涙の後で
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夏休みになったらデートしよう、と俺にメールをくれた真藤先輩だったが、アルバイトを始めてしまったらしく、中々暇が出来ないとまたメールをくれた。
俺は、今年は早く実家に帰って来てしまい、始業式まで学校には戻らないことを返信した。
だから、無理に会いに来てくれなくてもいいと言うつもりだったのだが、先輩は、
「それなら、千冬の実家の方に遊びに行くよ」
と、返信をくれた。
アルバイトもお盆休みがあるそうで、13日を過ぎたら会いに来てくれると言ってくれた。
先輩に会うのは楽しみだったが、坂上と別れた事や、有川と付き合うことになったのを説明するのは気が重かった。
だが、多分俺は、真藤先輩には隠しておけないだろう。
会えばきっと、何もかも話してしまうに違いなかった。そして、また先輩の腕に甘えてしまうだろう。
駄目だと分かっていても、縋ってしまう。許してくれるのを知っているから、甘えてしまうのだ。
俺にとって真藤先輩とはそういう人なのだと思う。
苦しい時にはいつも助けてくれたから、何時の間にか先輩は、俺にとって誰よりも近い人になっていたのかも知れない。
終了式の日まで、学校の行き帰りも食事の時も、有川は毎日俺と一緒だった。
だが、野次馬的な意味もあって、注目の的だった俺達は、二人きりになれる時間は極端に少なかった。
だから、人目を盗んで有川が俺にキスしてくることはあったが、実はそれも数えるほどだったのだ。
終了式の日に、1日遅れて帰ることにした有川は、俺を駅まで送ってくれた。
さよならを言って俺が改札を抜けようとすると、有川は俺の腕を掴んで言った。
「メールします。それから、電話も……。あと……」
そこで言葉を切ると、有川は掴んでいた手に力を込めた。
「会いに行きますから」
「え……?」
驚いて俺が聞き返すと、有川は笑みを見せて言った。
「40日も、先輩を一人で置いておけませんから」
「有川…」
きっと、有川も不安なのだろう。
ころころと心変わりする俺を信用していないのだ。
それは当たり前だと俺は思った。もし、俺が有川の立場だったら、きっと俺のことを信用しないだろう。
「分かった。じゃあ、来る時は連絡して?駅まで迎えに行くし」
「はい…。じゃあ、気をつけて」
「うん。……ありがと、雄李」
名前で呼ぶと、有川はちょっと驚いたようで目を見張った。だが、すぐに笑顔になって頷いた。
初めて有川を名前の方で呼んだのは、少しでも安心してくれたらいいと思ったからだった。
こんなことで何が変わる訳でもないと分かっていたが、それでも少しは俺が彼を近しく感じているのだと思って欲しかったのだ。
俺が家に帰ると、言った通り、有川は2日に1度はメールをくれた。そして、俺が家に帰って1週間目に電話をくれた。
話したのはお互いの家のことや何処かに出かけたかということなど、他愛の無いことばかりだったが、たった1週間だというのに、なんだか有川と駅で別れたのは随分前のことのように思えた。
いや、こうして家に帰って、母や正孝さんの顔や懐かしい近所の風景を見て、出て行った時と何も変わらない自分の部屋で過ごしてみると、寮での生活が遠い夢の中のことのように思えたのだ。
この所、俺の身には余りにも現実離れしたことが、続けて起こり過ぎた。
もしかすると、正孝さんに憧れていたくらいだったし、家に居ても他の同性に恋をすることはあったかも知れない。
でも、襲われてヌード写真を撮られたり、レイプされそうになったり、同性とセックスをすることも、体験することはなかっただろうと思う。
帰ってみたら余りに平和過ぎて、学校でのことが夢だったような気がしたのだ。
そしてこのまま、家に帰って来てしまいたいとも思った。
そうすれば、きっと自然に慶のことも忘れられるのではないだろうか。
だが、自分の我侭でわざわざ遠い高校へ入学したのだから、今更、家に帰りたいなんて言える訳も無かった。
俺が寮に入った所為で、母にも正孝さんにも随分と心配を掛けた筈だし、嫌な思いもさせた筈だった。それなのに、今度は帰りたいなんて勝手過ぎる。
