけど、俺だけ残る訳にもいかないし…」
喜んでもらえたことで、俺は少しホッとした。
「受験組の人たちは卒業間近まで残るんでしょ?補習があるって聞いたけど」
「うん、少ないけど、受験組は残る人が居るよ。でも、エスカレーター組で残るのは誰も居ないと思う。そんなことしたら、ちょっと目立っちゃうし…」
「そうだね…」
残念そうにそう言い、有川は俺の手を取ると指に唇を押し付けた。
「でも良かった。冬休みは一緒に過ごせるんだ……」
切ない声でそう言われ、俺はまた泣きたくなった。
「帰っても会いに来るから。約束する…」
「うん…」
無理に笑って俺が言うと、有川も笑って頷いてくれた。
慶は卒業後は大学の寮に入ることが決まっていたので、早い内に家に帰る必要も無かったのだが、瑠衣子ちゃんの具合が相変わらず余り良くないらしく、休みに入ったら草々に寮を引き払って家に戻ると言っていた。
そうなったら、気兼ねすることも無くなるし、有川を部屋に呼ぶことも出来る。最後の時間を、二人っきりで過ごすことも出来るのだ。
そのことが、今の俺たちには何よりも大切に思えた。
冬休みが終わってから家に帰ると言うと、母は少し不満そうだったが、駄目だとは言わなかった。

少しの着替えや身の回りの物を残して、荷物は家に送ってしまったが、冬休みになっても俺は約束通り寮に残った。
少数の受験組以外、3年で残っているのはほんの僅かで、周りはまた色々と噂しているようだったが、気にしなかった。
有川と町へ出かけたり、テラスで過ごしたり、それから慶が居なくなって一人になった俺の部屋で濃密な時を過ごした。
毎日のようにセックスをし、まるでお互いに溺れるように、他の何も目に入らなかった。
慶が寮を去って、もう同じ部屋で暮らすことは無くなったことも、もしかすると2度と会えないのかも知れないことも、その時の俺には余り重要ではなかったように思う。
慶のことを忘れた訳ではなかったが、別れに怯える有川の目を見ると、今は彼のこと以外、考えてはいけないのだと思えたのだ。

慶が寮から出て行く日、俺はバス停まで彼を送って行った。
冬休み中、寮に残ることは言ってあったが、慶はその理由を訊いたりはしなかった。
「もう、卒業式まで会えないのか…」
そう言われて、俺は頷いた。
「うん、多分…」
「嫌じゃなかったら、また瑠衣子に会いに来てやって欲しいんだけど、駄目かな?」
「え?ううん…。そんなことないよ。じゃあ、冬休みが終わったら行くよ」
「そうか?良かった…」
心から嬉しそうに慶に言われ、俺は少し戸惑った。
誘ってくれるのは瑠衣子ちゃんの為だけなのだろうか。
それとも、ほんの少しは、慶も俺に会いたいと思ってくれているのだろうか。
「行く前にはメールか電話する」
「ああ、待ってるよ」
そう言って笑みを見せる慶は、俺との別れなんか永遠に来ないと思っているように見えた。
このままずっと、俺たちの友情が続くと思っているのだろうか。
そして、本当にそうなるのだろうか。
先のことは分からなかったが、俺が思っていたように、卒業と同時に俺たちの縁が切れることは無いのかも知れない。
それが嬉しいような、そして怖いような複雑な気持ちだった。
バスに乗る慶を見送り、窓から此方を見る彼に手を振った。
このまま、彼への恋心にもさよなら出来るのかも知れない。
有川のことばかり考えていたこの頃の俺には、本当にそう思える時が、確かにあったのだ。



冬休みが終わる日、俺は家に帰った。
有川は駅まで見送りに来てくれたが、交わした言葉は少なかった。
「週末には、会いに来るからね?」
俺が言うと、有川は笑って頷いた。
だが、何処か俺の言葉を信じていないように見えた。
これが最後ではない筈なのに、2度と会えないような気がして俺はまた泣きたくなった。
有川と別れて電車に乗り、俺は一人、家に帰った。
途中、ポケットの中の携帯が震え出し、取り出して見ると、有川からだった。
「今夜、電話するね。毎日、電話するから」
別れる時には何も言ってくれなかったが、言葉にするのが辛かったのかも知れない。
「うん。俺からもするよ。それから、本当に週末は会いに行くから」
返信を打つと、俺は携帯を閉じた。
これが最後ではないと、何度も何度も自分に言い聞かせていたが、どうしてもそれを心の底から信じることは出来なかった。
有川は俺に言えない秘密を抱えている。
その所為で苦悩して、不安を感じている。
でも、俺には彼のその不安を取り除いてやることは出来ないのだ。
そして、もし彼から別れを言い出されたら、頷くしかないことも分かっていた。
その日が来ないことを、ずっと願い続けていた。
だが、絶対に来ないとは、どうしても思えなかったのだ。

