涙の後で


-5-

有川にも手伝ってもらって夕食の用意をすると、暫くして母と正孝さんが帰って来た。
有川が泊まると言っても、思った通り母たちは気持ち良く歓迎してくれた。
二人とも有川が気に入ったらしく、夕食の時には、学校のことや家のことを訊いたりして会話も弾んだ。
夕食の後で、有川は嬉しそうに千秋と遊び始め、千秋も本当に珍しく彼に懐いてしまった。
俺は片づけを母たちに任せて自分の部屋へ行くと、有川の分の布団をベッドの下に敷いた。
母に先に風呂に入るように勧められ、有川は礼を言ってバスルームに向かった。
出てきた彼に、冷蔵庫から清涼飲料水のペットボトルを出して渡すと、俺は彼を自分の部屋に連れて行った。
適当に寛いでいるように言うと、有川は頷いて本棚を物色し始めた。
彼を部屋に残して階下に降りると、俺も風呂に入った。
このまま部屋に戻れば、きっと有川は身体を求めてくるだろうと思った。母も正孝さんも居る同じ屋根の下で、そういう行為をすることに俺は躊躇いを感じていた。
だが、有川を拒むことは出来そうも無い。
拒めば、また彼を傷つけるような気がしたのだ。
風呂から上がって、自分も冷蔵庫から飲み物を出すと俺は母と正孝さんにお休みを言って階段を上がった。
部屋に入ると、有川は俺のベッドの上に横になって本棚から出した小説を読んでいた。
「これ、借りていいですか?」
小説から目を上げずに有川が言った。俺は頷きながら傍へ行くとその前に立った。
「いいよ。もう読んじゃったし、他にも読みたいのがあったら持って行ったら?」
俺が返事をすると、有川は笑みを浮かべて顔を上げた。
「ありがとう。じゃあ、借りていきます」
「うん、どうぞ」
頷いた俺の手を取り、有川は座るように促した。
俺が腰を下ろすと、身を起こして俺の身体に手を回してきた。
少し俺を見つめ、有川はゆっくりと顔を近づけて来た。
目を閉じて待つと、すぐに唇が押し付けられた。
「ふ…」
熱くて躊躇いのないキス。唇をくすぐり、舌がすぐに入り込んでくる。
擦られて差し出すと、柔らかな唇が何度も俺の舌を挟んだ。
「ん……」
腕を伸ばして有川の身体に回す。湯上りで火照った俺の身体より、彼の方が熱い気がした。
「いいですか?……したい。挿れさせて?」
「……うん」
躊躇う気持ちはまだあったが、俺は頷いた。
やはり、今更有川を拒むことなど出来なかった。彼の気持ちは分かっているのだ。
有川の手で短パンと下着を脱がされ、俺は恥ずかしさに顔を背けた。
ちゃんと用意してきたらしく、有川は鞄の中からローションらしきチューブの容器を出すと、中身を少し出して俺の後ろに塗りつけた。
ぬるぬるとした指が、すぐに中に入ろうとした。
潤滑剤の所為で痛みは余り無かったが、怖くて身体が硬くなるのが分かった。その所為か、有川の指が硬く閉まった部分を抉じ開けようとするのを感じた。
「力、抜けます?」
聞かれて頷くと、俺は有川に腕を回して息を吸い込んだ。
ゆっくりと、有川の指が俺を傷つけないように入ってくる。そして、恥ずかしい音を立てて動き始めた。
「痛い……?」
顔を顰めてしまったのを見たのだろう。有川が訊いてきたが俺は首を振った。
鈍い痛みはあったが、それを知らせる必要はないと思った。
「へ…き……」
俺の言葉に安心したらしく、有川の指の動きは少し早くなった。
「本当に慣れてないんですね…。俺にだけ許してくれたみたいで嬉しい…」
じっと見つめられて、嬉しそうに言われ、俺は顔が熱くて堪らなくなった。
「は…ずかしいこと、言うな……」
眼を逸らすと、有川はくすっと笑った。
そして、挿入によって俺を傷つけないように、丁寧に時間を掛けてくれた。
「もう、大丈夫かな…?」
有川の呟きに答えて俺が頷くと、彼は俺の身体から指を抜いた。
下着をずらす有川の動きを見るのが恥ずかしかった。
浮かされたような熱の合間の、ふと冷めるこんな瞬間が気恥ずかしくて、そして怖かった。
自分が彼に夢中ではないのだと、思い知らされるような気がしたのだ。
有川が自分自身を掴んで近付くのが分かり俺は思わず顔を上げた。
「怖い?」
聞かれて首を振ると、俺はまた、彼の首に腕を回した。
先が当たる。
目を閉じて息を吸い込むと、有川がゆっくりと腰を進めて俺の中に入って来た。
「んくっぅ…」
母たちの居る家で声を出すのは、酷く恥ずかしく嫌だったが、我慢し切れなかった。
唇から漏れる声を殺そうとして、俺は有川の肩に唇を押し付けた。
ゆっくりと、大きな塊が押し進んで来る。
痛みと、怖さと、それから妙な罪悪感があった。
全部を受け入れ、俺が息を付くと、有川も少し息を吐いた。
そして、小さな声で言った。
「……嬉しい……」
その言葉にハッとし、俺は顔を上げた。
有川はやはり随分と不安だったのかも知れない。
そして、それは紛れもなく俺の所為なのだ。
「俺も……」
答えると、有川が笑った。
その笑顔に、俺は泣きそうになっていた。