それに、慶のことを忘れたいという理由だけでは棄てられないものも随分増えてしまった。
辛いこともあったが、それ以上に大事なものもある筈だった。
「あの学校に入らなきゃ、出会えなかった人も居るんだもんな」
本当に、大事なものは沢山ある。
それを忘れてはいけないのだと、俺は思った。
7月も終わろうと言う時、有川が家に来ることになった。
有川の家は電車を乗り継いで2時間弱のところだったが、午前10時くらいには駅に着くというので、俺は約束通りその時間に迎えに行くことにした。
母も正孝さんも相変わらずお盆くらいしか休めないので、帰って来ても土日しか家には居ない。駅まではバスで20分ほど掛かるので、二人が仕事に出かけてから、俺も早目に家を出た。
駅に着いて、有川が乗って来る筈の電車の時刻を調べていると、その前の電車が着いたのか何人かの客が改札を通って出て来るのが見えた。
その中に、一際大きな身体が見え、俺はハッとしてその顔を確かめた。
「ちふ…」
向こうもすぐに俺に気付くと、強張った表情で立ち止まった。
「真也……」
坂上は表情を戻すと、俺の方に近付いて来た。
「何処かに行くの?」
俺の荷物を確かめながら坂上が訊いた。
「ううん、迎えに来たんだ…。もうすぐ、有川が来るから」
俺の答えを聞いて、坂上はサッと表情を硬くした。
「そう。家にまで来るんだ?」
「うん、来たいって言うから……。真也は?もう、合宿が始まるんじゃないの?」
俺が訊くと坂上は頷いた。
「ああ…。道場のは終わって、学校の合宿は明後日から。だから、今日は朝練だけやって、終わりにしたんだ」
どうやら、道場の帰りらしく坂上はそう言った。
「そう。頑張ってるんだね」
「……他にすることもないし」
坂上にしては少し棘のある言い方だった。でも、それぐらいは仕方ないだろう。
寧ろ、俺のことを責めもしない坂上は本当に優しい男だと思うのだ。
俺が黙ると、坂上はフッと息を吐いた。
「ごめん……。嫌味のつもりじゃなかったんだ」
「うん…、分かってるよ」
俺が答えると、坂上はまた溜め息をつきながら首を振った。
「あれから、時間が経って少しは冷静に考えられるようになった。それで、ちふがどうして俺じゃ駄目だったのか、少しは分かった気がするよ」
「真也……」
「俺に負い目を感じてたんだろ?ずっと…。最初から、気を遣ってくれてたよな?俺を傷つけるんじゃないかって、躊躇ってた。その気持ち、ずっと変わらなかったんだな…」
寂しそうに、坂上は言った。
俺は辛くなって、彼の顔から目を逸らした。
「違うよ、そんなんじゃない。ただの俺の我侭だよ。そういう嫌なヤツなんだよ、俺は」
俺の言葉に、坂上はフッと笑った。
「ほら、またそうやって自分だけを責める。ちふはもう、いい加減、自分を好きになるようにしなきゃ駄目だよ」
驚いて見上げると、坂上はまた寂しげに笑った。
「俺、結構ちふのこと分かってたつもりだよ。真藤先輩ほどじゃないかも知れないけど…。ちふが自分の気持ちをどうすることも出来なくても、それはちふが悪い訳じゃないんだ。だからもう、自分を責めなくていいよ。…な?」
そう言って坂上は俺の肩にポンと手を置くと、そのまま離れて行った。
あんなに酷いことをしたのに、坂上は俺を許してくれたのだろうか。そう思うと、酷く胸が痛んだ。
彼が去って行く後姿を見ていると、後ろから肩を掴まれて俺は驚いて振り返った。
何時の間にか次の電車が着いたのだろう。そこには少々強張った表情の有川が立っていた。
「坂上先輩ですよね?」
挨拶もせずに、有川はいきなりそう言った。
「うん、前の電車に乗ってたみたい。道場からの帰りなんだって」
「そうですか。……あ、済みません。迎えに来てくれてありがとう」
やっと笑みを見せてそう言った有川を見て、俺はホッとした。坂上を見たことで、有川が余計な気を回したのではないかと不安に感じていたのだ。
「ううん。じゃあ、何処に行く?あ、先ずお茶しようか?ね?」
「ええ、そうですね」
返事をした有川を促して駅を出ると、俺は近くのカフェへ連れて行った。
朝食は食べたと言うので、其々に冷たい飲み物を買って席に着いた。
向かい合って座ると、有川はそっと手を伸ばして俺の手に重ねた。
