涙の後で
-9-
2年になった有川もA寮からB寮の住人になった。
階はひとつ下だったが、そんなに離れてはいない。それを知って、有川は嬉しそうだった。
やはり、幾ら渡り廊下で繋がっているとは言っても、建物が違うと遠く感じる。だが、今度は階段をひとつ上り下りするだけで会えるのだ。
「これで、点呼の時間ギリギリまで一緒に居られる…」
そう言って有川は俺を抱き寄せた。
「うんっ、いや……」
有川の言葉に答えられずに俺は言った。
最近の有川はすぐに俺の耳を噛んでくる。それがくすぐったくて、俺はつい逃げようとしてしまうのだ。
この日も、まだ寒い裏山に登り、俺は有川に押し倒されていた。
「嫌だ、雄李っ。ここで脱がすなよ…っ」
「少しだけ、駄目?」
甘えられると弱かったが、それでも今日は首を振った。
「駄目。寒いし…」
「じゃあ、触るだけ」
そう言うと、有川は俺のシャツの下に手を入れてきた。
「駄目…。あっ、駄目ってッ」
乳首を摘まれ、俺は慌てて有川を押し退けようとした。だが、そうする間も無く唇を奪われて、結局手に力を入れることが出来なかった。
「ん…、雄……」
長いキスをして唇を離すと、有川はじっと俺を見下ろした。
「あと1年しか一緒に居られないなんて嘘みたいだ。短過ぎるよ…」
寂しそうな顔をしてそう言った有川の頬に手を伸ばして、そっと撫でながら俺は言った。
「卒業したって会えるだろ?」
「だって…」
頬を撫でていた俺の手を掴みそれを唇に当てると、有川はまたその手を自分の頬に押し当てた。
「卒業したら、ここでのことなんて忘れちゃうんじゃない?いや、忘れたいと思うんじゃない?そんな人が殆どだって、皆が言ってる」
以前、俺が真藤先輩に会った時に感じた不安を、同じように有川は俺に感じているのだと知った。
「そんなことないよ。俺は卒業したって変わらない。だから、会いに来て?俺も来るから…。ね?」
「うん…」
頷くと、有川はまたキスを落とした。
だが、変わってしまうのは有川の方だろうと俺は思っていた。
この特殊な世界から出たら、外には魅力的な女の子が沢山居る。元々、ノーマルな有川が何時までも俺のことなんか想っていてくれる筈が無い。
そう思うと、キュッと胸が痛んだ。
寂しくて、泣きたくなった。
でも、ここに居る間だけは、きっと俺のことを見てくれるだろう。そして、まだその時間は1年もあるのだ。
「やっぱり寒いよ、雄李。寮に戻ろう?」
「部室は?今日はもう、誰も居ないと思うから…」
甘えるような目で見つめられ、俺は頷いてしまった。
一緒に居られる時間を少しも無駄にしたくない。きっと有川はそう思っているのだろう。
俺の卒業と同時に、二人の関係が終わってしまうのではないかという不安が、やはりどうしても拭い去れないのかも知れなかった。
朝からバタバタと忙しい1日だったが、全寮生の引越しも終わり、寮の中はまた静かになった。
部屋の中の片付けも済んで、消灯時間ギリギリになると、俺は部屋を出てオーディオ室のドアを開けた。
勿論、もう、そこには誰も居なかった。
俺は以前小金井先輩に抱かれたソファに近付くと、その真ん中に腰を下ろした。
とうとう、あと1年でここでの生活も終わる。
本当に、沢山のことがあった。
辛いことも多かったが、ここで出会えた沢山の人たちのことを思うと、入学して良かったと心から思った。
「少しは、成長できたのかな?俺……」
呟いて、俺は背中をソファの背に預けた。
深く息を吐いて目を閉じる。
そして、ここから去って行った人たちの顔を思い浮かべた。
小金井先輩も、友井先輩も、そして、真藤先輩も、みんな心の中に辛い思いを抱いていた。
俺だけじゃない。みんな、何かを抱えているのだ。
「千冬…?」
薄っすらとドアが開いて、そこから顔を覗かせた慶が俺の名前を呼んだ。
ハッとして目を開け、首を起して見ると、慶は心配そうな表情を浮かべていた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
訊かれて首を振ると、俺は近付いてきた慶を見上げた。
「別に、何でもないよ。ちょっと考え事してただけ…」
俺が言うと、慶はまだ眉を寄せたままで俺の座っているソファに目をやった。
「この部屋…、あの時の部屋だろ?」
慶が覚えていたことに、俺は少し驚いた。
「うん……」
俺が頷くと、慶は複雑な表情を浮かべて隣に腰を下ろした。
