涙の後で


-10-

慶のことを諦める為に距離を置こうとしていた俺だったが、あの日を堺に、俺はもっと慶に歩み寄ろうとしていた。
自分の心がどんなに悲鳴を上げても、苦しくても、耐えればいい。慶の気持ちを踏みにじるような真似はしてはいけないと思った。
彼への秘めた想い以外の全てを、俺は慶に話そうと思った。
それが、俺のことを特別だと言ってくれた慶に対する俺の答えだろうと思ったのだ。

俺が自分のことを話すようになると、慶も自然と色々なことを俺に話してくれるようになった。
だから俺は、今までの2年間には知らなかった慶のことを随分と知ることになったのだ。
彼女のことも、勿論話してくれた。
写メも見せてもらったが、思った通り、聡明そうな、綺麗な人だった。
実家暮らしで、兄弟は妹一人、トイプードルを2匹飼っていて、慶と同じく読書家で出版社に就職したいと考えているらしい。
卒業後のことについても、訊くと気軽に答えてくれた。
入学当初に聞いたきり、その後は進路を変えたのかどうか知らなかったが、やはり慶は付属の大学には行かず、夜学へ入って昼間は働くつもりらしかった。
立ち入ったことを訊くのをずっと遠慮していた俺だったが、慶の生い立ちに付いても思い切って訊いてみた。
「俺の母親のことは、前にちょっと話したろ?」
「うん、生きてるけど縁は切れてるから会ってないって…」
「うん。実の母とは生まれてすぐに別れたんだ。父が引き取って、まだその頃は元気だった祖母と、その頃からお手伝いをしていた小松さんに面倒を見てもらった。……俺が5歳の時、まだ2歳だった瑠衣子を連れて今の母が家に来た。瑠衣子の父親は、瑠衣子がまだお腹に居る時に事故で亡くなったそうで、その後、母は栄養士をしながら瑠衣子をひとりで育ててたそうだ。母はウチの病院で、入院患者の献立を考えたり栄養指導をしてたんだって。それで親父が見初めたらしいよ」
「そうなんだ。……じゃあ、瑠衣子ちゃんは本当のお父さんを知らないんだね?」
「ああ…。だから、すんなりと親父を本当の父親だと思えたんだろう。まだ、物心もついてなかったし、親父も瑠衣子のことを本当の娘と思って育てたしな」
「そう…。じゃあ、お父さんとお母さんは再婚同士なんだね?」
俺が言うと、慶は首を振った。
「いや、親父と俺の本当の母親は結婚してないんだ。……俺の母親は計算高い女だったから、医者の父とどうしても一緒になりたくて、わざと俺を妊娠した。親父はそんな母親の気性に付いていけなかったんだろうな。子供は引き取るから別れてくれって、随分な額の手切れ金を渡したそうだ」
それを聞いて俺は驚いた。あの院長にそんな過去があったなんて信じられなかったのだ。
幾ら慶の母親の気性が好きではなくても、子供まで作った相手と別れるような人だとは思えなかった。
もしかすると、慶が院長と反りが合わないのは、金で母親と手を切った父を許せないからなのかも知れない。
複雑な慶の家庭。
慶の人を寄せ付けないような雰囲気も、そこから来るのだろうか。
だが、こんな生い立ちを背負っていれば、それも仕方の無いことだろう。
「お母さんとは、全然会ってないの?」
躊躇ったが、俺は思い切って訊いてみた。すると、慶は軽く肩を竦めるようにしてベッドの上に身を横たえた。
「小学生の時に1度だけ会った。……俺の学校帰りを待ち伏せしてたんだ。けど、俺にとっては初めて会うようなもので、母親だとは思えなかった」
言いながら慶は、俺の枕の上に乗っていた雑誌を、見るでもなくパラパラと捲った。
「一緒に暮らしたいって泣きながら言われたけど、俺は怖くなって、振り払って逃げて来た。親父には言えなくて黙っていたけど、俺の様子がおかしいのに気付いて今の母が訊いてきた。正直に話すと、親父が母に会いに行ったみたいだった」
溜め息をつき、慶は雑誌を閉じると下から俺を見上げた。
「後から知ったけど、その頃、母は金に困ってたらしい。俺に会いに来たのも、もしかすると金の為だったのかも知れないな…」
然して悲しそうでも無く慶は言った。
だが、幼かった慶の心に、その出来事は傷を作ったに違いなかった。
慰めたい気持ちになり、恐る恐る手を伸ばして、俺は慶の髪に触れた。
だが、慶は嫌がることも無く、触られるに任せて目を閉じた。
「俺は、人の気持ちが良く分からない。今の母は可愛がってくれたけど、やっぱり何処か心に鎧を纏っていたような処があったからなんだろう。だから、千冬のことも随分傷つけたよな?……でも、傷つけたのかも知れないって酷く心配したり、後悔したり、こんな風に思えるようになったのは、千冬と出会ってからだった。それまでの俺は、人のことなんて気にしたことも無かったんだ…」
「慶……」
目を開いて、慶はまた俺を見上げた。
「千冬は綺麗だ。いつも人のことを考えて、気遣って、そして傷ついてる。そんな千冬の傍にいたから、俺も少しは人間らしくなれたんじゃないかって思うんだ」
「何言って……。俺なんか、綺麗じゃない。自分がどんなに嫌な人間か、自分が一番良く知ってる」
慶の言葉に胸が痛んだ。どうしていつも、慶は俺に理想を見ようとするのだろう。
「また……」
起き上がると、慶は正面から俺の目を見つめた。
「どうして千冬はそうなんだろうな…?皆が千冬を好きなのに、千冬だけが自分を嫌う。……俺は、このままずっと千冬との関係を続けていきたい。そんな風に思える相手に出会えたから、この学校に来て良かったと思ってるんだ」
熱い物が込み上げて、俺は泣きそうになっていた。
自分の望むような形で愛されなくても、俺は慶に必要とされているのだと知った。
切ない一方で、それは酷く感動的なことだった。
「俺も、ずっと、慶の傍に居たい…」
本心を吐露し、それでも気付かれないと知っていた。
慶にとっての俺は、“親友”なのだと分かったからだ。
「卒業しても変わらないでいられるよね?」
「勿論…」
笑みを浮かべて頷いた慶に、俺も頷いた。
「慶が作家になれるように、俺、ずっと応援してるから…」
「ありがとう。千冬が認めてくれるような文章が書けるように頑張るよ」
そう言って立ち上がると、慶は部屋を出て行った。
何処か人目の無い場所で彼女に定期便の電話をするのだろう。それは、このところ慶の日課になっていた。

