涙の後で
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翌朝、俺は先輩を連れて家を出た。
祖父の家までは急行で5駅ほどだったが、そこからまたバスに乗るので、着くのは昼頃になる。
昨夜の内に母たちには連絡をしてあったので、先輩が行くことは分かっていた。
だが、母と正孝さんは明日から仕事なので、俺たちが着くのを待たずに入れ違いに向こうを出ることになっていた。
今夜も泊まるのかと思ったが、先輩は今日、祖父の家から直接帰ると言った。
「え…?帰っちゃうんですか?」
俺が聞き返すと、先輩は苦笑した。
「まさか、二晩も世話になれないよ。それに、千冬の家なら兎も角、お祖母ちゃん家じゃ、さすがに俺だって遠慮する」
「でも、祖母は泊まってくれたら喜ぶと思います。いつも、祖父と二人で寂しいって言ってるし…」
先輩と別れたくなくて俺は食い下がった。すると、何時ものように先輩の優しい手が俺の頭に載った。
「いいのか?泊まったら、今夜は我慢出来ないかも知れないぜ?」
勿論、先輩は冗談のつもりで言ったのだろう。でも、俺は別にそれでも構わないと思った。
そうなったらきっと、有川に対して罪悪感を覚えるだろう。そして、きっと後悔するだろう。
でも、こんなに短い逢瀬で先輩と別れてしまうのは嫌だった。
会う前は怖いと思っていても、やはりこうして顔を見れば、俺の心はすぐに半年前に戻ってしまうのだ。
「そんなの、本気じゃないって知ってますから」
「どうかな?」
意味ありげに先輩は言い、少し笑った。
「じゃあ、お祖母ちゃんに迷惑じゃなきゃ、もう一晩泊めてもらおうかな」
「はいっ。祖母も絶対に喜びます」
嬉しくなって俺は勢い良くそう言った。
電車とバスを乗り継いで祖母の家に着くと、俺が言ったように祖母は先輩の訪問を喜んでくれた。
「どうぞ、どうぞ。こんな狭い家でよかったら何日でも泊まって下さいな」
そう言って、祖母は俺と先輩の昼食を用意してくれた。
それは、店でも出しているサンドイッチで、4種類の具が挟んであった。
「旨いですね。具も勿論だけど、このパンも旨いなぁ」
先輩がそう言って感心すると、祖母は嬉しそうに笑った。
「私のお友達のパン屋さんで焼いている食パンなのよ。天然酵母を使ってて、とても評判がいいの」
「へえ…。確かに普通のパンより、香りも凄くいいですよね」
先輩の言葉に、祖母はまた嬉しそうな笑みを見せて頷いた。
午後から店に出ると言ったが、祖母は明日からでいいと言った。今日は先輩とゆっくりするようにと言われたが、その先輩も店を手伝いたいと言い出した。
「ええ?そんな、とんでもないわ。お客様に手伝いなんて」
祖母は遠慮したが、先輩はやる気満々だった。
「外から見たけど、凄く可愛いカフェですね。出来たものを運ぶか皿洗いぐらいしか出来ませんけど、手伝わせてください。そのつもりで千冬に着いて来たんで…」
「まあ、いいのかしら?」
困惑した様子で俺を見た祖母に、俺は笑いながら頷いた。
「折角だから二人で手伝うよ。ほら、もう開けないと、お昼を食べに来るお客さんもまだ居るんじゃない?」
俺たちが着く時間を知らせておいたので、昼の稼ぎ時なのに祖母は店に休憩中の札を出して待っていてくれたのだ。
祖母にエプロンを借りて、俺と先輩も店に出た。
店はカウンターに4客、4人掛けのテーブル席が3つと2人掛けのテーブルが2つ。それと、これも祖母が丹精している小さな庭に2人掛けのテーブルが2つあった。冬は閉めてしまうが、春から秋は草花も楽しめて、この場所を好むお客も多いらしい。
店を開けると、程なくお客もやって来た。
それからは暫くの間忙しくなり、先輩は客商売が好きらしく楽しそうに働いていた。
夜になって、祖母は店を仕舞うと、疲れも見せずに俺たちの為に夕飯を作ってくれた。
俺と先輩も一緒に台所に立ち、祖母を手伝った。
