涙の後で


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瑠衣子ちゃんが疲れてきた様子だったので、俺と慶は病室を後にした。
明日も来るというと、瑠衣子ちゃんは安心したように頷いた。
「慶、俺が帰る時に、また学校へ戻るの?」
訊くと、慶は首を振った。
「いや、俺は夏休みが終わるまでこっちに居ることにした」
「うん、その方がいいよ。そうしてあげて?」
心細そうな瑠衣子ちゃんの姿が脳裏から離れずに、俺は思わずそう言った。
「千冬は13日に有川と会うんだっけ?有川の家に行くのか?」
「うん…、そのつもりだったけど、俺の方へ来てもらうことにしたんだ。有川の家の人に気を遣わせたくないし」
「そうか…」
「慶は?大丈夫なの?彼女を放って置いて」
夏休み前には頻繁に会っている様だったが、夏休みが終わるまで慶がこちらに居るとなると暫くは会えなくなるだろう。余計なお世話だと分かっていたが、話の流れで俺はそう訊いた。
「うん。瑠衣子のことは彼女も知ってるから、9月になるまでは会えないって言ってきた。別に、寂しそうでも無かったよ」
「え…?」
聞き返すと、慶は苦笑した。
「向こうは、そろそろ、別れたいと思ってるかも知れない」
「どうして?」
驚いて俺が聞き返すと、慶はまた苦笑した。
「所詮、俺は高校生だしな……。物足りないんだと思うよ。最初は話も合って楽しかったのかも知れないけど、友達にだって紹介し辛いだろうし、俺じゃ酒の席にも付き合えないし」
上手くいっているものだとばかり思っていたので、慶の話を聞いて少なからず驚いた。
今まで、慶の様子からは、まるでそんな感じはしなかったのだ。
「そんな…、慶の気のせいじゃないの?」
俺が言うと、慶は肩を竦めた。
「そうかもな…。でも、多分、俺が卒業したら続かないと思う。彼女はまだ大学も1年あるから、遠距離になるし就活もあるしな…」
付属の大学は、高校からは随分離れた場所にある。慶は夜学に通うつもりらしかったので、確かに今までのように頻繁には会えなくなるだろう。
「でも、彼女から別れたいって言われた訳じゃないんだろ?だったら、そんな心配は早過ぎるよ」
俺が言うと、慶は頷いた。
「そうかもな……」
それきり黙ってしまったので、俺もそれ以上は何も言わなかった。
だが、気の所為か、慶はもう諦めてしまっているようだった。そして、その事を余り辛いと感じている様には見えなかったのだ。
(慶は、物にも人にも、余り執着しないのかも知れない…)
だとしたら、もし顔を合わせなくなったら、俺のことを何時まで覚えていてくれるのだろうか。
俺はきっと、何時までも忘れられないのに、俺のことが慶の頭の中に残っている時間なんて、きっとほんの僅かなのだ。
そう考えただけで辛くて、俺は沈黙が酷く怖くなった。
「慶…」
「うん?」
話しかけると、慶はすぐに笑顔で俺を見た。
「あ、あのさ、持って来た本を、来る時にもう読み終えちゃって…。なんか借りていい?それか、本屋に行きたいんだけど」
「ああ、じゃあ貸すよ。俺、帰って来る前に少し買ってきたし、俺の部屋にも、まだ千冬が読んでないのもあると思うから」
「うん、じゃあ…」
頷くと、それきり会話は止まってしまった。
また不安になったが、話題を見つけられないまま、俺は慶の隣を歩いた。

バスに乗って、慶の家に着き、夫人とお手伝いさんにまた歓迎を受けた。
夫人はまた、俺の為にケーキを焼いてくれていて、それを食べながら、みんなでお茶を飲んだ。
その後で、瑠衣子ちゃんの分のケーキを持って、夫人は病院へ行った。今日はそのまま、夜まで帰らないらしい。
この頃、瑠衣子ちゃんの具合が良くないので、夫人は普段なら、朝食を済ませて出掛けると夕方まで病院に居るらしかった。
俺に気を使わないで欲しいと言ったが、夫人は自分にも息抜きになるからと言ってくれた。
何時もの部屋に落ち着き、俺は荷物を床に置くと、ベッドに横になった。
有川は妬いてくれたらしいが、何日ここに居たって慶と俺の間に今以上の関係など出来る訳が無かった。
2年以上も一緒の部屋に居たって、俺の想いは少しも届いていないのだ。
今更、場所が変わったからって何かが起きる訳も無い。
でも、それが悲しいとも、もう余り思わなくなってしまった。
どんなに待っていても、慶は俺を好きになってくれないのだと、諦めているのかも知れない。
そして、それよりも悲しいのは、無駄だと分かっていながら自分の想いを断ち切れないことだったのだ。
溜め息をついて目を開けると、俺はベッドから起き上がった。
「……好きだ、って…、何時かは言ってみようか……」
呟いて、俺はまた溜め息をついた。
想いを断ち切れると思えた時、その時には言おうと思う。
その決心がついた時、俺は慶に、本当の気持ちを伝えようと思った。



