涙の後で
-7-
あれからぱったりと、俺は日下部の姿を見かけなくなった。
もしかすると、また何か言ってくるのではないかと警戒していたのだが、日下部にその気はないようだった。
勿論、俺は日下部に呼び出されたことを慶には言わなかった。楠田にも口止めしたのだが、彼も約束を守ってくれたらしく慶は何も知らないようだった。
だがその夜、俺が談話室から戻ると、中から人の話し声が聞こえて、俺はノブに掛けた手を引っ込めた。
立ち聞きするつもりは無かったが、慶が“日下部”と呼ぶのが聞こえ、俺はハッとして思わず耳を近づけた。
「もう、止せよっ。何度言ったら分かるんだ?千冬はそんなんじゃない。俺にとって、千冬は大事な友達なんだ。そういう邪な考えで千冬を汚さないでくれ」
腹立たしげな慶の言葉だった。
俺を庇ってくれているのだから、本当は喜ぶべき処だったろう。だが、今は二人が俺について何を言っていたのか気になってそれ処ではなかった。
慶の言葉に対して、訴えるような日下部の声がして、俺は耳を澄ませた。
「戸田先輩は分かってないんですッ。高梁先輩は、戸田先輩が思ってるような人じゃない。あの人はッ…」
「いい加減にしろよ。それ以上言うなら、俺はおまえのことを軽蔑するぞ。それに、俺がおまえと付き合えないことと千冬は何の関係も無いだろ?」
やはり思った通り、慶の言葉から察すると、日下部は以前にも俺のことで何か言ったらしかった。
まさか、俺の本心を慶に漏らしてしまったのだろうか。
そう思うと、急に怖くなった。
俺がその場から逃げ出そうとした時、いきなりドアが開いて日下部が飛び出してきた。
「あッ…」
咄嗟のことで避け切れず、俺は日下部にぶつかってよろけた。
日下部の方でも驚いた表情を見せたが、ぶつかった相手が俺だと気付くと、すぐに憎悪を表した顔で俺を睨んだ。
「ご、ごめ…」
「立ち聞きですか?いい趣味ですね」
憎まれ口を利いたように感じられたが、言った後で日下部の顔が泣きそうに歪むのを見て俺はハッとした。
気が強いとは言っても、好きな人に軽蔑するなんて言われたら耐えられないだろう。俺だったらきっと、泣いていたに違いない。
俺が何か言おうとして言葉を探していると、日下部はサッと踵を返して去って行ってしまった。
「千冬…」
呼ばれてそちらを見ると、慶は心配そうな表情で立っていた。
「ごめん。聞くつもりじゃなかったんだけど…」
俺が謝りながら部屋に入って行くと、慶は首を振ってドアを閉めた。
「いや、却って嫌な気分にさせたんじゃないか?ごめんな?」
謝られたことで、さっきの恐怖が俺の中に蘇った。
やはり、慶は俺の本心を知ったのだろうか。
「な、なんで、慶が謝るの?」
「いや…。なんか、日下部が誤解してるらしくて…」
言い辛そうに慶が言うのに、俺はドキドキと鼓動を早めながら彼を見た。
「何を?もしかして、前にも何か俺のことを言われたんじゃないの?」
「いや……」
否定しようとした慶に、俺は一歩詰め寄った。
「言って?隠すなよ。なにを言われたんだか、ちゃんと知りたい。俺は大丈夫だから言って?」
俺の言葉に、慶は仕方無さそうに口を開いた。
「俺が日下部の告白を受け入れなかったのは千冬が居るからじゃないかって言うんだ。千冬が……、その……俺の性欲を慰めてるんじゃないのかって」
「え……?」
慶の言葉に俺は耳を疑った。
まさか、日下部の話がそんなことだったなんて、本当に夢にも思わなかった。この前の彼の言葉から、俺が慶を好きなことをばらしたのではないかと、そればかりを心配していたのだ。
「あいつは、千冬の変な噂ばっかり本気にして誤解してるんだよ」
「噂……?」
聞き返すと慶は渋い表情のままで頷いた。
「ああ。何人も彼氏を替えてるから、よっぽど男が好きなんだろうって。そういうことも簡単にさせるんじゃないかって。……そういう噂を何度も聞いたって言うんだ。俺が否定しても信じないし、庇うと却ってむきになって俺が騙されてるんだって言い張るし……」
最後は呆れたように慶は言った。
噂のことを聞いたのは初めてではなかったが、やはりこうやって耳にすると悔しい気持ちがするのは確かだった。
「そういう噂があるのは楠田からも聞いた。気をつけた方がいいって言われたんだけど、本当にそんなに言われてるんだ……」
ショックを隠せずに俺が項垂れると、慶は励ますように俺の肩を掴んで顔を覗き込んだ。
