涙の後で


ー第8部ー

運良く、誰にも気付かれなかった。
有川は俺を残してそっと出て行くと、隣の部室へ行ってこっそりボックスティッシュを持って戻って来た。
それで俺の身体を綺麗にしてくれると、服を着るのを手伝ってくれた。
「あ…、中から……っ」
さっき有川が中に出したものが溢れそうになって俺は慌てた。
「あ、済みません……ッ」
そう言うと、有川は急いでティッシュを数枚取り、俺の下着の中に手を入れると尻の間に挟んだ。
余りの恥ずかしさに、俺は彼のシャツをギュッと掴んで俯いた。
「済みません……」
また、有川はそう言った。
俺は黙って俯いているしかなかった。
彼を責める気にもなれなかったし、何を言ったらいいのかも分からなかったのだ。
「先輩…、もしかして、初めてだったの……?」
訊かれて俺は驚くと、有川の目を初めてちゃんと見た。
「ち、違うよ…」
罪悪感を持たせたくなくて否定したが、有川は信じていないようだった。
「でも、殆ど経験ありませんよね?やっぱり、噂なんか嘘なんだ……」
そう言うと、有川は俺を抱きしめた。
「済みません…。辛かったでしょう?……歩けますか?」
訊かれて首を振った。
身体が痛かったし、それに脚が萎えたようになってしまっていて、今でも、こうして掴まっていないと立っていられない。まだ暫くはひとりで歩けそうもなかった。
「寮まで負ぶって行きます」
そう言った有川に俺は首を振った。
「そんなことしたら、また変な噂になる。少し休めば歩けるから」
「でも…、ここに居る訳にはいかないでしょう?もう部室には誰も居なかったから、隣まで運びます。ソファもあるし…」
「でも…」
「大丈夫。掴まってください」
そう言うと、有川は俺を抱き上げようとした。
「い、いいよっ。肩貸してもらえれば歩けると思うから」
「分かりました。じゃあ…」
頷くと、有川は俺の背中に片腕を回して抱えるようにして歩き出した。
廊下の様子を伺うと、運良く誰も居なかったので、俺は有川に助けられながら何とか部室のソファまで行った。
そこに俺を寝かせると、有川はまた部屋を出て行った。
隣の部屋に、俺たちが居た痕跡を片付けに行ってくれたのだ。
使ったティッシュや、汚れたシーツを纏めて持ってくると、有川は部室のロッカーの中から紙袋を探し出しそれらを入れた。
それから、俺の所に戻って来るとそこに膝を突いて俺の顔を覗きこんだ。
「痛みますか……?」
心配そうに訊かれ、俺は首を振った。
勿論、まだ身体のそこここが痛かった。だが、それを有川に伝える必要はないと思ったのだ。
その代わりに、俺は言った。
「ごめんな……?」
有川の顔が一瞬歪んだ。
「なんで……、なんで謝るんです?悪いのは俺です」
有川の言葉に俺は首を振った。
「違う……。俺が油断して、あいつ等に捕まったからだ。みんなが心配してくれてたのに、ちゃんと用心しなかった。あんなところさえ見せなけりゃ、おまえだって……。ごめん……」
切なげな目をして首を振り、有川は俺の手を掴むと顔を近づけて来た。
「だ、駄目だ…ッ、有川……ッ」
避けようとしたが、結局俺はキスを受けた。
俺の唇を何度も吸うと、有川は言った。
「好きです。俺のものになってください……ッ」
搾り出すように言った有川の頬に俺は手を当てた。
「俺なんかの……、何処がいいの?」
「先輩……」
「こんなに汚くて、ずるくて、見っとも無い男だよ?何処がいいんだ?俺だったら、絶対に好きになんかなれない…ッ」
「そんなことない」
真剣な目でそう言ってくれる有川が俺には眩し過ぎた。
ズキズキ痛むのは身体の傷だけではない。一番痛いのは胸の奥の方だった。
「そうだよ。俺は自分の問題にちゃんと向き合えもしない。いつも逃げてる。そして、その所為でいつも誰かを傷つけてるんだ。俺からしたら、みんな優し過ぎるよ。みんな、みんな優し過ぎる……」
見ていられなくて、俺は両目を覆った。
その指の隙間から涙が伝い落ちるのが分かった。
「先輩…」
指に有川の唇を感じて、俺はハッとした。だが、動かなかった。
すると、有川は俺の身体を抱きしめてくれた。
「何でそんなに自分ばっかり悪く思うんです?今度のことだって責められるのは俺です。俺は先輩をレイプしたんだ。縛られた先輩を自由にもせずに……。それなのに、何で俺を責めないんですか?」
俺が首を振ると、有川は言った。
「先輩を汚いなんて思える訳が無い。ずるいなんて思わない。……好きです。もう、我慢して傍に居るのは嫌です。俺に下さい。全部…」
目の上から手を外し、俺は有川を見上げた。
「……いいよ。好きにしていい……」
「先輩…ッ」
ギュッと抱きしめられて、俺は彼の背中に腕を回した。
とうとう、身も心も坂上を裏切った。
こんな自分を庇護して愛してくれる坂上に、合わせる顔など無い。
事実を告げて、軽蔑されればいいのだと思った。
(あんなに優しくされたのに…、大切にしてもらったのに……。真也、ごめんね…真也……)



