涙の後で
ー第9部ー
ドアにノックの音がして、返事をすると慶が現れた。
部屋に来ないかと誘われて、俺は頷いた。
「母に頼まれて、1週間ぐらいはこっちに残ることにしたんだ。本当は明後日から入る筈だったんだけど、バイト先に連絡したら、OKもらえたんで…」
「そうなんだ。でも、その方がいいよ。瑠衣子ちゃんも喜ぶと思うし」
「うん、瑠衣子のあの様子を見たら、明日帰るって訳にもいかないし…。あのな、もし無理じゃなかったら、千冬ももう少し居てくれないかな?」
「え…」
言われて、俺は躊躇った。
今回は1泊のつもりで来ていたし、祖父の家にも、明日行くと言ってある。それに、実は明後日、真藤先輩が祖父の家に来ることになっていたのだ。
先輩とは長期休みになると何度か会っていたのだが、去年の夏休みに来た時に気に入ったらしく、今年の夏休みは祖父の家に暫く滞在して店も手伝いたいと言ってくれたのだ。
「俺が居ても仕方ないんじゃないのかな?瑠衣子ちゃんにも何もして上げられないし…」
俺が言うと、慶は首を振った。
「そんなことない。瑠衣子は千冬のことが本当に好きなんだ。多分、千冬に憧れのような気持ちを持っているんだと思う」
「そ、そんな、まさか…」
思い掛けない慶の言葉に、俺は戸惑った。
「有り得ないよ、そんなの。瑠衣子ちゃんの憧れは慶だろ?」
「いや、俺は瑠衣子にだらしないとこばっかり見せてるから、駄目な兄貴だと思われてるよ」
そう言って、慶は苦笑した。
慶は知らないが、俺だって瑠衣子ちゃんには一番醜い姿を見られているのだ、そんな俺に憧れてくれる筈なんか無い。
だが、瑠衣子ちゃんのことが心配じゃないと言えば嘘になる。彼女が望んでくれるのなら、俺は1日でも長く顔を見せたいと思った。
「じゃあ、1日延ばして明後日の朝に帰るよ。明後日は、どうしても帰らないとならないから…」
「うん、ありがとう。瑠衣子、凄く喜ぶよ」
ギュッと肩を掴まれて、俺は慶の妹に対する愛情の深さを感じた。
夜になって、食事を終えて部屋に戻ると、慶の父親が帰って来た。
そして、俺が居るのを知って、わざわざ部屋に訪ねてくれた。
「おかえりなさい。お邪魔してます」
俺が頭を下げると、院長は笑いながら頷いた。
「いらっしゃい。瑠衣子が我侭言って済まなかったね?でも、また来てくれて嬉しいよ」
「俺こそ、また図々しくお世話になります。あ、それから…、以前来た時、眠ってしまって済みませんでした」
俺が頭を下げると、院長は一瞬、怪訝そうな顔になった。
「え…?ああ…」
思い出したのか、また笑みを浮かべると院長は言った。
「気にすること無いよ。私が酒を飲ませたのがいけなかった」
酒と言っても、ほんの少し紅茶にブランデーを入れただけだったのだが、俺を気遣って院長はそう言ってくれたのだ。
「いえ…。部屋まで運ばせてしまって…、重かったでしょう?」
「そうだな、瑠衣子よりは幾らか重かったかな?」
そう言って、院長はクスっと笑った。
「後で、オーディオ室に来ないか?また、色々と話を聞かせて欲しい」
「あ、はい…」
俺が返事をすると、院長は頷いて自分の部屋に行った。
相変わらず慶に良く似ている。そして、疲れているようだったが、それでも男の魅力に溢れていた。
慶は嫌がるかも知れないと思って黙っていたのだが、俺は風呂に入って部屋に戻ると、脱いだ服を置いてオーディオ室を訪ねた。
院長は以前の時と同じように、酒を呑みながらクラッシックを聴いていた。
「やあ、来たね?」
笑みを見せてそう言うと、院長は俺をソファに座らせてまた紅茶を淹れてくれた。
「今日はブランデーは止めようか」
笑いながらそう言われ、俺は少し頬を染めた。