(もう、あそこには戻れないんだな…)
思えば、余りにも呆気ない、俺の寮生活の最後だった。
色んなことが有り過ぎて酷く長かったように思う。だが、あっという間に過ぎていったようにも感じた。
3年間、慶と同じ部屋で過ごした。
何も無かったし、キスひとつ交わした訳ではない。でも、彼の心には何度か触れることが出来たように思う。
俺のことを”特別”と言ってくれた慶。
最後の時には、泣きたいほどの気持ちになるのではないかと思っていた。だが、彼を見送った時、自分でも驚くほど、心は静かだった。
それは、彼との関わりが、これで最後だとは思えなかったからかも知れない。
それなのに、有川との別れは本当に胸が潰れそうに思えるほど辛かった。
会いに行くと約束したのに、そして、本当に会いに行くつもりなのに、どうしてこんなにも、“最後”という文字がちらつくのだろうか。
それを振り払うように首を振る。
だが、怖くて、怖くて、何時の間にか俺は、自分の腕を両手でギュッと抱きしめていた。



母の休みの日、大学へ入ってから住む部屋を探す為に不動産屋を何軒か訪ねた。
母は、なるべく大学に近くて新築の物件を探してくれていたが、正直俺はどんな所でも良かった。
有川とは毎日メールの遣り取りをしていたが、まだ1度も会いに行けていない。
本当は、今日もこんなことをしていないで、会いに行きたかったのだ。
「どう?千冬。この部屋、いいんじゃない?日当たりもいいし、買い物するにも便利だし」
3軒目の不動産屋で紹介してくれた物件を見ながら、母が言った。
「うん、いいね。ここにする」
俺が答えると、部屋を見ていた母が振り返って眉を寄せた。
「もうっ、ちゃんと見てるの?4年間住むんですからね。後で気に入らないって言っても駄目なのよ?」
「言わないよ。ここ、綺麗だし、便利だし、間取りもいいよ。だから、ここにする」
俺が言うと、母は呆れたように首を振った。
「全く、上の空なんだから…。でも、まあいいわ。ここなら母さんも気に入った。じゃあ、ここにしましょう」
確かに俺は熱心に見ていたとは言えなかったが、その部屋は、建ってから数年しか経っていないし、前の住人も綺麗に使っていたらしく新築と変わらなかった。
近くに大型のマーケットや商店街もあり、大学へも徒歩で15分くらいしか掛からなかったので、家賃の割にはお得な物件だった。
不動産屋へ戻って契約を済ませると、一緒に何処かでお昼でも食べようと言う母に首を振り、俺は先に帰ってくれるように言った。
母は怒っていたが、どうしても行きたい所があるのだと言うと、仕方なく俺を車に乗せて駅まで送ってくれた。
時間を調べると、15分くらい待てば学園へ向かう電車があった。
乗り換えなければ行けないが、2時間までは掛からない。俺は迷わず行くことに決めた。
改札を通ってホームへ出ると、其処から有川にメールを打った。
すぐに返信が来るとは思わなかったが、電車がホームに入る前に携帯から着信音が聞こえてきた。
「何時に着くの?駅まで迎えに行くから」
挨拶さえ無い短い文章だったが、それが却って有川の会いたい気持ちを表しているようで俺は嬉しかった。
到着の時間をメールすると、すぐにまた返信があった。
「待ってるから。早く来て」
その文面を見ながら思わず微笑んでしまい、俺は慌てて口元を手で覆った。
電車に乗って暫くすると、また有川からメールが届いた。
「今から町に下りて電車に乗るよ。途中まで迎えに行くから」
俺は驚いたが、嬉しかった。途中まで来てくれれば、それだけ早く有川に会える。
すれ違わないようにメールで確認し合うことにし、俺達は再会を待った。
だが、乗換駅に着いて電車を降りると、足早にホームを進む俺のポケットで、また着信音が鳴った。
有川からのメールではなく、それは母からの電話だった。
「もしもし?どうかしたの?」
何だか胸騒ぎがして俺が言うと、慌てた母の声が聞こえた。
「今、何処?お祖父ちゃんが入院したの。すぐに病院に来て頂戴。私は今、車で向かってるから」
「ええ?で、でも、ここからだとちょっと時間掛かる…」
言い終わらない内に、また母の声がした。
「正孝さんが、迎えに行けるかも知れないから連絡しなさい。じゃ、私は先に行くからねっ」
捲し立てるように喋ると、母は一方的に電話を切った。
俺は立ち止まると、先ず、正孝さんに電話した。
正孝さんは、まだ職場に居て、これから出る所だった。俺が途中まで引き返すと言うと、駅まで迎えに来てくれると言ってくれた。
それから、今度は有川に電話を掛けた。
「ごめん、祖父が急に入院したって、今、母から連絡が来たんだ」
俺が言うと、有川は
「えっ…?」
と言ったまま、暫く黙った。
「じゃあ、来られないの?」
「うん、母が慌ててて、どういう状態か全然分からないんだけど、すぐに病院へ来るようにって言うからには、大分悪いんだと思う。前から体調が悪かったし、俺も心配だから」
「そう……。そういうことなら仕方ないよね。今回は諦める。お祖父さんの容体が分かったら連絡して?」
「うん、ありがと…。じゃ、また連絡するね」
そう言って、俺は電話を切った。
何だか、正体の分からないものに有川と会うことを邪魔されているような気がして怖かった。まさか、このまま2度と会えないんじゃないだろうかと、馬鹿なことまで考えてしまった。
首を振り、気を取り直して俺は歩き出した。
有川には、またすぐに会える。それに、祖父だって、母が慌てているだけで、きっとそんなに深刻な状態じゃないのだ。
そう心に言い聞かせ、俺は引き返す為の電車に乗った。