涙の後で


-6-

少し重い気分で部屋に戻ると、もう慶は戻って来ていた。
俺が入って行ってもパソコン画面に向かったまま振り向こうとはしなかった。
見ると、耳にはイヤフォンがつけられていた。
邪魔しないように声を掛けず、俺は自分のベッドに座った。
自分には関係ないと考えようとしても、やはり、慶がさっき日下部に何を言われていたのか気になって仕方なかった。
だが、幾ら気になっても慶の方で何も言わない限り俺の方から訊く訳には行かない。俺は枕元にあった本を手に取ると、ベッドの上に横になってそれを開いた。
暫く本を読んでいると、慶が立ち上がった気配がして俺は顔をそちらへ向けた。
「コーヒー淹れるけど、飲むか?」
声を掛けられて俺は頷いた。
「うん、ありがと」
そう言って、俺はベッドの上に起き上がった。
慶は二人分のコーヒーを淹れるとカップを持って近付いて来た。そして、俺にひとつを渡すと、そのままベッドに腰を下ろした。
「ありがと。…どうかした?」
何だか不機嫌そうな表情に見え、俺は慶に訊いた。
「いや…。町へ降りたんだろ?楽しかったか?」
反対に訊かれ、俺は頷いた。
「うん。久し振りに映画観たよ」
「そっか…」
やはり日下部に会ったことで慶の気分は落ち込んでいるように見えた。その様子を見ると、何を言われたのか益々気になってしまった。
「あの…、慶?さっき、日下部に何か言われてたみたいだけど…」
躊躇ったが、俺は訊いてみた。すると、慶はコーヒーに口を付けながら、少し難しい表情で頷いた。
「ああ…」
「まだ、慶と付き合いたいって言ってるの?」
俺の言葉に慶は僅かに肩を竦めた。
「いや、そうは言ってこなかった。けど、多分まだ期待してる部分があるのかもな。俺は無理だって断ったんだけど」
「そうなんだ。でも、分かるよ。そんなに簡単に諦められるもんじゃないから…」
俺が言うと、慶は難しい顔のままで俺を見た。
「そうなのか?……うん、そりゃそうだよな。駄目って分かってすぐに切り替えられるなら誰も辛い思いなんかしないよな。俺にはそういう感情が、まだ良く理解出来ない。本当の恋をしたこと無いからだろうな…」
その言葉を聞いて俺は思った。
慶もいつかは恋をするだろう。
その相手は、一体どんな人なのだろうか。
そして、その未来の相手は俺の知らない人なのだろうか。
出来ることなら、知らないままでいたいと思った。
俺の知らないところで、知らない人と恋をして欲しい。
知ったらきっと、死んでしまいたくなるだろう。
「慶の好きなタイプってどんな人?訊いた事なかったけど」
ふとそう質問してみると、慶はコーヒーを飲みながら僅かに首を傾げた。
「どうだろ?あんまり考えたことないんだよな。けど、多分煩い子は好きじゃないな」
最後は苦笑しながらそう答えた。
俺も笑うと、持っていたカップを口に運んだ。慶の頭の中には楠田の顔でも浮かんでいたのだろうか。
「けど、恋のひとつもしないから碌な小説が書けないのかもな」
自分のパソコンの方を見つめながら、慶はポツリと言った。
その目の中に苦悩が見えるようで、俺は何だか胸が詰まるような気がした。
「でも、幾ら恋しても文才が無きゃ書けないんだし、どっちが必要かって言ったら恋じゃないと思うけど」
笑いながら俺が言うと、慶もクスッと笑った。そして、頷くとまたカップを口に運んだ。



偶然なのか、待ち伏せだったのか分からないが、次の日の放課後、俺が部室へ向かおうとすると部室の前辺りに日下部が立っているのが見えた。