来週の試験が終わると夏休みに入る。

俺は終了式の日に慶と一緒に彼の家に行き、病院の瑠衣子ちゃんを見舞う約束をしていた。
その後で、慶はまた寮へ戻るらしかったが、俺はそのまま家に帰ることになっていた。
「幸せだよ、俺……」
呟いて、俺は慶の寝ていた場所に横になった。
「こんなに思われて、幸せだ……」
また呟くと、目尻を涙が伝っていった。
彼女は別かも知れないが、今の俺は慶の一番近くに居るのだ。間違いなくそれは、俺の望んでいた場所だった。
だから俺は、誰よりも幸せなのだ。
「幸せ……」
ずっと、ずっと、慶の望むように、彼を傷つけないように、俺は自分を偽ってもこの場所に居る。
ずっと、この場所に居るのだ。



俺が慶の家へ行くことが不満だったのだろう。知ってからというもの有川はずっと不機嫌だったが、病気の瑠衣子ちゃんのことを話すと渋々ながら頷いた。
去年と同じで、また俺に会いに来ると言い出すかと思ったが、実家の店を手伝うように言われたらしく、それもあって機嫌が悪かったらしい。
「1か月近くも会えないなんて信じられない…」
俺を抱きしめて項に顔を埋めると有川は言った。
「お盆休みには会えるって言ってたろ?1か月もないじゃないか」
俺が笑うと、恨めしそうな眼が見上げた。
「千冬さんは平気なんだ?」
普段はしっかりしていて大人っぽいくせに、二人きりになると有川は甘え上手になる。そして俺は、ついつい可愛いと思ってしまうのだった。
「そんな訳ないだろ?俺だって寂しいよ」
言いながら腕を回して、今度は俺が見上げた。
「今度は俺が会いに行くから…」
「ほんと?」
「うん…。絶対…」
俺が約束してキスを交わすと、やっと有川の機嫌も直ったようだった。