「帰りたくない」
と、翌日になって有川は言い、結局俺の家に2泊して、それでも名残惜しそうに帰って行った。
「千冬さんも来てくれたらいいのに…」
駅まで送って行った俺に有川はそう言ってくれたが、俺は“うん”とは言えなかった。
彼の両親も、兄弟も居る家に、泊めて貰う勇気は無かったのだ。
躊躇ったまま黙っていると、有川はフッと笑った。
「いいですよ。俺がまた来ますから。ね?」
そう言われて、俺はやっと笑うことが出来た。
「うん。待ってる」
2晩続けて抱かれた、その熱がまだ俺の中に残っていたのかも知れない。有川と別れることが、俺にとっても寂しくて、離れ難かった。
「ほんと?」
少し不安そうな目でそう訊かれ、俺は回りに目が無いのを確かめてから、そっと彼の指を握った。
「…うん」
キュッと、握り返されて少し緊張する。
だが、胸が熱くなったのも確かだった。
身体を繋げる、と言うのは特別なことなのだと改めて思った。
初めての時は、俺に何の準備も出来ていなかったし、有川の方でも衝動的な行為だったろう。だが、今度のはお互いに相手を意識しながらしたことだった。
そして、身体を繋げると相手がずっと近くなるのだと俺は知ったのだ。 “ごっこ”ではない本当の恋愛を、この時俺は、有川となら出来るのかも知れないと思った。
「メールして?俺もする」
そう言うと、有川は笑みを浮かべたままで頷いた。
ホームに消えていく有川を見送ってから駅を出ると、ポケットの中で携帯が鳴った。
見ると、真藤先輩からのメールだった。
今、有川と別れたばかりのこのタイミングでのメールに、ちょっとドキッとしながら開けて見ると、8月の16日になったら来られるとのことで、俺の都合はどうかという内容だった。
お盆に、母と正孝さんは母の実家へ行くことになっていたので、俺は却って都合がいいと思った。
真藤先輩にそう返信すると、すぐにまた返事が返ってきた。
16日の午前中には来られるとのことで、近くなったら時間を知らせるとの内容だった。
俺は了解する返信を打って、携帯を閉じた。
真藤先輩に会えるのは凄く嬉しい。だが、反面で少し不安だった。
今の自分を見られたくないような気がする。
俺の我侭から坂上と別れたことも、そして、後輩の有川に抱かれていることも、真藤先輩に知られるのが怖かった。
だが、俺はきっと何一つ、真藤先輩に隠しては置けないだろう。
(軽蔑されても仕方ない。全部、俺が悪いんだから…)
そう思いながら歩き出すと、俺は不意に慶のことを思い出した。
今頃、慶はどうしているのだろう。
家に帰って、家族と一緒に過ごしているのだろうか。それとも、また家には帰らず学校に残っているのだろうか。
夏休みが始まる前、俺は敢えて慶に予定を訊かなかった。
訊いたって、今年は一緒に居られる訳ではないし、慶だって別に俺の予定を知りたくも無いだろうと思ったのだ。
だから俺は、今、慶が学校に居るのか家に居るのかさえ知らなかった。
振り返ってみると、慶の家で一緒に過ごした去年の夏が、随分と遠い昔のことのように思えた。
そして、この数ヶ月の間で、慶は俺にとって随分と遠い人になってしまったような気がした。
(本当に、このまま忘れられるのかも知れない…)
そんな淡い期待を俺は抱いていたのだ。



