涙の後で
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何時頃来るのか訊かなかったが、小金井先輩は1度、友井先輩の病院へ寄ってくるのではないだろうかと思った。
友井先輩には会えないだろうが、それでも先輩は行くのだろう。
俺は酷く切ない気持ちになって部屋を出た。
ひとりで、誰も居ない部屋に居るのが嫌になってしまったのだ。
だが、真藤先輩の部屋に行く以外、行く場所も無い。
俺はぶらぶらと当ても無く寮内を歩いて談話室を覗いたり、購買で、買う予定も無い品物を見たりした。
すると、坂上たちが合宿をしているのを思い出し、一旦部屋に帰ると、カメラを持って外へ出た。
学校へ行けば、合宿中の運動部の生徒たちが居る筈だった。彼らの姿を写真に撮らせてもらおうと思ったのだ。
学校に近づくにつれ、グラウンドから声が聞こえてきた。
丁度、野球部がノックをして守備練習をしているところで、俺はその様子を眺めながら、時折、シャッターを押した。
暫くして、今度は坂上たち柔道部の居る道場へ移動した。
靴を脱いで上がって行き、顧問の先生のところへ行って挨拶すると、邪魔にならないように隅に座って稽古をする生徒たちをカメラに収めた。
坂上は3年の先輩と組み手をしていたが、普段の優しい彼とはまるで別人のようだった。
凛々しくて、力強くて、本当に男らしい。
(カッコいい……)
半ば感動してそう思いながら、俺は彼の姿を夢中で撮った。
投げ技が決まった瞬間を取ることが出来て、すぐに画面で確認する。ブレもせず、アングルも悪くない。嬉しくなって思わず口元を綻ばせた。
(凄い汗……)
カメラの中の坂上も、そして、目の前の彼も汗に塗れていた。
その男臭い姿が胸をきゅんとさせた。彼に想われている自分が、ほんの少し誇らしかった。
道場を出て校舎に入ると、職員室へ行って仕事をしていた先生に断り、写真部の部室の鍵を借りた。
カメラのSDカードをパソコンに入れ、今撮ってきた写真を確認する。
気に入ったものを何枚かプリントして、俺は部室を後にした。
「ユキ先輩……」
寮の敷地に戻った時、俺は入り口に立っていた小金井先輩を見つけた。
「千冬…」
俺を見て、先輩は一瞬、泣きそうな顔になった。
だが、すぐに表情を戻すと、俺が近づくのを待って笑みを浮かべた。
「身体、大丈夫か?」
「もう、全然……。俺のことはもう気にしないで下さい」
俺が言うと、先輩は力なく笑った。
そして、持っていた鞄を地面に落とすと、躊躇いがちに俺を抱きしめた。
「ごめんな?千冬を残して、ひとりで逃げて……。でも、ここに居ても俺にはどうしようもなかった。自分のことだけで精一杯で、俺は……ッ」
「いいんです。俺だって、先輩に何もして上げられなかった。追い詰めるようなことばかりして、苦しめてしまった……」
「そんなことない。そんなことないよ…」
ギュッと抱きしめられて、俺もまた先輩を抱き返した。
すると、カフェテリアの方からからかう声が上がり、俺たちはハッとして身体を離した。
見ると、カフェテリアで飲食をしていた生徒が数人居て、こちらを見ていた。
口々になにか冷やかすような言葉を言っている。だが、遠くて何を言っているのかは分からなかった。
「行こう…」
小金井先輩は荷物を持つと、もう一方の手で俺の手を握り寮に向かって歩き出した。
先輩は部屋に着くまで何も言わなかった。
俺も何を言っていいのか分からず、ただ黙って着いて行った。
部屋に着くと、ノックをせずに先輩はドアを開けた。
真藤先輩はベッドに横になって音楽を聴いていたが、俺たちが入っていくと上半身を起こしてヘッドフォンを外した。
「ユキ…」
名前を呼ばれ、小金井先輩は僅かに頷いた。
持っていた荷物を自分のベッドの上に投げると、身体を起こして立ち上がった真藤先輩の前に立った。
「病院へ寄って来た。やっぱり、会えなかったよ」
「そうか…」
「明日、退院して、真っ直ぐに叔父さんの家へ行くそうだ。実家には戻らないらしい」
「うん…」
真藤先輩が頷くと、小金井先輩は疲れたように真藤先輩のベッドへ腰を下ろした。そして、深く溜め息をつくと両手で顔を擦った。
「なんでこんなことに…」
誰もが言っただろう言葉を、小金井先輩もまた口にした。
そんな先輩の隣に座り直し、真藤先輩がその肩に手を置いた。
「でも、生きてたんだ。それだけでも救いだよ」
「……ああ」
俺は何も言えず、ドアの前に立っていた。
すると、小金井先輩が顔を上げて、ぽつりと言った。
「俺も、学校を辞める」
「ユキ……」
ギュッと、肩に置かれた真藤先輩の手に力が入った。
「辞めてどうする?尚也を追いかけるつもりか?卒業まで、後半年だぞ。大学は?」
畳み掛けるように真藤先輩が訊いた。
小金井先輩は苦笑すると、肩に置かれた真藤先輩の手を握った。