「瑠衣子の為にわざわざ来てくれたんだってね。ありがとう…」
俺の前に紅茶のカップを置きながら院長は済まなそうに言った。
「いえ、俺も瑠衣子ちゃんに会いたかったし、それに、また会いに来るって約束してましたから」
俺の言葉に院長は頷いた。
「慶から連絡を貰った時、瑠衣子は凄く喜んでね。今度の入院は今までの中でも一番長くて、中々状態も良くならないもんだから、瑠衣子も随分不安になっていたんだと思う。慶と君が来てくれると知って、少し元気になったんだよ」
「そうですか…」
俺なんかの訪問でも、少しは役に立てたのかと思うと嬉しかった。
「千冬君は、進路はどうするの?このまま付属の大学かな?」
訊かれて俺は頷いた。
「はい。元々そのつもりで入学したので…」
「そうか…。慶は夜学に行くつもりだと言っていたが、気持ちが変わった様子はないのかな?」
どうやら、相変わらず慶は院長とはあまり話をしていないらしい。慶のことを訊きたくて、院長は俺をこの部屋に誘ったのだろう。
「はい、変わってないみたいです。夜学に行って、昼間は働きたいらしいです」
「そうか。まあ、それもいいかも知れない。自分で自分の道を決めて進むんだから、私ももう、とやかく言うつもりはないんだよ」
慶に後を継いでもらうことは諦めているらしく、院長はそう言った。
「そう言えば、千冬君は彼女は居ないの?」
話題を変えるつもりだったのだろうが、突然訊かれて、俺は飲み掛けの紅茶を吹き出しそうになった。
「い、いませんよ」
俺の様子を見て、院長は笑った。だが、次の俺の言葉を聞いて少し驚いたようだった。
「慶は居るみたいですけど…」
「え……?」
思い掛けないことを聞いたという表情に、俺は少し意外に思った。慶がモテることぐらいは、知っているのかと思っていたのだ。
「そうか、慶が…」
何だかホッとしたように、院長は呟いた。
「慶に彼女が居るのって意外なんですか?」
俺が訊くと、院長は苦笑した。
「いや…、母親のことがあるんで、慶は少々トラウマになってるのかと思っていたんだ。それもあって、わざわざ男子校なんか選んだのかと…。でも、そうか…、そんなことは無かったんだな…」
安心したように院長は言った。
やはり、慶を母親と引き離す結果になってしまったことを、院長はずっと気にしていたのだろう。慶は父親と距離を置こうとしているようだったが、院長の方ではもっと歩み寄りたいと思っているに違いなかった。
だが、慶が女性嫌いなのではないかと心配していたとは思わなかった。中学の時にも彼女が居たと聞いていたが、家族には知らせていなかったのかも知れない。
(彼女は居ないけど彼氏は居ます、なんて言ったら、驚かれるだけじゃ済まないんだろうな…)
そんなことを思って、俺は心の中で苦笑した。
瑠衣子ちゃんも院長も、本当の俺を知らない。
知ったらきっと、軽蔑するに違いない。2度と、俺に会いたいなんて思わないだろう。
2杯目の紅茶を貰い、それから1時間ほどを院長と過ごした。
この人とこんな時間を過ごせるのは、これが最後かも知れないと思いながら、俺はこっそりと、自分の知らない父親というものを彼に感じようとしていた。
今日帰ってしまうと思った俺が明日まで居ると知り、瑠衣子ちゃんはとても喜んでくれた。
午前中はずっと彼女の病室で過ごし、その後で慶と二人で街へ出た。
昼食を食べて、本屋などを巡り、慶の買い物に付き合って、午後からはまた病院へ行った。
明日の朝は早くに出るつもりだったので、今日の内にもう1度瑠衣子ちゃんの顔を見ておきたかったのだ。
慶が飲み物を買いに行っている間に、俺は瑠衣子ちゃんと二人で話をすることが出来た。
