涙の後で


-2-

慶が家に帰り、俺は部屋で一人きりになった。
真藤先輩はあの後、自分の思い人の名前をとうとう教えてはくれなかった。
それに、俺も訊かなかった。
訊いても答えてくれないだろうと思ったし、俺が知っても仕方の無いことだろうと思ったのだ。
そして、同じように片思いしていても先輩は俺のようにウジウジしていないのだな、と思った。
無駄だと分かっていながら諦めきれず、自分の想いの行き場の無さに嘆いてばかりいる俺とは違う。俺のことを強いと言ってくれたが、本当に強いのは真藤先輩のような人なのだ。
(俺も、拓馬さんみたいになりたい……)
自分のベッドに横になり、空っぽの慶のベッドを眺めながら、俺は思った。
心に秘めた想いを持ちながら、それを誰にも気付かせない。真藤先輩のようになりたかった。
悩んでいることを皆に悟られて、そして、心配されてしまう今の自分が、俺は本当に嫌だった。
立ち上がり、主のいないベッドに近づくと、俺は恐る恐る腰を下ろした。
「だから、駄目って…」
呟きながら、俺は慶の枕に顔を押し付けた。
もう、誰にも気付かれることなく、慶への想いを封印しよう。そして、少しずつ忘れよう。 でも、誰も居ない今だけは、ほんの少しだけ許して欲しかった。
「慶の匂い……」
深く息を吸い、頬を摺り寄せる。
このまま、このベッドで眠ってしまいたいと思った。
目を閉じて、慶を感じる。
でも、彼が帰って来たら、もう2度と触れたいなどと考えてはいけないと思った。
トントン、とドアにノックの音がして、俺は慌てて飛び起きると慶のベッドから離れた。
「はい?」
返事をすると、そっとドアが開いて坂上が顔を見せた。
「ちふ、忙しい?」
訊かれて、俺は首を振った。
「ううん、全然。何か用だった?」
「いや。暇だったら、ゲームでもしに来ないかと思って…」
躊躇い勝ちに坂上が言うのに、俺はすぐに笑みを見せて頷いた。
「うん、行く。何か飲み物でも買って行こうか?」
「あ、それなら、俺が買うよ。じゃあ、行こう」
途端に嬉しそうな顔になり、坂上は俺の腕を掴んだ。
「あ、待って、カード…」
棚の上からカードを取り、俺は坂上と一緒に部屋を出た。
「戸田、家に帰ったんだ?」
「あ、うん…」
「寂しくない?」
訊かれて俺は首を振った。
「べ、別に…」
俺が答えると、坂上は暫く黙っていた。
だが、購買の前に着いて足を止めると、また俺を見て言った。
「戸田の家に行ったんだろ?」
躊躇ったが俺は頷いた。一体誰に聞いたのだろうか。
「うん。ずっと寮に居るのも退屈だし、戸田が誘ってくれたから……」
「そう…。あ、何飲む?俺はコーラにするかな」
「俺はアイスティーにする。…やっぱり、俺が買うよ」
カードを出して俺が言うと、坂上はそれを遮った。
「いいって。アイスティーね……」
笑みを見せて坂上は言ったが、まだ何か訊きたそうに見えた。でも、結局は何も言わず、飲み物を買ってくれると俺を連れて部屋へ戻った。
坂上のルームメートも実家に戻っているらしく留守だった。
実は、TVもゲーム機もそのルームメートのものだったが、自分が使っていない時は勝手にやってもいいと言われているそうで、坂上は遠慮なくゲームをセットした。
どの部屋も、大抵どちらかがTVを持っていて、部屋で見ることが出来た。俺と慶はどちらもTVもゲーム機も持ち込んでいなかったので、TVを見る時は談話室へ行くか、誰かの部屋へ見に行くしかなかった。
だが、二人ともTVもゲームも無くても平気だったので、今更、持ち込む気もなかった。
「お菓子、食べる?」
訊かれて、俺は首を振った。
「ううん、いい。これ、初めてやる。どうやるの?」
「えっとね…」
坂上は自分のコントローラーを操作しながら技の出し方を教えてくれた。
それから暫く二人でゲームをし、飽きた頃に坂上がお笑い番組を点けて、今度は二人でそれを見ながら笑った。
こうしていると、友井先輩の事件がまるで夢だったように思えた。
今、辛い思いをしているだろう先輩のことも、結局俺にとっては他人事なのだと思うと、なんだか申し訳ないような気持ちになった。
不意に、今頃慶はどうしているだろうかと思った。
瑠衣子ちゃんの病院から、まだ戻らないだろうか。
それとも、居間で家族とテレビでも見ているだろうか。
それとも、もう部屋に行って、また小説を書いているのだろうか。
また戻って来る、と言っていたが、もしかすると夏休みが終わるまで帰って来ないかも知れない。
そう思うと、俺は急に寂しさに包まれた。
余りにも毎日、慶の傍に居過ぎてしまった。慣れてはいけないと気をつけていたつもりだったのに、やはり、それが当たり前になってしまったのかも知れない。
二人きりの時間に、そして、俺にだけ話し掛けてくれる慶に。
”千冬”と呼んで、髪を撫でてくれた。頬に触れてくれた。
あの時の胸のときめきと、そして、その後の絶望を、俺はまた思い出してしまった。
不意に泣きたくなり、俺は両手で顔を覆った。
たった今まで坂上と一緒に笑っていたのに、今の俺は酷く不安定なのだと自分でも分かった。
「ちふ?どうした?」
驚いて坂上が肩に手を掛けてきた。
俺はただ、首を振り彼に背を向けようとした。
「ちふッ…」
後ろから抱きしめられ、俺は動きを止めた。
「ごめん、なんでもないんだ。ごめんッ……」
「こっち向けよ」
「い、嫌だ…。離して」
「ちふっ…」
「やっ…ッ…ん……」
キスされて、俺は驚いて抵抗するのを止めた。
唇が離された時、見上げた坂上の顔は、酷く悲しそうだった。
「……俺と居るのに、戸田のこと考えるなよ」
「真也……」
「頼むから……。俺ッ…」
圧し掛かられてベッドの上に倒れると、俺は黙って坂上の身体に腕を回した。
また、悲しい思いをさせてしまった。
浅はかな俺は、いつでもこうして誰かを傷つけるのだ。
「ごめん……」
俺の肩に顔を押し付けたまま、くぐもった声で坂上は言った。
「こんなことするつもりで誘ったんじゃないんだ…」
俺は坂上の背中を撫でて頷いた。
「うん…、分かってるよ…。俺こそごめん……。傷つけて、ごめんな?」
「ちふっ…」
切なげに名を呼ばれ、泣きそうになる。
こんなに想ってくれる相手に、俺は何故何も返せないのだろうか。
想ってくれるだけのものを自分も返せたら、そんな恋が出来たら、きっと幸せだろう。
皆がそんな風に恋し合えたら、誰も不幸じゃなくなるのに。

