涙の後で


-9-

駅に着いて待ち合わせた場所に行くと、正孝さんの車はもう来ていた。
「済みません、こんな所まで迎えに来てもらって…」
車に乗り込みながら俺が言うと、正孝さんは首を振って、エンジンを掛けた。
「いや、丁度、午後からは受け持ちの授業が無くて良かった。千冬くん、お昼食べたの?良かったら、後ろの席にサンドイッチがあるから食べたら?」
正孝さんもお昼前に母からの電話が掛かってきたので何も食べずに来たらしい。途中で、俺の分もお昼を買って来てくれたのだ。
「ありがとう。正孝さんは?」
袋の中身を覗きながら俺が訊くと、正孝さんは首を振った。
「俺は運転しながら食べたんだ。だから、後は千冬くんの分だよ」
その言葉に頷いて、俺は有難くサンドイッチを頂くことにした。
「お祖父ちゃんの容体のこと、何か聞いてますか?」
卵のサンドイッチを取り出して口を付ける前にそう訊くと、正孝さんは首を振った。
「いや、詳しいことは何も……。でも、千夏さんのあの様子だと、ちょっと心配だね。お義父さん、大分前から体調が悪かったみたいだし、ここ1週間ぐらいは寝込んでいたらしいんだ」
「そうなんですか…?俺が手伝いに行っていた時も余り元気が無くて…。何度も病院へ行くように勧めたんだけど…」
「うん。お義父さんも頑固だからって、千夏さんも溢してたよ。でも、こんなことになるなら嫌われてもいいから病院へ連れて行くんだった」
優しい正孝さんは、随分と後悔しているようだった。
でも、俺が慰めるのもおかしいと思い、黙ってサンドイッチを食べて、一緒に入っていたカフェラテのカップにストローを刺した。
途中、携帯に何度か電話してみたが、電源を切っているらしく、母は出なかった。
気を揉みながら道中を過ごすと、やがて車が祖父が入院した総合病院に着いた。
俺は先に玄関で下してもらい、正孝さんは駐車場に向かった。
受付で祖父の病室の場所と行き方を教えてもらうと、俺は一旦玄関へ戻り、正孝さんが来るのを待った。
やがて、足早に正孝さんが現れ、俺は説明しながら少し先に立って病室へ向かった。
祖父の病室は個室で、ノックをして中に入ると、祖母と母、それから母の弟夫婦が顔を揃えていた。
「どうなの?」
祖父は眠っているらしかったので、俺はみんなに頭を下げてから小声で母に訊いた。
すると、気丈な母が泣きそうな顔で首を振った。
「まだ、詳しく検査しないとはっきりしないけど、多分もう、手術は出来ないだろうって…」
「え……?」
母の説明だと、祖父は癌らしかった。しかも、随分転移しているらしい。
祖母を見ると、椅子に腰を下ろしたまま微動だにせず、酷く疲れた顔で祖父の顔を見ていた。
早い内に病院へ連れて来なかったことを後悔しているのだろう。可哀想で、俺は思わず目を逸らしてしまった。
母は叔父と一緒に病院側の説明などを受けると言って残ったが、祖母のことは一旦家に連れて行ってくれるように頼まれ、俺と正孝さんが一緒に行くことなった。
正孝さんの車の後部座席に乗った祖母は、終始無言で、窓の外を見ていた。
痛々しい祖母の姿に俺は心配になったが、家に着いた祖母は気を取り直したようになって、気丈に祖父の入院準備を始めた。
何か足りないものがあったら買って来ると言うと、大判のバスタオルを2枚ほど買ってきて欲しいと頼まれて、俺と正孝さんは街へ行く為にまた車に乗った。
じっとしていると却って辛いのだろう。そんな祖母の気持ちが分かるような気がした。
買い物途中で正孝さんの携帯に母から電話があった。
明日、詳しい検査が行われるらしいので、母は今夜はこちらに泊まるということだった。
祖母も一人で家に居るよりは心強いだろうし、俺も正孝さんと二人の家に帰るのは何となく気が引けたので、母と一緒に祖母の家に泊まることにした。
正孝さんは明日も受け持ちの授業があるので、今夜の内に家に戻ることになっていたのだ。
買い物を終えて家に戻ると、旅行用のバッグに他の荷物を詰め終えた祖母が待っていた。
「入院は初めてじゃないから、慣れたものよ。正孝さん、悪いけど、もう1回送って行ってね?」
希望を捨てまいとしてか、祖母は努めて明るく振る舞おうとしていた。
そんな祖母に合わせるように、俺も正孝さんも暗い顔をするのは止めた。
「夕飯、こっちに帰って来て食べるでしょ?俺、何か作っておくから」
「あら、悪いわね。大丈夫?」
祖母に訊かれて、俺は頷いた。
「大丈夫だよ。簡単な物しか出来ないけど、任せて」
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
そう言って、祖母は正孝さんと一緒に出掛けて行った。
俺は早速、冷蔵庫の中をチェックして、夕飯のメニューを考えた。
玉ねぎや人参もあるし、ひき肉と卵があった。ご飯も炊いてあったので、炒飯とスープを作ることにした。
作り始めるにはまだ早いので、有川に電話しようと携帯を取り出した。
事情を話すと、有川は心配そうな声で言った。
「そうなんだ…。じゃあ、暫くは会えないね?寂しいけど、でも、仕方ないよ」
「うん、ごめん…」
「ううん。お祖父さん、元気になるといいね。…じゃあ、またメールするから」
「うん、分かった。俺もメールする」
名残惜しかったが電話を切ると、今度は慶にメールを打った。
冬休みが終わったら瑠依子ちゃんに会いに行くと約束をしていたが、この状態では何時行けるか分からない。待ってくれているのだとしたら悪いと思ったのだ。
事情を知って、慶も心配してくれたようだった。瑠依子ちゃんは今の所落ち着いているので、無理はしないで、来られる時でいいと言ってくれた。
することがなくなって、一人でポツンとリビングに座っていると、何だか無性に寂しくなった。
このまま祖父が逝ってしまったら、祖母はどうするのだろう。カフェも続けていけるのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていたが、やがて思うのは有川のことに変わった。
本当に、このまま卒業式まで会えないのではないだろうか。
そう思ったら、益々会いたくて堪らなくなった。
考えてみれば、今日は短い時間にあっちこっちと随分と移動した。どっと疲れが出て、俺はテーブルの上に腕を伸ばすと、その上に頬を載せた。