祖父が入院したお陰で、若い男性たちと食事が出来ると祖母は喜んでくれた。
先輩も祖母のことが気に入ったらしく、食事の後も遅くまで居間に残り、祖母に俺の小さい時の話などを聞いて楽しげに談笑していた。
客間に並べて布団を敷いたが、6畳程しかない部屋なので雑魚寝のような感じだった。
昨夜よりも先輩の近くに寝る事になったが、俺は何だか嬉しかった。
「素敵なお祖母ちゃんだなぁ。店もいい店だし、本当に暫くここに居たくなったよ」
「なら、もう少し居て下さい」
期待を込めて俺が言うと、先輩は手を伸ばして俺の頭を撫でた。
「そうしたいけど、明後日からまたバイトなんだ。……また、会いに来るよ」
「ほんと?」
起き上がって乗り出すと、先輩は伸ばしていた手で俺の頬に触れた。
「そんな顔すると、マジで押し倒すぞ」
「……はい。拓馬さんがそうしたいなら…」
俺が答えると、先輩はフッと笑って目を瞑った。
「俺と寝たら、また千冬は自分を責めるんだろ?彼氏への罪悪感で自分を許せなくなる…」
目を開くと、先輩は俺の頬を撫でた。
「何時でも、自分ばかりが悪いと思うのはもう止せよ。坂上のことでも悩んでるんだろ?けど、どんなにいいヤツで好きだと思っても、愛せるとは限らない。それは、千冬の所為じゃないんだよ」
やはり、坂上のことも先輩は見抜いていた。
それなのに、俺を責めることもない。その優しい言葉に、思わず涙が滲んだ。
すると、先輩が起き上がって俺の身体を抱きしめてくれた。
「大丈夫だよ、千冬。言ったろ?俺は何時だって味方だから」
頷き、俺は先輩にしがみ付いた。
本当に、誰よりも、俺は先輩のことを信頼していた。そして、誰よりも甘えられる人だったのだ。
翌日の午後、帰る先輩を俺はバス停まで送った。
離れ難かったが、先輩はきっとまた会いに来てくれると約束してくれたので、俺は寂しい顔を見せまいと思った。
バスが見えなくなるまでそこで見送り、俺は祖母の待つ店に帰った。
店を閉めてから、二人で祖父の病院へ行き暫く過ごす。そして、帰ると祖母と二人で夕食を作って食べた。
そんな生活を暫く続け、祖父が退院してくると、店を手伝う合間にリハビリに病院へ通う祖父に付き添った。
その間に、何度も有川からメールが来たが、夏休みが終わるまでは会えそうも無いと伝えるしかなかった。
祖父はまだ、杖を手放せなかったし、店にも出られない。本当に、夏休みが終わるギリギリまで、俺は祖母の家に居ることになったのだ。
「寂しいけど、あと2週間も経たずに学校で会えるし、我慢しよう?俺だって会いたいけど、今は無理なんだ」
メールを返すと、有川は分かってくれたらしく、新学期に会えるのを楽しみにしていると言ってくれたので、俺もホッとした。
新学期、学校へ帰れば慶にも会うことになる。
この夏休みは色々なことが重なって、俺は慶のことを余り思い出さなかった。
きっと、新学期に顔を見ても、前ほどの感情は湧いて来ないのではないだろうか。
そんな期待が、俺の中にあった。
始業式の前日、お昼前に学校へ着き、寮の部屋に入ると、慶が机の前に座ったまま振り返った。
「おかえり。早かったんだな?午後になってから戻るのかと思った」
昨日の夜、まるで戦場に戻るような気持で眠りについたが、こうして戻ると、これが俺の日常だったんだと感じた。
「ただいま…。午後だとなんだかバタバタしそうで嫌だったから…。慶も早かったんだね?今日帰って来たんじゃないの?」
荷物を机の上に載せながら言うと、慶は首を振った。
「いや、俺は今回帰らなかったんだ。実は、こっちでバイトしてた」
「え、バイト?そうだったの……」
何も知らなかった俺は少し驚いてそう言った。
「うん。隣町の本屋で夏休み中だけアルバイトを募集してたから、面接してみたんだ。そしたら、運良く受かったんで、家には帰らなかった」
「そう…」
何も知らされていなかったことが少しショックだったが、俺は勿論、何も言わなかった。慶が俺に何もかも話さなければならない理由も無い。