坂上も、小金井先輩も、友井先輩も。
そしてきっと、真藤先輩も。
俺も……。

いつもは頼もしく感じていた筈の坂上の大きな身体が、腕の中で酷く頼り無げに感じた。
そんな坂上が愛しくて、愛しくて、そして、同じくらい悲しかった。



翌朝、食欲が無くて食堂へは行かなかった。
すると、9時過ぎになって真藤先輩が部屋へ尋ねてきた。
「小母ちゃんたちが心配してたぞ。千冬が飯食いに来なかったって。モテるなぁ、千冬」
からかう様にそう言うと、先輩は俺の手に購買で買ったらしいサンドイッチと野菜ジュースを載せた。 「す、すみません…。何だかあんまり食べたくなくて…」
「千冬は悩みがあると食べられなくなるタイプなんだよな。そんなんじゃ、成長止まるぞ」
笑いながらそう言い、真藤先輩は俺のベッドに腰を下ろした。
「戸田から連絡ないのか?」
「はい。別に、…俺に連絡してくる必要もないし」
「だから、食べたくないのか?」
訊かれて、俺は一瞬口篭った。
だが、首を振ると先輩に貰ったサンドイッチのセロファンを開けた。
「そんなんじゃないです。慶は、関係ないです」
俺の答えを、先輩は信じていなかっただろう。でも、何も言わずにいてくれた。
そして、自分の分に買ってきたコーラの蓋を開けると、それを一口飲んだ。
「昨夜……、ユキに電話した」
「え…?」
口まで持っていったサンドイッチを食べるのを止め、俺は先輩の顔を見た。
「今日、戻って来るそうだ。尚也には会えないぞって言ったんだけど、それでもいいって。信じられないようだったけど、俺が思ってた程は取り乱さなかった」
「そう…ですか…」
俺が答えると、先輩は僅かに口元に笑みを浮かべた。
「千冬のことも心配してたぞ。あの後、大丈夫だったかって…。身体のことも、それから、傷つけたことも…」
「そんな…、俺のことなんて気にすること無いのに……」
「ユキに気にするなって言ったって無理だ。あいつは、そんな奴じゃない」
勿論、それは俺にも分かっていた。だからこそ、先輩のことが心配で堪らなかったのだ。
俺に食べろと促し、先輩はまたコーラを飲み始めた。
思えば一昨日、俺はまた先輩とキスをした。
それは不意のことで、そして、ほんの軽いものだったが、あれは俺を黙らせる以外に何か意味があったのだろうか。
そして昨夜、今度は坂上が俺にキスをした。
昨夜のキスは真藤先輩がしたのとは全く違う。熱くて、切ないキスだった。
それを思い出すと、俺はまた食欲が無くなった。
このまま、友達面して坂上の傍にいることが果たしていいことなのだろうかと思う。辛い思いをさせるなら、俺はもう坂上の気持ちに甘えてはいけないのではないだろうか。
自分だって同じ立場で苦しんでいるのだ。
本当なら、そんな俺が自分と同じ思いを誰かにさせるなんて間違っているのだと思う。
俺の食べる手が止まったのを見て、先輩が肩に手を置いた。
「ユキが来たら部屋に来いよ。それから、昼は一緒に食おう」
「はい…」
真藤先輩に言われて俺は頷いた。
気にしてくれているのだろうが、先輩は何も訊こうとはしなかった。
それを有難いと思いながら、俺は先輩が出て行った後で無理してサンドイッチを胃に入れた。