鞄の他に図書館の本らしい数冊を抱え、少し厳しい顔つきをして俺の行く手でこちらを見ていたが、俺と視線が合うと表情を緩めて軽く頭を下げた。
「こんちは…」
俺も軽く顎を引きながらそう言い、傍を通り抜けようとした。
すると、日下部はサッと俺の手を掴んだ。
「なにか?」
俺が訊くと、日下部の顔がまた強張った。
「少し、いいですか?」
「え?」
「少し、先輩に話したいことがあるんです」
「いいけど……」
俺が恐々頷くと、日下部はくるっと踵を返して歩き出した。
どうやら、やはり待ち伏せだったらしい。俺は仕方なくその後を付いて行った。
すると、日下部は外に出て校舎の影へ俺を誘った。
どんな話があるのか大体の予想はついた。それはきっと、慶のことだろう。
「話したいことって何?」
日下部が振り向いてこちらを見たので俺は先に訊いた。何の話にしろ、こんなところで長々と二人きりでいるのは嫌だったのだ。
きゅっと唇を引き結んでこちらを見ていた日下部だったが、すぐに口を開くと俺の目を真っ直ぐに見たままで話し始めた。
「高梁先輩、見苦しい真似をするのは、もう止めてもらえませんか?」
「……どういう意味だ?」
いきなり責めるようなことを言われ、さすがの俺も腹が立った。低い声で聞き返すと、日下部は冷かかな表情で俺を見た。
「本当は戸田先輩のことが好きなんでしょう?隠したって駄目ですよ。見てればそれぐらい分かる」
いきなり言われて、俺はすぐには言葉を返せなかった。
まさか、俺の胸の内を言い当てられるなんて思ってもいなかったのだ。
すると、口篭った俺を馬鹿にするように、日下部は言葉を続けた。
「だったら、姑息なことしないで堂々と告白すればいい。振られるのが怖いんでしょうけど、親友のような顔してべったり傍に張り付いてるのを見ると吐き気がする。おまけに好きでもない相手と偽装で付き合ったりして、見っとも無いと思わないんですか?」
何故、そこまで言われなければならないのだろうと思ったが、反論する言葉が見つからず、俺はただ頬を高潮させた日下部を見ているしかなかった。
彼の言葉は、俺が自分自身で思っていることと同じだ。
誰よりも、俺は自分を見っとも無いと思っている。だから、何も言い返せなかったのだ。
「友達だと思ってる戸田先輩の気持ちに付け込んでいれば、そうやって傍にいられる。誰よりも大事にされてる位置が心地良くて止められないんでしょうけど、そんなの戸田先輩に対して失礼だ」
腹立たし気にそう言われても、俺は口を開かなかった。
今ここで、日下部に言い訳したところで分かってもらえるとも思えなかったし、自分の気持ちをどう伝えればいいのかも分からなかったのだ。
すると、後ろから突然声がして、俺は驚いて振り返った。
「おいこらッ」
少々甲高いその声の主は、驚いたことに楠田だった。
見ると腰に両手を当てて仁王立ちになった楠田が凶悪な顔つきで日下部を睨んでいた。
「なんだそれ?戸田君に振られた腹癒せか?だったら相手が違うだろ?」
つかつかと歩み寄ると指を突きつけ、日下部に反論も許さず楠田は捲くし立てた。
「高梁がどういう恋愛をしようと、おまえに何か言う権利なんかないんだよ。片想いのまま諦めるのも、当たって砕けて散るのも、そんなの自由だろうが。大体、おまえが振られたのは高梁の所為じゃないだろ?おまえが振られたのは、おまえに魅力が無いからなんだよ。それを、人の所為にしてこんなところに呼び出して文句たれるなんて、おまえの方がよっぽど見っとも無いねッ」
一気にそう言って、楠田は俺に近づくとサッと俺の手を掴んだ。