暫く休んで立てるようになると、俺は有川と一緒に部室を出た。
まだ十分じゃなかったが、まごまごしていて誰かが部室に帰って来たら困る。
二人きりで部室に居るところを見られるのは嫌だった。
「掴まってください」
そう有川は言ったが、俺は首を振った。
「平気。頼むから普通にしてて」
「……はい」
昇降口へ行って靴を履き替えると、有川が表で待っていてくれた。
黙って並び、俺は寮までの道を歩いた。
「さっきの奴等、誰だか分かりますか?」
低い声で有川が訊いてきたが、俺は首を振った。
「分からない。3年だったけど、覚えがないし、名前も知らない」
「何人居たんですか?」
「多分、4人…」
「これからは……」
そこまで言うと有川は一旦言葉を切った。だが、俺の方を見るとまた口を開いた。
「これからは俺が守りますから。俺だけを、頼ってください」
「……うん」
返事をする時に、俺は有川の目を見られなかった。
守られる価値も無いのに、坂上も有川も俺を守ると言ってくれた。
その気持ちは、嬉しいよりも、俺には後ろめたかったのだ。
「今夜、夕食の後で会いたい。寮の玄関で待ってますから。……来てくれますよね?」
少し不安げに、有川は訊いた。
「……うん」
俯いたままで、俺はまた頷いた。
その前に俺は、憎まれる覚悟で坂上に会いに行かなければならなかった。
坂上をまた傷つけるのだと思うと、辛くて堪らなかった。
だが、有川とこうなってしまったからには、黙っている訳にはいかない。全てを告白し、俺は坂上に軽蔑されなければならないのだ。
「坂上先輩には俺が言いますから」
突然、有川に言われて俺は驚いて顔を上げた。
「な、なに言って…?」
立ち止まって見上げた俺の目を、有川は真剣な目でじっと見下ろした。
「全部言います。俺が先輩をレイプしたことも……」
「なっ……。だ、駄目だッ」
「いや、俺が言います。全部俺の責任ですから」
きっぱりとそう言った有川に、俺はまた首を振った。
「違う…っ。真也には俺が言わなきゃ駄目なんだ。真也の気持ちを全部受け止めなきゃ駄目なんだ。……それに、さっきのは俺、レイプされたなんて思ってない」
「先輩……」
そう、レイプじゃなかった。
最初は無理やりでも、途中からはもう違った。
俺は自分の意思で有川を受け入れ、快感を共有したのだ。
だから、罪は俺にある。
俺は坂上に、きちんと裁かれなくてはならないのだと思った。
「これは俺と真也の問題だから、俺がちゃんと言う。だから、有川は何も言うな」
俺の言葉に有川は少しの間黙っていた。
だが、じっと俺の目を見つめると頷いてくれた。
「分かりました。俺は何も言いません」
ホッとして俺が頷くと、有川は言葉を続けた。
「でも、別れないなんて駄目ですから。ちゃんと、俺のものになるって言ってください。ちゃんと、坂上先輩に言ってください」
そう言って俺を見つめた有川の目は少し怖いと思った。
だが、それだけ俺のことを真剣に想ってくれるからだろう。
「うん……。分かった」
俺が頷くと、有川はやっと表情を和らげた。