「あの時は、本当に心配した。千冬が傷つけられたのが堪らなく悔しくて…」
「慶……」
顔を見ると、慶は薄っすらと笑みを浮かべた。
「けど、俺なんかが心配しなくても大丈夫だって、千冬は強いんだって分かったよ。千冬はいつでもちゃんと、自分ひとりで乗り越えていく。俺なんかより、ずっと強くてしっかりしてるんだよな」
勿論、慶が皮肉で言っているんじゃないことは分かった。心からそう思って、慶は言ったのだ。
でも、俺はなんと答えていいのか分からなかった。
慶が思っているように、俺は強くなんか無い。何時だって、目の前の問題から逃げてばかりいるのだ。
「そんなの違う。俺は、全然、強くなんか無いよ」
「いや、強いよ。千冬は……」
慶の言葉に、俺は唇を歪めて笑った。
「そうだよね…。小金井先輩とあんなことがあって、みんなに心配掛けたのに、今ではしゃあしゃあとして有川と付き合ってるんだもんな。でも、それは強いんじゃない。俺はただ、恥知らずなだけだよ」
「千冬…」
眉を寄せて俺の名を呼ぶと、慶は手を伸ばして俺の腕を掴んだ。
「なあ、いつでも千冬は自分のことばかり悪く言うけど、そういうの、もうやめた方がいい。誰も千冬のことを悪い人間だとは思わないよ。千冬は、強くて優しくて、思いやりのある人間だ。恥知らずだなんて、誰ひとり思ってない」
「慶…」
驚いて見つめると、慶はフッと笑みを浮かべた。
「いつからかな…、千冬が俺に対して心を閉ざしているように感じてた。前はもっと、気軽に何でも話してくれた気がする。なにか、俺が千冬の不審を買うようなことをしたのかな…?」
「べ、別に、そんなことないよ。何も変わってなんかないし、慶に対しても前と同じだよ」
俺が答えると、腕を掴んでいた慶の手に少しだけ力が篭った。
「そうかな…?俺は、何だか千冬を遠くに感じて寂しいよ」
「や、やめてよ…」
慶の手を解くと、俺はその腕を自分で抱えた。
なんで、今更こんなことを言うのだろう。
やっと、慶のことを心から締め出せたと思っていたのに、なんでこんな言葉を俺に掛けるのだろうか。
「俺は変わってなんか無い。全然、前と一緒だよ。ただ、慶にも彼女が出来たし、其々忙しくなったから、だから、あんまり話す機会も無くなったってだけだろ?……ほら、もう部屋に戻ろう。消灯の時間が来たよ」
俺が立ち上がると、慶も立ち上がった。
「なら、部屋でもっと話そう?俺、前からずっと、千冬とゆっくり話したいと思ってたんだ」
「……いいよ。じゃあ、彼女の話とか聞かせてよ。俺、年上の女子大生だってことしか知らないもんな」
怒らせるつもりは無かったが、素直に頷けなくて、俺はそう言うとオーディオ室を出た。
慶は怒った様子は無かったが、黙って俺に付いて部屋を出ると、続いて自分たちの部屋に戻った。
「そう言えば、暫く瑠衣子ちゃんのこと聞いてなかったね?具合、どうなの?今は家に居るの?」
ふと思い出して、部屋に入って振り返りながら言うと、慶は溜め息をつきながら首を振った。
「いや、あんまり良くないんだ。今も病院だよ」
「そうなんだ…。心配だね…」
今まで、様子を聞かなかったことを後悔しながら俺はそう言った。
「この前、メールで千冬のこと訊いてきたよ。いつかまた、会いに来てくれないかなって…。無理だって言ったら、手紙でもいいから欲しいって…。書いてやってくれるかな?」
「勿論、書くよ。早く言ってくれればいいのに」
「うん。ありがとう…」
俺がベッドサイドの読書灯を点けると、慶が部屋の明かりを消して自分も同じように読書灯を点けた。
薄明かりの中、其々のベッドに腰を下ろして向かい合うと、慶は言った。
「本当は、また夏休みにでも家に来てくれないかと思ってたんだ。瑠衣子は千冬のことが本当に好きみたいで、いつも会いたいって言ってる。特に、具合が悪くなると人恋しくなるみたいで、よく千冬のことを訊いてくるんだ」
どうしてそんなに、瑠衣子ちゃんが俺のことを気にしてくれるのか分からなかったが、きっとあの時の俺に、彼女は同情したままなのだろうと思った。
「会いに行くよ。瑠衣子ちゃんがそう言ってくれるなら、俺は全然構わない」
病床の少女に心配させたままでいる訳にはいかない。早く心配を取り除いて、少しでも楽になって欲しかった。
もう俺は、慶に片想いしていたあの頃の俺ではないのだと、彼女に知って欲しいと思った。
「本当か?瑠衣子、凄く喜ぶと思うよ。ありがとう、千冬…」
「お礼なんか言わないで。もっと、瑠衣子ちゃんのこと気にしてるべきだったのに…」