その有川に見送られて、修了式の日、俺と慶は混雑するバスに乗り、駅まで行った。
電車を乗り継ぎ、昼前に慶の実家がある駅に着くと、そのままタクシーに乗り病院へ向かった。
病室の瑠衣子ちゃんは驚くほど顔色が悪かった。
元々色の白い子だったが、その白さは尋常ではなかった。
具合が悪いのに、俺と慶を見ると、瑠衣子ちゃんは嬉しそうに笑みを浮かべて起き上がろうとした。
「い、いいよ。寝てて、瑠衣子ちゃん」
慌てて俺が言うと、瑠衣子ちゃんは首を振って起き上がった。
「いいの。今日は凄く調子がいいから、大丈夫」
無理をしているのは明らかだったが、彼女の気持ちを尊重して、慶は無理に寝かせようとはしなかった。その代わり、ベッドの電動ボタンを押して背の部分を起してやった。
「今日、来てくれるってお母さんに聞いて、凄く嬉しかった。ありがとう、千冬さん。我侭言ってごめんなさい」
「ううん、そんなこと無いよ。俺だって瑠衣子ちゃんに会いたかったんだから…」
「本当?」
「うん。あ、これ、お土産…」
俺はバッグから包みを出して、瑠衣子ちゃんに渡した。
前に家に帰った時、祖父母に会いに行くついでに、またあの雑貨屋に行って猫の置物を買ってきていた。有川にやったのとポーズは違うが、これも千秋に良く似ていたのだ。
「わあ、ありがとう。……あ、猫だ。可愛いっ」
「ウチの猫にそっくりなんだ。千秋って言うんだよ」
言いながら、俺はプリントした千秋の写真を彼女に渡した。
「本当だぁ、そっくり。千冬さんち猫さん居るんだ。可愛い…」
嬉しそうに、置物と千秋の写真を眺めている瑠衣子ちゃんを、俺は横から眺めた。
本当に、以前に会った時とは違い、かなり具合が悪そうだった。
顔色もそうだったが、随分痩せてしまったし、何よりも生気が無い。俺は心配になって、隣に立っていた慶を振り返った。
慶も俺が何を心配しているのか分かったらしく、瑠衣子ちゃんに気付かれないように、そっと頷いた。
前から聞いていたが、やはり瑠衣子ちゃんは大分悪いらしい。
俺は元気そうに振舞おうとしている彼女が不憫でならなかった。
「千冬さん、家に泊まってくれるんでしょう?私も千冬さんが居る内に、1回ぐらい家に帰れたらいいのに…」
「ごめん。今度は俺、長くは居られないんだ」
「そうなの?」
「うん、家に帰って、祖父母のやっているカフェを手伝うことになってるんだ。…今度また、ゆっくりお邪魔するから、それまでに元気になってて?今度は一緒に公園へも行こうよ。ね?」
俺がそう言うと、瑠衣子ちゃんは勢い良く頷いた。
「うんっ。約束ね?私、絶対に退院するから」
「うん、約束…」
いつかもそうしたように、俺はまた瑠衣子ちゃんと指切りをした。

名残惜しそうな瑠衣子ちゃんに、俺は明日帰る前にまた来るからと約束をした。
慶の家に着くと、夫人とお手伝いさんが迎えてくれた。
昼食の準備はもう出来ていて、俺と慶は夫人の心尽くしの料理を頂いた。
以前に泊まったのと同じ部屋を用意してくれていたので、俺は食事の後で部屋に入ると少し横になった。
前に来た時のように、期待感や慶と二人っきりで過ごせることへの甘酸っぱいような気持ちは、今は無かった。
いや、余計な気持ちを抱かないようにずっと気を付けていた。
溜め息をつき、俺は寝返りを打った。
瑠衣子ちゃんの様子が気に掛かる。本当に、随分身体の具合が悪そうだった。
まさか、命に関わるようなことは無いのだろうが、慶たち家族も心配だろう。
眠る慶の唇を盗んだ俺の卑怯な行為を、瑠衣子ちゃんはその小さな胸に収めたままで誰にも言わずにいてくれた。
それどころか、俺を軽蔑することも無く、こうして訪問を喜んでくれる。
本当に綺麗な心を持った、天使のような少女だった。
そんな彼女だから、元気になって欲しいと思わずにはいられない。
俺に出来ることは何も無いが、それでも喜んでくれるなら、何度でも会いに来ようと思った。