涙の後で


-8-

点呼の時間ギリギリになって慶は部屋に戻って来たが、勿論、一言も口を利かなかった。
点呼を終えると、黙ったままシャワーを浴びて歯を磨き、ヘッドフォンで音楽を聴きながらベッドに入ってしまった。
部屋の電気は点けたままだったが、俺に背を向けて、その背中が俺を拒絶しているのが良く分かった。
翌朝、俺が支度をして朝食を取る為に部屋を出ようとしても慶は起きなかった。
最近は、目覚ましと携帯のアラームの両方をセットしてるので大体は自分で起きてくるのだが、昨夜はセットするのを忘れたのか、どちらも鳴らなかった。
慶が寝坊した時は何時も起こしてやるのだが、今朝はそれも躊躇われて、俺は暫くの間、慶のベッドの脇に佇んでいた。
だが、意を決して手を上げると慶の肩を掴んだ。
「慶、朝だぞ。俺、もう行くからな?」
わざと乱暴に揺すってそう言うと、慶はハッとしたように目を開いた。
「あ、悪い……」
そう言ったのに素っ気無く頷き、俺は部屋を出た。
いつもなら、慶の支度が終わるまで待って一緒に食堂へ行くのだが、今日からはもう待っていても仕方がない。慶だって迷惑だろう。
食堂に行くと、珍しく楠田が俺より先に来ていて、しかもその向かい側には有川が座っていた。
俺がトレイを持って近付くと、楠田は邪魔だと言わんばかりの顔で“しっ、しっ”と手を振った。
有川は苦笑しながらそれを見ていたが、隣の椅子を引いて俺に座るように言ってくれた。
「おはよう」
トレイを置きながら言うと、有川だけではなく楠田も仕方なく返事をしてくれた。
「夏休み、先輩も夏期講習に出るんですか?」
有川に聞かれて俺は首を傾げた。
「どうするかな…。まだ決めてない。今年は早目に実家に帰りたい気もするし…」
俺が答えると、楠田がヒュッと眉を持ち上げた。
「へえ?去年は殆ど寮に居たじゃん。なんで今年は帰るつもりになったんだ?戸田君と何かあったとか?」
ちょっと目を輝かせて、楠田は興味津々な様子で言った。
「別に…。去年は親を旅行に行かせたかったから寮に残っただけだよ。今年はそんな予定も無いし、成績さえ大丈夫なら夏期講習も出ないかも」
「ふぅん…」
どうやら楠田は納得していないようだったが、一応頷いた。
「俺もサッサと帰ろ。残ると身に危険が降りかかりそうだし」
「どういう意味?」
俺が眉を顰めると、楠田はにやりと笑った。
「貞操の危機」
その言葉にギョッとして、俺は思わず有川の顔を見た。
すると、有川は苦笑いを浮かべていた。
「楠田先輩って案外貞操観念がしっかりしてるんですね?」
「案外ってなんだよ?俺はこう見えて、凄く初心なんだからなぁー」
ぷっと膨れて見せて、楠田は拳を作ると有川の目の前に翳した。
すると、有川はクスクス笑いながらその拳を軽く払った。
「誰も信じませんよ。そんな話」
「ちぇッ…。見た目で損してるよなぁ、俺……」
言いながら楠田は恨めしそうに俺を見た。
「いいなぁ、高梁は。清純そうに見えるからさ。得だよなぁ」
「そんなこと無いよ。得なんかしてない」
吐き棄てるように俺が言うと、楠田も有川も驚いて俺を見た。
「やっぱり、なんかあった?」
眉を寄せて楠田が訊いたが、俺は無理に笑って首を振った。
「ううん、別に……。ただ、みんな俺に勝手なイメージ持ってるけど、その所為で、却ってあんな噂なんかが出てくるんだろ?……清純そうに見えるけど尻軽だとか」
俺が言うと、楠田は肩を竦めた。
「まあ、そう言われりゃそうか…。みんな、結構えげつない事してるだろうに、イメージが違うってだけで同じことしても騒がれる。てか、ギャップを楽しんでるって感じもするもんな。確かに損してるのは高梁の方かもな」