「いや、本当は千冬に甘えるべきじゃないって分かってるんだけどな。でも、瑠衣子には出来ることはしてやりたくて…」
「うん、分かるよ。俺なんかに会いたいって言ってくれて嬉しいよ。夏休みになったらお邪魔するから」
「うん…。なあ、そっちに行ってもいいか?」
訊かれて、少し躊躇ったが結局俺は頷いた。
「いいよ」
俺が答えると、慶は立ち上がって来て俺の隣に腰を下ろした。
こんなに傍に慶が座るのは、本当に久し振りだった。慶に彼女が出来てから、俺は意識して彼から離れようとしていたからだ。
「なあ千冬、去年の夏休み前に、本当は何かあったんだろ?」
「……何かって?」
聞き返すと、慶は首を傾げながら俺を見た。
「言いたくないんだと思って訊かなかった。でも、本当は話して欲しかったんだ。やっぱり俺は、千冬に信頼されてないんだなと思って、ちょっとガッカリしたんだよ。真藤さんみたいにはなれないだろうけど、もう少し、自分は千冬の近くに居るもんだと思ってた。……けど、それは俺の思い上がりだったんだって分かった」
慶の言葉に、俺は戸惑うばかりだった。
まさか慶が、俺の信頼を得たいと思っているなんて少しも考えたことは無かった。それどころか、夏休み前の俺の態度から、きっと呆れてしまっているだろうと思っていた。
いや、軽蔑さえしているだろうと考えていたのだ。
「俺…、慶はその、俺と関わりを持つことを望んでないのかと…、ずっとそう思ってた」
迷いながら俺が言うと、慶は驚いたような顔になった。
「なんでそんなことを?俺は、今までに付き合った友達の中でも、千冬は特別だと思ってる。だから、家にも連れて行ったし、母親のことも話した。彼女が出来たことだって一番に話したし、千冬が傷つけられていないか心配だってするよ。千冬には迷惑だったのかも知れないけど…」
「俺……」
言葉が見つからなくて俺は黙ってしまった。
何時だって俺は慶の特別になりたかった。でもそれは、慶の言っているのとは意味が違う。
そして、俺の望みは多分一生叶うことは無いだろう。
贅沢な望みだと思う。慶が特別だと言ってくれるなんて、それだけで喜ばなくちゃならない筈だった。
「ごめん……。何て説明していいか分からなくて…。それに、言ったら今度こそ本当に呆れられるだろうって思った。…ううん、慶にだけは知られたくなかったんだ」
「千冬……」
慶の手が俺の手の上に乗った。
それを見ながら、俺は口を開いた。
「あの時……、みんなに散々心配してもらって注意だってされてたのに、俺はまた懲りずに不用意に行動して、上級生数人に空き教室へ連れ込まれたんだ」
そこまで話すと、キュッと慶の手が俺の手を握った。
それはまるで、俺を励ますような行動だった。
「縛られて、脱がされて、身体を触られた。…でも、危ないところで、隣の部室に居た有川が異変に気付いて来てくれたんだ」
「じゃあ、無事だったんだな?」
顔を上げて慶を見ると、俺は頷いた。
「うん…」
「良かった…」
心からホッとしたように慶が言った。
「多分、あの時だと思うけど、千冬が具合悪そうにしてた時があったよな?変だと思ってたんだ…。千冬は誤魔化そうとしてたけど、やっぱり、普通じゃなかったんだな…」
「うん、ごめん…。その前だって、隠し撮りのことで迷惑掛けたばっかりだったし、それ以上心配掛けたくなかったんだ」
「そんなの、気にすること無いのに…。じゃあ、それが切っ掛けで有川と付き合うことになったのか」
「うん、まあ…。色々と面倒見てもらって、頼りになるし男らしいし、何時の間にか好きになってたんだ」
「そうか…」
有川に犯されたことは、勿論言うつもりは無かった。そんなことを言ったら、俺だけではなく有川まで軽蔑されるだろう。
「慶に…、嫌われたくない。だから、軽蔑されるようなことは隠しておきたかった」
「千冬…」
不意に抱き寄せられて、俺は息を止めた。
何故慶は、いつもこうして忘れようとする俺の心を揺さぶるのだろう。離れようともがく、俺の心をまた捕まえてしまうのだろうか。
「軽蔑なんてする筈無いだろ?何時だって千冬は気を遣い過ぎるんだ」
「慶……」
恐る恐る腕を回し、俺は慶の肩に顔を埋めた。
これで最後。
本当にこれで最後にしよう。
想いは全て断ち切るのだ。
そして俺は、慶の望むような存在になろう。
「ありがとう、慶……」
そう言って俺は目を瞑った。
一生叶わない想いを、心の奥底に封印する為に。