8月の13日になり、母と正孝さんが母の実家へ出掛けた。
16日の夜に帰って来る予定になっていたので、俺は4日ほど家で独りで過ごすことになった。
一緒に行こう、とも言われたのだが、猫の千秋のことも心配なので、残ることにしたのだ。
だが、結局俺はその夜、祖父の家へ行くことになった。
母から連絡があり、祖父が階段から落ちて怪我をしたので来る様にと言われたのだ。
幸い、祖父は足首の骨に皹が入った程度で済んだらしいのだが、一応、1~2週間ほどは入院するらしかった。
正孝さんが車で迎えに来てくれることになり、結局、千秋も連れて行くことにした。
久し振りにキャリーに入れられ最初は鳴いていた千秋も、車で暫く走ると、諦めたのか眠ってしまったようだった。
正孝さんの話だと、祖父は松葉杖を突けば歩けるらしいので、入院もしないと言い張ったのだが、母と祖母が説得してギプスが取れるまでは入院することになったらしい。
「お義母さんはお店もあるし、病院に居てくれた方が手が掛からなくていいって言われて、お義父さんは少し拗ねちゃってね」
そう言って正孝さんは笑った。
「だから、千冬君の顔を見れば機嫌も直るんじゃないかって」
「なるほど」
俺が笑いながら頷くと、正孝さんはチラっと俺の方を見た。
「お義父さんは、孫の中では千冬君のことが一番可愛いんだって、お義母さんが言ってたよ」
「そんなことないと思うけど…。でも、父さんが亡くなった時、母さんに生活の基盤が出来るまで、暫くの間おじいちゃん家に預けられてたからね。他の孫たちよりは俺のことが心配なのかも」
「そうか…」
父さんの話なんかして悪かったかと俺は後悔したが、正孝さんは気にしていないようだった。
尤も、2歳の時に亡くなった父の記憶は俺には殆ど無く、それ以上の話をしたくても出来ない。そして、正孝さんも俺にとっては父とは言えなかった。
だが勿論、以前のような感情はもう俺の中には無い。正孝さんは俺にとって、純粋に母の連れ合いになっていた。
「でも、今年は千冬君が家でゆっくりしてくれて嬉しいよ。何も言わないけど、千夏さんも喜んでるよ」
「ありがとう…」
俺が答えると、正孝さんは何時もの優しい笑みを浮かべた。

病院に着いて祖父を見舞うと、思った以上に元気で俺は安心した。
すぐに帰って、お盆明けには店にも出られると言い張り、母や祖母にまた窘められた。
祖父と祖母は、祖父が会社をリタイアした後で自宅を改装して小さなカフェを始めた。
祖母の昔からの夢を、祖父が叶えたのだ。
挽き立ての豆で淹れる香り高いコーヒーと、祖母の手作りのケーキが評判になり、徐々にお客も増えて今では常連客も多く通う店になっていた。
店は夫婦二人きりでやっているので、祖父も心配なのだろう。
だが、怪我人にうろうろされるより、入院してくれてた方がいいと祖母に言われ、祖父は少々しゅんとしてしまった。
「なら、夏休みの間、俺が手伝うよ。そうすれば、病院にもちょくちょく来られるし」
祖父が気の毒になって俺が言い出すと、途端に祖父の顔が明るくなった。
「本当か?そうしてくれれば、じいちゃんも安心だな」
だが、祖母の方は少々心配そうな顔になった。
「でも千冬、折角の夏休みなのにいいの?お友達との約束もあるんじゃないの?」
真藤先輩との約束があったが、お盆中はどうせ店も休みなので、俺はお盆明けにこちらに来ればいいと思った。
「ううん、大丈夫。別に予定もないし、手伝うよ」
俺が言うと、祖母も笑顔になった。
「ありがとう。じゃあ、そうしてもらおうかしら」
話が決まり、今夜1泊したら母たちを残し俺は家に帰ることにした。そして、母たちが帰って来るのと入れ違いにこちらに来ることになった。
夏休みの残りを、余計なことを考えずに店の手伝いをして過ごせるのを、却って俺は喜んでいた。
それに、子供の頃と違って滅多に会いに来られなくなっていたし、この際、祖父母にも孝行しようと思ったのだ。
翌朝、病院に寄って祖父の顔を見てから正孝さんに送ってもらい、俺は家に帰って来た。 明後日には先輩が来る。
俺はそれを思うと、少しだけ胸が高鳴るのを覚えた。