気の毒そうに楠田が言うと、隣に居た有川が俺の腕を掴んだ。
「そんなことないですよ。あんな噂信じてるのは本当に一部の奴等だけだ。大部分は先輩がイメージ通りだって思ってます。だから憧れるんですよ」
「あ、ありがと……」
また優しくされて、俺は戸惑ってしまった。
そして、楠田がぷっと膨れるのが分かった。
「やっぱり、絶対得してるね。嫌だ嫌だ」
食事を終えて、俺たちが食堂から出るのと入れ違いに慶が現れた。今からだと、急いで食べないと間に合わないだろう。
二人は慶と挨拶を交わしたが、俺は何も言わなかった。
そして俺は、慶が食堂から戻る前に登校の支度を済ませて部屋を出てしまった。
どうせ、慶だって今朝は俺と一緒に歩きたくは無かっただろう。
外に出ると、丁度、写真部の後輩二人が通る所だったので、声を掛けて一緒に学校まで行った。
慶とはクラスが違うので、示し合わせていない限り帰りも会うことは無い。部活に出て、一応挨拶だけすると俺は寮に戻ってしまった。
毎日撮影している訳ではないし、今日は部室で皆と過ごす気にもなれなかったのだ。
帰ると、部屋に慶は居なかった。
いつもなら、授業が終わるとサッサと戻って来るのだが、今日は図書館へでも行ったのかも知れない。
それとも、俺を避けて何処かで他の友達と過ごしているのかも知れなかった。
汗臭い制服を脱いで、シャツをランドリーバスケットへ投げ入れると、俺はバスルームのドアを開けた。
寝る前にもシャワーを浴びるが、気温が上がってきたこの頃は、学校から帰ると汗を流すのが習慣になっていた。
裸になってバスタブの中に入り、コックを捻ってシャワーを出すと、俺は飛沫の下に入った。汗でベタベタした身体を流すと、随分気分が良くなった。
ボディタオルにボディソープを付けようとして手を伸ばした時、いきなりシャワーカーテンがサッと開いた。
吃驚して振り返った途端、パシャパシャッとフラッシュが光り、その眩しさに俺は思わず目を瞑った。

写真を撮られた……。

それに気付くまでに一瞬の間があった。
そして、気付いた途端、俺は自分の身体を隠すようにしてそこに蹲った。
(な、なに…?)
俺が驚いている隙に、写真を撮った連中は逃げて行った。
恐怖で足が竦んですぐに立ち上がることが出来ず、俺は狭いバスタブの中で身体を抱えるようにして座っていた。
顔は見えなかった。
ただ、一人ではなかった筈だ。
誰かがカーテンを開けて、カメラを構えていたもう一人が素早く撮影して逃げて行った。ネクタイの色がチラリとだけ見えたのだが、多分、3年生だったように思う。
相手が気をつけて忍び込んできたこともあったが、シャワーの音が物音を消す役目をしていたのだろう。カーテンを開けられるまで、俺は人の気配にまるで気付かなかった。
何とか気を取り直して立ち上がろうとした時、開け放されたドアの向こうに慶の姿が見えた。
「千冬?どうしたっ?」
俺の様子がおかしいことにすぐに気付いたらしく、慶は顔色を変えてバスルームの中に入って来た。
「しゃ、写真……」
「え…?」
出しっぱなしだったシャワーを止めると、慶はバスタオルを取って俺に渡してくれた。
「写真撮られた……」
まだ呆然とした口調で俺が言うと、慶は驚いて目を見張った。
「なんだって?ここに入って来て、撮って行ったのか?」
訊かれて、俺はうんうんと頷いた。
「なんてことするんだっ。幾らなんでもやり過ぎだッ」
憎憎しげにそう言い、慶は俺を助けようとして手を差し伸べた。
だが、俺はそれに首を振ると言った。