「そんなの一部のヤツ等だって。気にするなよ。千冬と付き合っている友達はみんな、違うって分かってるから」
だが、慶の言葉に俺は首を振った。
「でも、全部が嘘って訳じゃないから、言われても仕方ないのかもな…」
「なに言ってるんだ?そんなこと無いよ」
慰めようとしてくれる慶に俺はもう1度首を振ると、思わず口を歪めた。
「だって俺、本当に付き合った人たち皆とキス以上のことしてるし。だから、尻軽だって思われても仕方ないんだ」
坂上とはキスしかしていなかったが、俺は敢えてそう言った。
こんな噂をされる自分を蔑みたくなったのだ。
「止せよ、そんなこと言うな」
少々腹を立てた様子で、慶は言った。
「だって、嘘じゃない…」
「止めろってッ」
聞きたくないと言わんばかりに、慶は俺の言葉を遮った。
「なんで、そんなに怒るんだよ?……別に俺が誰とエッチしたって慶には関係ないだろ」
本当は、期待を込めてそう言った。
ずるい俺は、慶が嫉妬してくれたらいいと思っていたからだ。
そして、そう思わせてくれる言葉を欲しがっていたからだ。
「確かに俺には関係ない。それに、聞きたくもない。嫌な噂が立って自棄になる気持ちは分かるけど、だからって俺にまで自分を噂通りの人間だなんて思わせる必要は無い。俺はちゃんと分かってるって言ってるだろ?」
俺が望んでいたような言葉も、態度も、慶は示してくれなかった。
腹を立てているのは、嫉妬からじゃない。汚いことを嫌う気持ちからなのだと分かった。
「ごめん。でも、慶の方が誤解してるんだ。俺は慶が思ってるほど綺麗な人間でも、純粋でもないよ。……それに、俺には慶の方こそ不思議だ。同室の俺でさえ、慶がどうやって性処理してるのか全然分からない」
「え…?」
カッと慶の頬が染まるのが分かった。
もしかすると、大人びて見えるだけで慶は案外初心なのかも知れない。
「そりゃ、俺だってちゃんと抜いてるよ。性欲が無い訳じゃないさ」
怒ったように慶は言った。
「一人になれる所なんて決まってるだろ?やる場所なんて、皆同じだ」
勿論、それは俺にだって分かっている。この寮じゃ、人目を憚れるのは狭いユニットバスの中しかなかった。
まるでそんな素振りを見せたことも無かったが、やはり慶も同じ16歳の男なのだ。
だが、一体彼はどんなことを思いながら性処理をしているのだろうか。その時、頭の中に思い浮かべるのは一体誰なのだろう。
知りたくて堪らなかったが、俺は話題を変えて言った。
「日下部はさ、必死なんだよ。それだけ慶のことが好きなんだ。俺なんかよりずっと真っ直ぐだよ」
皮肉でも、偽りでもない。俺は本当にそう思っていた。
日下部に言われた通り、俺は姑息で見苦しい男なのだ。
慶の傍に居たいが為に、いつも自分を偽っている。友達でもいいと、心を誤魔化し続けている。
ぶつかることが怖くて、拒絶されることが怖くて、いつも怯えている。
そんな自分が、大嫌いだった。
「また、そんなこと言う…」
溜め息混じりにそう言いながら、慶は俺に近付いてきた。
「千冬を知っている人間は、みんな誰でも千冬の優しさも素直さも分かってる。みんなが、あの楠田まで味方してくれるのは、千冬がいいヤツだからだ」
耳を塞ぎたくなるような言葉だった。
俺は激しく首を振って、思わず慶のシャツを掴んだ。
「俺、本当に噂通りだよ?……慶のことも慰めてあげてもいい。俺で良かったら、いつだって……」
これで壊れてしまえばいいと思って俺は言った。
思い切り軽蔑されて、切られてしまえばいい。
そうしたら、今度こそきっと、愚かな俺でも慶を諦められるだろう。
「馬鹿言うなッ」
怖い顔になってそう言った慶に薄く笑って見せると俺は続けた。
「本気だよ?他人にしてもらうのって、自分でするよりずっと気持ちいいって知ってるだろ?手が嫌なら、口でもいいよ。それとも、挿れたい?初めてじゃないし、俺なら大丈……」
パシン、と頬を打たれて俺は黙った。
「いい加減にしろ。中傷されて腹が立つのは分かる。けど、逆ギレするなよ」
そう言い残すと、慶は部屋を出て行った。
閉じたドアを見ることも出来ず、俺は打たれたままの姿勢で床を見つめていた。
「……終わりかなぁ…?」
これで、日下部の言っていた“親友の位置”も、俺は失っただろう。
ハーッと大きく溜め息をつくと、俺は打たれた頬に手を当てた。
ジンジンと熱い。
この痛みを、俺はずっと覚えておくのだと思った。