祖父の検査が終わり、結果を母と祖母、それから叔父で聞きに行った。
希望は捨てていなかったのだが、祖父はやはり、もう手術の出来る状態ではなかった。
余命1か月と言われ、祖母はがっくりと力を落としてしまった。
母は会社と相談して、2か月の休暇を貰うことにし、祖母と一緒に最後まで祖父の面倒を見ることにした。
店は当然、閉めることにして、俺も卒業式までは母と一緒に祖母の家に居ることにした。
本当は家に帰って、母がいない間、少しでも正孝さんの面倒を見ればいいのだろうが、まだ、母の居ない家で二人きりで生活するのはお互いに少し気まずかったのだ。
勿論、もう俺には、とっくに正孝さんへの想いは無くなっていたし、正孝さんの方でもその事は分かっているだろう。
だが、ずっと寮生活をしていた俺は、正孝さんと同じ屋根の下で過ごした時間が少な過ぎたのだ。だから、まだ"家族"という意識が出来上がっていなかった。
交代で病院へ行く祖母と母を手伝って、家の中のことをしたり、たまには俺が病院へ行ったりした。
痛みは薬で抑えられていたが、祖父は日に日に窶れ、食も細くなっていった。
そんな祖父を見ていると、有川に会いに行く為に外出したいとは言い出せなかった。



