涙の後で
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夏が終わり秋になって、俺は秋休みに母との約束通り実家へ帰った。
慶も、珍しく真藤先輩まで家に帰ることにしたのだが、修了式が終わった後は生徒が一斉に帰省する為にバスも電車も猛烈に混雑する。バスの方はバス会社が生徒の帰省に合わせて臨時に台数を増やしてくれるのだが、それでも鮨詰め状態だった。
俺と先輩は混雑を避けて遅い時間の電車に乗ることにしたのだが、家が遠い慶は、混んでも仕方ないと言って早めに寮を出た。
坂上は新人戦を控えているので秋休みも部活があった。一緒に帰れなくて残念そうだったが、昇降口の所で、一旦寮に帰る俺を見送ってくれた。
寮に帰って着替えると、今度は寮を出る慶を俺が見送り、自分は荷物を持って真藤先輩の部屋へ行った。
俺たちは隣町まで一緒の電車で行き、そこから分かれることにしたのだ。
「戸田は行ったか?」
「はい」
「あの、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗る勇気は俺には無いな」
笑いながらそう言うと、真藤先輩は買って置いてくれたらしいペットボトルのジュースを1本くれた。
「昨日、ユキから電話があった」
ベッドに座ってペットボトルの中身を一口飲むと、先輩は突然そう言った。
「え…?」
キャップを捻った途中で俺の手は止まった。
「ユキ先輩から?元気でしたか?」
俺が訊くと、先輩は笑みを浮かべて頷いた。
「ああ。新しい学校にも慣れたって言ってた。尚也のことも、思い詰めてるんじゃないかって心配してたけど、そんなことは無いって。でも、千冬のことは心配してたよ」
「そうですか…」
俺が頷くと、先輩はそっと手を伸ばして俺の髪を撫でた。
「俺が傍にいるから大丈夫だって言っておいた。笑ってたよ。余計心配だってさ」
その言葉に、笑いながら俺も先輩を見た。
すると、先輩は笑みを消して言った。
「こっちに帰って来る前に会うことにした。俺は、まだちゃんとユキと話せてなかったからな。尚也のことも、全部は話してない。だから、会うことにした」
「そうですか…」
俺が頷くと、先輩はまた髪を撫でた。
「千冬も来るか?」
思わず頷きそうになって、俺は思い留まると首を振った。
「い、いいえ。会いたいけど、今は止めます。ユキ先輩の顔見たら、きっと俺、また泣くかも知れない。そしたらまた、心配掛けるから…」
俺の答えを聞いて、先輩は静かに頷いた。
「そうか…。そうだな…。きっといつか、みんなで笑って会えるようになるよ。な?きっとそうなる」
「…はい」
本当にそうなるといいと思った。
小金井先輩も、そして友井先輩も、みんなで笑って会えるようになったらいい。 笑って思い出話が出来るようになったらいいと思った。
小金井先輩に、何か伝えて欲しいような気もしたが、結局俺は何も思いつけなかった。
いつの日か、俺たちはみんな其々の道へ進んでいく。
そうして、別れていく。
真藤先輩との別れは、思っているよりもずっと近くにある。
そう思うと、酷く辛くて急に泣き出しそうになった。
いや、辛いだけではなく、不安だった。
余りにも優しくされ過ぎて、そして、守られ過ぎて、先輩の居なくなった後、ひとりで残されることが怖かったのだ。
先輩がいてくれたお陰で、俺は慶と同じ部屋で過ごす息苦しさも、慶を諦めきれない切なさも耐えることが出来た。先輩の腕にみんな吸い取ってもらっていたのだ。
先輩が傍に居てくれなければ、きっと今の何倍も泣いて過ごしていたに違いなかった。
真藤先輩は付属の大学へ進む予定で、校内試験も済んで学部も決まったと言っていたし、冬休みには家に帰って、そのまま卒業式まで戻って来ない。だから、一緒に過ごせるのはもう二月ぐらいしかなかった。
大学はここから数時間離れた所にある。日帰りで行けない場所ではないが、それでも今までのようには会えなくなるのだ。
そう思ったら、本当に怖くなった。
そして、今までどれほど、自分が先輩を頼っていたのか改めて思い知ったのだ。