「尚也を追い掛けるつもりは無いよ。そんな事をしても誰も喜ばないし、俺だって、そこまで馬鹿じゃない。……でも、ここに居るのは嫌なんだ。地元の高校に編入して、受験する。元々、このままエスカレーター式に大学に行く気は無かったし…」
「そうか…」
真藤先輩の手が、小金井先輩の肩から離れた。
「今日荷造りして、夏休み中には手続きしてもらう。9月には新しい学校へ行けるように…」
「そうか…」
ただ、同じ言葉を繰り返し、真藤先輩はそのまま黙ってしまった。
小金井先輩は立ち上がると、俺の前に来て両手で肩を掴んだ。
「千冬…、本当に色々ありがとう。それから……、悪かった」
「いいえ…、俺の方こそ……」
俺が首を振ると、先輩は笑みを浮かべた。
「千冬と付き合えて楽しかった。傍に居てくれて本当に嬉しかった。傷つけてばかりでごめんな?でも、千冬のことは忘れない。絶対に、忘れないから……」
また、力強く先輩は俺を抱きしめた。
きっと、これきりで会えないのだと分かった。
そう思うと自然と涙が出て、俺は何度も頷きながら先輩の胸で泣いた。
きっとまた泣いてしまうと思ったので、俺は小金井先輩の見送りには行かなかった。
小金井先輩は夜中に着くのを覚悟で、夜の列車に乗った。当然、行ったのだろうと思った真藤先輩も、寮の入り口で見送っただけで駅までは行かなかったらしい。
消灯に近い頃、俺は眠れなくて真藤先輩の部屋を訪ねた。
誰かに見咎められて、何か言われるのではと少しびくついていたが、先輩の部屋に着くまで運良く誰にも会わなかった。
ドアをノックすると、先輩は俺を見て少し驚いた様子だったが、眠れないのだと言うとすぐに部屋に入れてくれた。
「紅茶がいいか?それとも、コーヒー?」
「あ…、じゃあ、紅茶で……」
小金井先輩の荷物がすっかりダンボールの中に入ってしまい、部屋の中は随分殺風景だった。
飾ってあった写真もみんな、壁から外されていた。
それを寂しい気持ちで眺めていると、紅茶を淹れてくれた先輩が俺の肩を叩いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
礼を言ってカップを受け取り、俺は促されて真藤先輩のベッドに腰を下ろした。
「行っちまったな…」
やはりマグカップを持って俺の隣に座り、目の前に詰まれた段ボール箱を見ながら先輩は言った。
「はい…」
「たった、2年半の関わりだった…」
そう言った先輩の横顔を俺は黙って見つめた。
悲しそうでもなく、それは淡々とした声で、そして、先輩の表情にも悲しみは伺えなかった。
「ある意味、俺たちの付き合いは深かったかも知れないけど、でも俺は、結局、ユキの心には1度も触れさせてはもらえなかったのかも知れない」
先輩が悲しんでいない訳ではないと、俺には分かった。
淡々と語っていても、その心の中には深い悲しみと、そして寂しさがあるのだろう。
小金井先輩への恋愛感情を最後まで否定し続けていたが、本当のところは、今でも俺には謎のままだった。
「また、煩くなるな?」
笑いながらそう言い、真藤先輩は俺を見た。
「え?」
「千冬の周りさ。ユキが転校したって知ったら、きっとまた俺と付き合えって連中が群がってくるぜ」
「そんな…、俺は……」
小金井先輩が行ってしまったばかりで、そんな気持ちにはなれない。そう言おうとした俺に真藤先輩は言った。
「俺と付き合えよ。それが一番いい。……そうだろ?」
「拓馬さん……」
何と答えていいのか分からず俺が黙ると、先輩は俺の手からカップを取り、自分のと一緒に机の上に置いた。
そして、空いた両手で俺の頬を包んだ。
「それとも、頑張ってみるか?戸田にちゃんと気持ちを伝える?」
すぐに首を振った。
そんなこと、出来る訳がない。
もうすでに、俺は慶に拒絶されてしまったのだから。
「無理です、そんなの……」
歪みそうになった俺の唇に、先輩がキスを落とした。
黙って見上げると、先輩の口元に優しい笑みが浮かんだ。
「もう少し待っててみろよ。きっと戸田も気付く…。千冬のことが好きなんだってことに……」
どうしてこんなに優しいのだろうか。
いつでも、俺の気持ちを慰めてくれる。
どうしてこんなに、優しくしてくれるのだろう。
こんなに駄目な俺のことを……。
何も言えずに、ただ俺が首を振ると、先輩はまた笑みを浮かべて言った。
「大丈夫だ。きっと、気付くから…。だから、それまでは俺の傍に居ればいい。俺のこと好きだろ?」
「はい…」
頷くと、また唇が落ちてきた。
今度は一瞬ではなく、柔らかく重なったそれにゆっくりと愛撫され、俺は唇を開いて先輩の舌を受け入れた。
先輩の傍に居れば安心出来る。
こうしてキスされるのも嫌じゃない。
そして何より、今の俺には先輩の優しい腕が必要だった。
(拓馬さんも…?)
そして何故か、先輩にとっても、今は俺が必要なのだと思えた。
両腕を首に回し、俺は更に先輩と深いキスをした。