増してや、夏休み前の俺は、慶にとって軽蔑すべき人間になっていた筈だった。こうしてまた口を利いてくれただけでも喜ぶべきなのだろう。
「実は、俺もアルバイトしたんだよ。って言っても祖父の店でだけど」
俺が祖父の怪我からの話をすると、慶はちゃんと聞いてくれた。そして、自分のアルバイトの話もしてくれた。
嬉しくなって、荷物を解くのも忘れて話し込んでいると、ドアにノックの音がして俺は振り返った。
ドアを開けると有川だった。
「雄李…」
「お帰りなさい。俺も今朝帰ってきたんです」
笑みを見せた有川に、俺も笑顔になった。
「そう…。あ、待って。お土産があるんだ」
机の上の鞄を開けて陶器の猫が入った箱を出した。
「お土産なんて凄い。嬉しいな…」
そう言って笑い、有川は箱を開けた。
「あ、千秋だ」
「うん、千秋に似てるよね?祖父の病院に行く途中に雑貨屋があるんだけど、そこのウィンドーにあったんだ。雄李、千秋のこと気に入ってくれてたから」
「うん、ありがとう。凄く嬉しい」
喜んでもらえてホッとすると、俺は有川を見上げて笑った。
「食堂に行かない?お礼に何か奢ります」
「うん…。それじゃ」
誘われて頷くと、俺はドアの外に出た。
後ろに居る慶のことが気にならないと言えば嘘だった。俺と有川の会話を、慶は一体どんな気持ちで聞いているのだろうか。
馬鹿々しいと感じているのかも知れない。
気持ち悪いと思っているのかも知れない。
それとも、なんの興味も無いのかも知れない。
「行こう。外だと、暑いかな?」
言いながら有川に並ぶと、俺は肩を並べて歩き出した。
食堂に行くと、もうランチの準備が出来ていた。
ついでに食べてしまおうと、俺達は其々にランチを選び、それから有川にカフェラテを買ってもらって暑い外に出た。
気温は高いが、今日は風があるので爽やかだったし、折角のいい天気なのに中に居るのが嫌だったのだ。
「お祖父さんのお店、手伝ってたんでしょう?」
有川に訊かれて俺は頷いた。
「うん。お陰でコーヒーの淹れ方も、紅茶の淹れ方も覚えたよ。あと、サンドイッチとサラダのドレッシングも作れるようになった」
「へえ?じゃあ、今度ご馳走して?」
「うん。雄李は?残りの夏休みは何してたの?」
今度は俺が訊くと、有川はサラダのトマトを口に運びながら肩を竦めた。
「まあ、地元の友達と遊んだり、お祭りに行ったり、そんな感じですよ」
「へえ?お祭りかぁ、いいなぁ」
俺が羨ましそうに言うと、有川は笑みを見せて言った。
「来年は一緒に行きましょうよ。今度は俺の町に遊びに来てください」
「……うん。ありがと…」
俺が頷くと、そっと有川の手が伸びて来て俺の手を掴んだ。
「会いたかった…」
「うん、俺も…」
「この後、部屋に来て?同室のヤツ、夜にならないと帰らないって言ってたから」
「でも…」
躊躇うと、俺の手を掴む有川の手に力が入った。
「駄目?」
じっと見つめられて、俺は嫌とは言えなかった。
「うん…。分かった、行くよ」
寮の部屋ではまさか、セックスまではしないだろう。そんな危険は、まさか有川も冒すまいと思った。
食事を終えてトレイを片付けると、俺は有川に付いてA寮の彼の部屋へ行った。
鍵が掛からない寮の部屋は、何時誰が扉を開けるか分からない。だから、恋人同士とは言っても、迂闊なことは出来なかった。
だが、部屋に入ると有川はすぐに俺を抱き寄せた。
熱いキスに少し眩暈のようなものを覚え、俺は有川にしがみ付いた。
強く舌を吸われて、益々息が上がる。そのまま容易く、ベッドの上に押し倒されてしまった。
「だ、駄目っ。雄李…」
「駄目じゃない」
押し返そうとして、反対にベッドに縫い付けられてしまった。力の差を感じて、ほんの少し怖くなる。
「でも、誰か来たら…」
「大丈夫だから」
「ん……」
またキスされて、俺はすぐに目を閉じると抵抗を止めた。