「拓馬さん、俺……俺……ッ」
迫り来る別れの時が、足音を立ててやってくるような気がした。
恐怖で、自然と身体が先輩を求めてしがみ付いた。
「どうした?千冬…」
しっかりと抱きしめてくれる優しくて温かい腕は、もうすぐ遠くへ行ってしまう。その恐怖が更に俺を先輩にしがみ付かせた。
「千冬…?」
俺の恐怖を、多分先輩は感じ取ってくれたのだろう。
黙って、何度も優しく俺の髪やこめかみにキスをしてくれた。
「大丈夫だよ、千冬。言ったろ?俺はいつだって千冬の味方だから…。何かあったら、絶対に会いに来るよ。な?」
やっと落ち着き、俺はコクコクと頷くと、先輩の目を見上げた。
「拓馬さん、俺のこと、ちゃんと抱いて…」
俺の言葉に、先輩の目が一瞬見開かれた。
「千冬…」
もっと深く繋がりたいと思った。そしたら、不安が何処かへ行ってしまうのではないかと思ったのだ。
「ちゃんと、最後まで……」
フッと先輩の表情が緩み、時折見せるゾクッとするようなセクシーな視線が俺を見下ろした。
ゆっくりと唇が落ち、俺の唇を覆う。
俺は目を閉じると、全てを先輩の腕に委ねた。
真藤先輩たち3年生と過ごせる最後の学期、その数か月を俺は出来るだけ多く先輩と過ごしたくて、放課後は大抵先輩の部屋に行った。
離れたくないと思っていたせいか、いつもの何倍も速く時が経つような気がした。
そして、冬休みになっても、俺はすぐには家に帰らなかった。
数日を真藤先輩と過ごし、それから一緒に学校を出た。
あの時、結局先輩は俺を抱かなかった。
きっと、俺たちの関係が変わってしまうのが嫌だったのだろう。そして、それは俺にとっても良くないと考えてくれたのだろう。
先輩の心が何処にあるのか、相変わらず俺には分からなかったが、先輩が俺のことを大事にしてくれることに変わりは無かった。
秋休みに小金井先輩と会った時のことを、先輩は何も話してくれなかった。だから、二人の間に、どんなやり取りがあったのか俺は知らない。
もしかすると、いつかは全部分かる時が来るのかも知れないと思った。
でも、先輩が何も言わない今は、きっと訊くべきではないのだと思う。
電車に乗り、並んで座ると、先輩はそっと俺の手を掴んだ。
「千冬、戸田に言わないのか…?」
俺と慶の関係は、何も変わってはいなかった。
真藤先輩との付き合いについても、あの後は何も言われていない。俺が先輩の傍に居るのを、当然だと思って見ているようだった。
「俺はもう、何も言うつもりは無いです。少しずつかも知れないけど、ホントに僅かずつかも知れないけど、諦められるように頑張るつもりです」
俺が答えると、先輩は黙って暫く俺の顔を見ていた。
「……分かった。俺はもう、何も言わない。千冬が決めたなら、そうしたらいいよ」
「はい…」
俺が頷くと、先輩はギュッと俺の手を握った。
「俺が居なくなった後のことは坂上に頼んだから」
「えっ?」
驚いて俺が顔を見ると、先輩は笑みを浮かべた。
「千冬のこと頼むって言ったら、すげえ勢いで頷いたぞ、あいつ」
「そ、そんな、真也は……」
俺がうろたえると、先輩は繋いでいた手を離して、ポンポンと俺の手の甲を叩いた。
「付き合えとは言ってない。でも、あいつなら大事にしてくれるよ」
「でも俺…」
坂上とは嘘の付き合いをしたくないと思った。彼の気持ちに甘えたくないと思った。
こんな中途半端な俺が、坂上の傍にいていい訳がない。
「千冬は心苦しいと思うんだろうが、でもな、それでも坂上がいいって思うなら、俺は甘えていいと思う。辛いなら、あいつだってきっと“うん”とは言わなかったよ」
「拓馬さん…」
「ひとりで居るよりずっといい。辛いことも、少しは楽になるから…」
それはまるで、自分のことを言っているようにも聞こえた。
だとしたら、傍にいる間、俺も少しぐらいは先輩の気持ちを楽に出来たのだろうか。
そうだったら嬉しいと思った。
与えてもらえた分を、ほんの僅かでも返せていたのなら救われる。
そっと指を伸ばし、俺はまた先輩の手に絡ませた。
溢れるほど沢山の優しさを与えてくれた手を、俺は最後に強く握り締めた。