「いいよ、立てる。……服着るから、出てて」
「分かった。俺は今から中島先生の所へ行ってくる。もう、少しも放って置けないよ」
俺が頷いて、バスタオルで身体を隠しながら立ち上がると、慶は俺を覗き込むようにして言った。
「顔、見たか?」
「ううん。フラッシュ焚かれて目が眩んで……。ただ、逃げてく時にチラッとネクタイが見えたんだけど、3年生だったと思う。それから、一人じゃなかった。2、3人は居たと思う」
「分かった。着替えたら、誰かの部屋か談話室に行ってろよ。俺が戻るまで一人になるな」
「う、うん…」
俺が頷くと、慶はバスルームを出て行った。
俺は急いで身体を拭いて服を着ると、部屋を出て楠田の部屋へ行った。坂上はまだ、部活から戻っていない筈だったからだ。
「なに?どうしたの?」
何時もはふらふらと他の部屋や談話室に出かけている楠田が、珍しく部屋に居てドアを開けてくれた。
「シャワー浴びてたら、いきなり部屋に入ってきて写真撮られた…」
声を殺して、周りを気にしながら俺が言うと、楠田はギョッとしたように目を見開いた。
「なんだって?そりゃ酷いな……。それで、顔見たの?」
慶と同じことを訊かれて、俺はまた首を振った。
「フラッシュで、目が眩んで…」
「そうか。奴等も焦ったのかな…。調べられてるって分かってるだろうし、突き止められる前に一稼ぎしようと思ったのかもな。…それで?どうすんの?放って置いたら、今度は正真正銘のヌード写真がばら撒かれるぞ」
「慶が、中島先生のところに行ってくれた。俺には一人になるなって」
「そうか。そう言えば高梁、まだ髪がびしょびしょだぞ。仕方ない、俺のタオルを貸してやるから、入れよ」
「ありがと…」
楠田の部屋に入ってタオルを借りると、俺は机の前の椅子に座った。
部屋に入るのは初めてだったが、楠田の部屋は俺たちの部屋よりずっと物が溢れていた。
髪を拭きながら、俺は写真を撮られた時のことを思い出そうとしていた。
そして、どう考えても、全て写されたとしか思えなかった。それも、かなり近くから。
悔しくて、恥ずかしくて、どうしていいか分からなかった。
幾らなんでも酷すぎる。隠し撮りなら兎も角、こんな乱暴なことをするなんて信じられなかった。
「俺の裸なんか、別にどうってこと無いのに……」
思わず悔しげに俺が漏らすと、ベッドにポンと腰を下ろしながら楠田が言った。
「それでも見たいんだろ。気をつけないと、見るだけじゃ我慢出来ないって奴も出てくるぞ。これから暫くは、絶対に一人になるなよ」
警告するように楠田に言われ、俺は頷いた。
「なんでこんなこと……。俺なんかの何処がいいんだか、本当に分からないよ」
「そんなこと、俺にだって分からないね。断然、俺の方が可愛いのにさ」
楠田の憎まれ口で、俺は少し気を取り直すことが出来た。
それを狙って言ってくれたのか、それとも、本当にそう思っているから口にしたのか分からなかったが、俺は楠田に感謝することにした。
暫く楠田と話していると、慶が戻って来て携帯にメールをくれた。
楠田に礼を言って俺が部屋に戻ると、慶はドアの前に立って待っていてくれた。
「中島先生に話してきた。先生も、急いで犯人を捜してくれるって…」
「そう…、良かった」
俺が頷くと、慶は肩に手を置いて言った。
「ごめんな…?俺が早く部屋に帰ってくれば良かった。昨日のことで気まずくて、つい寄り道したりしたから……」
「ううん。どうせ狙われてたんだよ。慶の所為じゃないし、どうしようもなかったと思う」
そう言って何とか笑みを浮かべようとしたが、何かもっと嫌なことが起こるような予感がして、本当は酷く怖かったのだ。