「俺が、行ったら駄目?」
メールする度に行けそうもないと俺が言うと、とうとう、電話してきた有川がそう言った。
「え?本当?来てくれるの?」
嬉しくて俺が食いつくように言うと、有川は少し笑ったようだった。
「いいなら、勿論行くよ。てか、迷惑かと思ったから言わなかっただけ」
「め、迷惑なんかじゃないよ。来てくれるなら嬉しい…。家に取りに行く物もあるし、それなら駅まで迎えに行くよ」
「うん。なら、今度の土曜日の朝に…。後で時間が分かったらメールするから」
「うん、待ってる。……あの、雄李?」
「え?」
「ありがと…」
俺が言うと、有川はくすっと笑った。
「変なの…。お礼なんか可笑しいよ。今度こそ、ちゃんと会えるように祈ってる」
この前は、途中で駄目になったので有川はそう言った。
「うん、俺も」
そう言って、俺も笑った。
会えると分かったら、少しだけ安心した。
会って、抱きしめられて、あの熱いキスをされたら、きっと何も無かったようになれるに違いない。
電話を切っても、俺の口元は緩んだままだった。
そして、俺は紛れもなく、有川に恋をしているのだと思った。
慶に対する想いは、きっと段々に薄れているのだ。卒業して会えなくなれば、完全に忘れる事が出来るかも知れない。
この頃の俺は、本気でそう思っていた。



金曜日の夜に、有川はメールで電車の時間を知らせてくれた。
俺は土曜日になると朝の内にバスに乗り、一旦家に帰った。有川にも言っていたように、取りに行く荷物があったのだ。
それに、祖父の容体がどうなるか分からなかったので、卒業式に備えて今の内に準備をしておく必要もあった。
用意を終えて家を出ると、俺はまたバスに乗って駅へ向かった。
有川が着く時間には少し早かったが、カフェででも時間を潰すつもりだった。
駅に着いて、駅ビルの中のカフェに入ると、飲み物を買って外が見える席に座った。
カバンから文庫本を出して広げたが、集中する事が出来ず、すぐに顔を上げて外を確認した。有川はまだ来ないと分かっていても、気になって仕方が無かったのだ。
時間が来て、俺はカフェを出ると有川が下りてくる筈の改札口へ向かった。
暫く待つと、電車が着いて有川の姿が見えた。
それだけでキュンと胸が鳴る。ひと月ぶりに見た有川は少し髪が伸びていた。
すぐに俺を見つけて嬉しそうに笑うと、足早に改札を抜けて俺の前に立った。
「やっと会えた…」
「うん…」
「……行こう?」
「うん…」
話したいことは沢山あった筈なのに、俺は馬鹿みたいに有川を見て頷くことしか出来なかった。
正孝さんは仕事に行っていなかったので、俺はそのまま有川を家に連れて行った。
「学校、どう?」
バスの中で訊くと、有川は少し肩を竦めた。
「変わらないよ。…ただ、寂しいだけ」
「雄李…」
そっと手を握られたが、俺は振り払わなかった。もう、誰に見られてもいいと思ったのだ。
「俺も寂しいよ」
答えると、キュッと有川の指に力が入った。
「今夜、泊まっちゃ駄目?」
俺だって、出来る事なら泊まって欲しかった。だが、今の状態ではそれは無理だった。
「ごめん…。祖父が何時どうなるか分からない状態なんだ。俺も、夜には向こうに戻らなくちゃ」
俺の答えに、有川は寂しそうな笑みを見せると頷いた。
「分かってます。言ってみただけ。今日、会えただけでも良かった」
「ごめん…」
「ううん。時間が許す限り一緒に居よう?それで十分だから…」
有川の言葉に、俺は切なくなった。
そして、早く二人きりになって抱きしめられたくて堪らなかった。


家に着くと、すぐに俺の部屋に入って抱き合った。
ほとんど喋らず、何度も何度もキスをして、そしてベッドに入った。
抱かれるのは久し振りだったが、少しも躊躇いはなかった。
「雄李…ッ」
有川を身体の中に受け入れると、何故かまた泣きたくなった。
「痛い…?」
訊かれて何度も首を振る。
本当は痛かったが、そんなことはどうでも良かった。
またこうして、有川に会えた。そして、こうして腕の中に居られる。それが、今の俺には何よりも大切だったのだ。