翌日と翌々日も、午前中は瑠衣子ちゃんの病院へ行き、午後からは慶と街へ出たり、家で本を読んで過ごしたりした。
慶の本棚を物色して3冊ほどの小説を借りたので、空いた時間はそれを読み耽った。
有川とも毎日メールで話したが、変わった様子は無かった。
13日の電車の時刻を調べて待ち合わせ時間を決めたが、丁度いい時間の電車が無くて、お昼を一緒に食べるのは無理だと諦めた。

瑠衣子ちゃんのことが心配なのか、それとも、彼女との別れが近いことを予感してなのか、慶は憂鬱な表情を浮かべることが多くなった。
気晴らしをさせてやりたいと思ったが、遊びに来た訳ではないし、何処かへ誘い出すのもおかしいと思い、何も言わずに黙っていた。
帰る前の晩に、慶に誘われてオーディオ室へ行った。
俺たちは並んでソファに座り、瑠衣子ちゃんから借りてきたCDを聴いた。
すると、慶が思い出したように言った。
「もう、明日には帰るんだな…。寂しくなるよ」
慶の言葉に俺は少し笑った。
「何言ってんだよ?寮に戻ればまた同室だろ。3年間も同じ顔見続けて、本当はうんざりしてるんじゃないの?」
そう言うと、慶はチラリと俺の方を見て、クッションの位置を直してから、寝そべるようにして寄り掛かった。
「大学に入ったら、下宿するのか?」
俺の言葉に返事をせず、慶は反対に訊いてきた。
「うん、家から通うには遠いからね。部屋を借りると思う。…慶は?」
「俺は多分、学生寮に入る。親からの援助はなるべく少なくしたいから…」
「そう……」
俺が返事をすると、慶は寝返りを打つようにして向きを変え、俺の方を見た。
「千冬が傍から居なくなるなんて変な感じだ。もう、居るのが当たり前になってるし、きっと寂しいだろうな」
「慶……」
答えられずに俺が黙ると、慶が続けた。
「千冬は早く離れたいか?俺と……」
慶の目には力がある。じっと見つめられると、慣れている筈なのに今でも怖いと思う時があった。
でも、そんな慶の目が俺は好きだった。
「そ、そんなことないよ。なんで……」
思わず吃りながら俺が言うと、慶は俺を見つめたままで言った。
「なんでかな…?なんか、ふとそう感じたんだ」

傍に居るのが辛い。

俺のその気持ちを、慶は感じ取っていたのかも知れない。
コクッと喉を鳴らすと、俺はいけないと思いながら、慶から視線を逸らした。
「ずっと変わらないって、…そう言ったろ?」
「うん、そうだな…」
慶は頷いたが、全てを信じている訳では無さそうだった。
「ごめん…、変な言い方して…。怒らないで…?」
慶が怒っている訳ではないと知っていたが、怖くなって俺は言った。
すると、慶は笑って見せた。
「怒ってないよ。俺も変なこと言って悪かった」
慶はそう言ってくれたが、俺の心の揺れは治まらなかった。
涙が滲んできて慌てて顔を背けたが、慶は気付いてしまったようだった。
「千冬?どうしたんだ?」
「な、なんでもない。ごめん……」
「なんでもなくないだろ?こっち向いて…」
「嫌だ…。見るな」
顔を背けたままの俺を、慶は引っ張って抱き寄せた。
「千冬?何で泣くんだよ?千冬……」
優しく背中を撫でられると、余計に涙が出た。
「言葉では簡単に言うけど、ずっと変わらないでなんかいられないんだ。みんな結局、離れていくんだ。ずっと傍に居るなんて無理なんだよ」
「千冬…」
「卒業したらみんなバラバラだ。もう2度と会えない人だって居る。俺と慶だって、きっと卒業したら縁が薄れていくんだ。寂しいなんて思うのは、ほんの一時なんだよ。誰かの心にずっと残っていられるなんて、俺には出来ない。出来ない…っ」
「そんなことないよ。千冬のことを忘れる訳ない。泣くなよ…。少なくとも、俺は変わらない。変わらないから…」
まるで約束するように、慶は言ってくれた。突然泣き出した俺に呆れもせず、優しく抱きしめてくれた。
でも、すぐに泣き止むことは出来なかった。
別れの予感は、慶だけではなく俺の中にもあった。
それは、友達との別れなのかも知れない。或いは、有川との別れなのかも知れない。
そして、慶との別れなのかも知れなかった。
それを思うと、寂しくて、俺の涙は中々止まらなかった。