「前にメールで教えてもらったけど、慶ちゃんに彼女が出来たって本当なんですか?」
心配そうな顔でそう訊かれ、俺は笑いながら頷いた。
「本当だよ。凄く綺麗な女子大生だよ」
俺の言葉に、瑠衣子ちゃんの顔が曇った。
「でも…、千冬さん…」
口篭った瑠衣子ちゃんの手を軽く叩き、俺はまた笑みを見せて言った。
「心配してくれてるんだとは思ってたけど、でも、俺なら大丈夫だよ。瑠衣子ちゃんには軽蔑されるかも知れないけど、俺もずっと前から付き合ってる相手が居るんだ。写真部の後輩なんだけど」
「え?本当?」
「うん、慶には負けるかも知れないけど、凄くカッコいいよ。だからもう、俺のことは心配しないで?慶のことは、もう友達だと思ってる。あの時のことは忘れて欲しいんだ」
俺がそう言うと、瑠衣子ちゃんは少し考えてしまったようだった。
だが、ぎこちなくだが笑顔を見せてくれた。
「うん、分かった。千冬さんがそう言うなら、私も忘れるね?でも、慶ちゃんとはずっと友達で居てね?……慶ちゃんは、人に心を開くのが苦手だから、千冬さんは特別なんだと思うの」
「うん…。慶とはずっと友達だよ。それに、瑠衣子ちゃんともね?」
そう言って俺が笑うと、瑠衣子ちゃんはやっと本当の笑みを見せてくれた。
「うんっ。ありがとう…」
夕方まで病院に居て、瑠衣子ちゃんと別れの挨拶をすると、俺達は慶の家に帰った。
やはり思った通り、瑠衣子ちゃんは俺のことを心配してくれていた。
軽蔑されても仕方のないことをしたのに、瑠衣子ちゃんは真剣に俺のことを案じてくれていたのだろう。その気持ちを思うと、俺は有難く、そして申し訳ないと思った。
夕食の後で部屋を訪ねると、慶はパソコンを開いていた。
「ごめん、邪魔した?」
「いや、いいよ。どうせ、何も書けてなかった」
苦笑しながらそう言い、慶は俺を部屋へ招き入れた。
「慶、夏休み中に、もう帰って来る予定は無いの?」
俺が訊くと、慶は少々眉を寄せた。
「いや…。そのつもりだったけど、昨夜親父に言われたんだ。瑠衣子を元気付けに、また来てやれって。本当は、夏休みが終わるまで学校に戻るなって言いたかったんだと思うんだけどな…」
「そう…。じゃあ、また戻ってくるんだね?」
「うん。1度戻って、バイト先と相談してみる。シフトを調整すれば、少し長めに休みを取れると思うから」
「分かった。じゃあ、帰れる日が分かったら知らせて?俺も、邪魔じゃなかったら瑠衣子ちゃんに会いに来たいから」
「千冬…」
俺の名を呼びながら、慶の手が肩の上に載った。
「ありがとう。ほんとに…」
「ううん。何も出来ないけど、少しでも元気付けられるなら嬉しいから」
そう言って、俺は慶の部屋を出た。
瑠衣子ちゃんのあんな姿を見たら、とても放って置くことは出来ない。俺と会うことを喜んでくれるなら、また会いに来ようと思った。
俺の醜い秘密を守ってくれている彼女に、出来ることは何でもしてやりたかったのだ。
部屋に戻って本を読んでいると、ドアにノックの音がした。
「はい…」
ドアを開けると、院長が、いつかお土産にくれたチョコレートの包みを持って立っていた。
「明日の朝、帰るんだってね?私も明日は早くに家を出てしまうので会えないと思うんだ。これ、前に喜んでくれたからね」
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながら、俺はチョコレートの包みを受け取った。
「いや、こんなもので悪いけど、瑠衣子の為に来てくれた御礼だよ。……良かったら、また来てくれるかな?」
「はい、慶と予定を合わせて、またお邪魔します」
俺が答えると、院長は笑顔で頷いた。