「会いたかった。10日足らずなのに、凄く長く感じましたよ」
じっと見つめられて、俺は曖昧に笑った。
こんな風に、いつも有川は俺を真っ直ぐに見る。その視線が、相変わらず俺には少し怖かった。
「俺も、って言ってくれないんですね。やっぱり……」
苦笑しながら有川が言うのに、俺は慌てて持っていた飲み物を下に置いた。
「ち、違うよッ。ただ、こんな所で、こういう会話するのが恥ずかしいだけ…」
「学校の外だとって、意味ですか?」
訊かれて、俺は驚いて目を上げた。
「え…?」
聞き返すと、有川はストローでグラスの中の氷を掻き回した。
「あの学校の中は確かに特殊だ。だから、外に出たらあの中での関係は終わりだって、そう言うヤツもいる。あの中でのことは、あの中だけのこと……。千冬さんもそう思ってるんですか?だから、俺が来たことも迷惑?」
「ち、違うッ…」
俺は慌ててそう言うと、有川の手を掴んだ。
「そんなこと思ってないよ。来てくれて嬉しいし、俺だって会いたかった。ごめん…、素直に言えなくて。嫌な気持ちにさせて、ごめん」
俺が必死でそう言うと、有川は手を握り返してくれた。
「いや…。俺こそ、ごめんなさい。責めたい訳じゃないんだ。ただ、まだ不安なんだ。千冬さんが、坂上先輩のところに帰っちゃうんじゃないかって…」
「そんな…、俺はもう、真也とは戻るつもりないよ」
俺が答えると、有川は頷いた。
「信じてない訳じゃないんです。……ただ、不安なだけなんだ。済みません」
「ううん。不安にさせてるのは俺なんだもんな、仕方ないよ。俺、いつも優柔不断だし…。でも、会いに来てくれて本当に嬉しいよ。それは、嘘じゃないから…」
俺が言うと、有川はやっと笑ってくれた。
「じゃあ、今夜泊まっていいです?」
「え?…あ、うん。いいけど……」
いきなり言われて驚いたが俺は頷いた。
「やった…」
嬉しそうに笑う有川を見て、俺も釣られて笑った。
親には有川が遊びに来ることは言ってあったが、泊まるとは言わなかった。だが、事後承諾でも別段問題は無いだろう。
ただ、俺が少々緊張するだけだった。
(泊まるつもりで来たんだ…)
言われて気付いたが、有川が背負ってきたバッグは、着替えが入っているのか結構膨らんでいた。
同じ部屋に寝るとなると、何も無いってことはないだろう。
そう考えると、俺はどうしても緊張してしまった。
カフェを出て、幾つかの店を見てブラブラ歩いた後、お昼を食べて映画を見に行った。
その後で、家に帰りながら俺は有川を連れてマーケットへ寄った。
今日も母は遅くなると言っていたので、夕飯は俺が作ると言っておいたのだ。有川に食べたいものを訊いて一緒に買い物をすると、俺は彼を連れて家に帰った。
玄関で飼い猫の千秋に迎えられ、有川はそこにしゃがむと嬉しそうに彼女の頭を撫でた。
「やあ、おまえが千秋か?こんちは」
「珍しいなぁ。知らない人が来ると必ず隠れるのに」
有川に撫でられても逃げない千秋を見て俺が驚くと、有川は笑みを浮かべたままで俺を見上げた。
「俺、猫好きなんですよ。通じたのかな?」
「そうかも。…上がれよ、誰も居ないし」
「はい」
返事をしながらも有川はまだ千秋を撫でていた。
「美人だなぁ、おまえ。目が青いんだ?可愛い…」
微笑ましい光景に、俺は思わず笑みを浮かべた。
「雄李は動物飼ってないの?」
「ウチは両親が商売やってて長時間家を空けるし、妹が喘息持ちなんです。だから、動物は飼えなくて…」
「そうなんだ。そう言えば、兄弟の話とか聞いたことなかったね」
俺が言うと、有川はやっと立ち上がって靴を脱いだ。
「今日は時間あるし、何でも話しますよ。千冬さんも、色々聞かせて欲しい。もっと知りたい」
言いながら頬に手を当てられ、俺は躊躇いながら有川を見上げた。
「やっと二人きりになれた。学校じゃ、キスさえ碌に出来なかったし…」
「うん…」
俺は持っていた荷物を置くと、有川の首に腕を回した。
わざわざ会いに来てくれた有川を失望させたくなかった。
もう、気持ちは揺らいでいない。
慶のことは、忘れると決めた。俺が傷つけた、坂上の為にも。
有川の顔が近付き、俺は目を閉じて待った。
いつでも真っ直ぐに俺を見てくれる有川が好きだ。
その気持ちは、本当に嘘じゃなかった。