「おまえもおまえだよっ。馬鹿みたいにこんなヤツの言うことなんか聞いてることないだろ?ほら、行くぞッ」
腹立たしげにそう言うと、楠田は日下部のことなどお構いなく俺の手を引っ張ってサッサと歩き出した。
怒りで真っ赤に染まった日下部の頬が、最後に俺の目の端に映った。もしかしたら泣いているのかも知れないと思ったが、振り向いて見る勇気は無かった。
一方、俺の手を掴んだままの楠田も一向に怒りが収まらない様子で、鬼でも憑いたような勢いで歩いている。俺は脚が縺れそうになるのを何度も堪えた。
「楠田っ、楠田ったら、待ってよッ」
「煩い。おまえの所為で喉が渇いた。テラスでなんか奢れッ」
「う、うん。分かったから、もっとゆっくり歩いてよ。それに、みんなが見てるって…」
楠田と俺が手を繋いで歩いている姿はきっと目立つのだろう。気がつくと、立ち止まって俺たちを見ている生徒が沢山居た。
俺の言葉にやっと楠田も周りを見たらしく、ハッとして立ち止まり俺の手を乱暴に振り払った。
「うわぁ…ヤバイ。変な噂になったらどうしてくれるんだよ?」
まるで俺の所為だと言われているみたいだったが、助けてもらった手前、俺はただ苦笑しただけで反論はしなかった。
「行こう。俺も喉カラカラ……」
そう言って俺が歩き出すと、楠田も渋い顔のままで付いて来た。
「ありがと、楠田。でも、なんで俺たちがあそこに居るのが分かったんだ?」
「部室に居たんだよ。丁度、出ようと思った時に日下部の声がしたからさ、ちょっと様子を見てたんだ。そしたら、なんかヤバイ雰囲気だったからさ」
肩を竦めてそう答えた楠田に、俺は訊いた。
「心配してくれたんだ?」
すると、楠田はさも嫌そうに顔を顰めた。
「俺が?高梁を?まさか…。ただの好奇心に決まってんだろ?」
憎まれ口でそう言ったが、俺は楠田に感謝していた。多分、彼が来てくれなかったら、俺は日下部に一言も言い返せないまま、今でもあの場所に立っていただろう。
「まあいいや。兎に角、助かったよ。ありがとう」
もう1度礼を言うと、楠田はまた肩を竦めた。
「おまえってホントに馬鹿。お人好しも大概にしろよな。…ま、俺は小憎らしい日下部に文句言えてすっきりしたから、良かったけどさ」
ニヤリと笑った楠田に俺も釣られて笑ったが、彼に俺の本心を知られたのかと思うと少し怖かった。
「あの、楠田…、さっき日下部が言ったことだけど…」
いい訳を探しながら俺が切り出すと、楠田はチラッと俺の顔を見た。
「戸田君のこと?別に俺はなんとも思わないよ。高梁が本当は誰を好きかなんて関係ないもん。大体、脈も無い相手に告るなんて無駄なことだろ?……しかも、あの戸田君じゃね。日下部くらいの自信過剰人間じゃなきゃ、告れないって、普通は」
最後は苦笑しながら楠田は言った。
彼も最初は慶を狙ってた筈だったが、早々に諦めたのも確かだった。合理的とも言える楠田のような考え方が出来たら、きっと俺ももっと楽になれるのだろう。
「俺、アイスティーとプリンね」
さっさとテラスの空いている傘の下に座ると、楠田はにんまりと笑ってそう言った。
俺は苦笑すると、楠田を日陰に残して食堂の中へ入って行った。
楠田に苦汁を飲まされて、日下部はどうするだろうか。
もうこれで、俺に構うのは止めてくれるだろうか。
それとも、嘗て楠田がそうしたように、俺に嫌がらせをしたりするのだろうか。
もしそうなっても、俺は別に構わないと思った。
慶さえ日下部に興味を持たなければ、それでいいのだ。
俺にとって一番怖いのは、自分が傷つけられることなんかじゃない。慶の心が誰かに向いてしまうことだけだった。