翌朝、俺は、慶と一緒に病院へ寄ってから駅へ向かった。
今から帰るというと、瑠衣子ちゃんは寂しそうな顔になった。
「また、冬休みになったら来られるかも知れないから。それか、瑠衣子ちゃんが元気になって会いに来てくれてもいいよ、ね?」
俺がそう言うと、瑠衣子ちゃんは勢い良く頷いた。
「うん。そうなれるように頑張るね。ありがとう、千冬さん」
手を握り合って別れると、俺は病室を後にした。
少しでも元気になってくれればと思って会いに来ているが、健気な瑠衣子ちゃんに、何時も俺の方が元気付けられているような気がしていた。
慶は駅まで送ってくれると言ったが、俺は断って一人でバスに乗った。
昨夜のことで、少々気恥ずかしいところもあったし、もう何度も駅行きのバスには乗っているので、送ってもらう必要も無かったのだ。
バスの中で、慶に借りた本を広げると俺はそれに集中しようとした。
だが、昨夜のことが思い出されて俺は読むことが出来なかった。
何故、泣いてしまったのだろう。
泣くような会話は何も無かった筈だった。
それなのに、何故あんなに激しく心が揺れたのだろう。
何時か慶との別れが来ることは、ずっと前から分かっていた。
他人から見れば、友達として長く付き合っていけばいいだろうと思われるかも知れない。でも、俺の限界はもう間近だったのだ。
慶が俺を大切に思ってくれているのだと感じる度、馬鹿な俺は期待する。
期待して、雁字搦めになる。
雁字搦めになって、また動けなくなる。
諦めようとしていた決意が、揺らいで消えそうになってしまう。
だから、別れなければならないと分かっていた筈だった。
今更、泣くことなんか無い。
覚悟は出来ていた筈なのに、それなのに、どんなに辛くても、俺はまだ慶の傍に居たいのだと気付いてしまった。
慶の傍で、慶を見ていたいのだと気付いてしまった。
何度涙を流しても、慶の傍を離れたくない。
例え一生、この気持ちを分かってもらえなくても、俺は慶との関わりを無くしたくないのだ。

自分の指が震えているのが見えて、俺はその手で顔を覆った。
午後になれば、有川に会える。
そしたら少しは、気持ちも落ち着く筈だった。
夏休みが終わって日常に戻る頃には、きっと元に戻れる。慶だって、彼女と別れると決まった訳じゃない。
会えるようになれば、感じていた溝も気の所為だと思えるだろう。
毎日のようにメールや電話をして、週末毎に会いに行って、時には平日にもデートして、門限ギリギリに帰って来るほど好きなのだ。淡白に見える慶でも、そんなに簡単に諦めたりしない筈だった。
そう言えば、彼女とデートして帰って来た慶からは、時々、石鹸の匂いがした。
それの意味することを分からない訳じゃない。
身体まで繋げた相手を、そんなに簡単に諦められない筈だった。
(どんな風に抱くのかな……?)
突然そう思って、俺は顔に血が上るのを感じた。
慶に抱かれる夢を、見たことが無いと言えば嘘になる。でもそれは、あくまでも俺の妄想の中の慶に過ぎなかった。
本当の慶が、どんな風に彼女を抱くのか俺には想像すら出来なかった。
(女の人の身体を慶は知ってるんだな…)
俺が見たことすらない女性の身体を、慶の手は知っている。
昨夜、俺を抱きしめて背中を撫でてくれた手は、柔らかい女性の素肌を撫でたことがあるのだ。
そう思った途端、酷く切なくなった。
俺の骨ばった硬い身体は、慶の手には不快だったのかも知れない。
いや、そんな対象でさえないのだから、何も感じなかっただろうか。
そのどちらだとしても悲しい。
だって俺は、いつでも触れられただけでドキドキするのだから。
溜め息をつき、俺は窓の外を見た。
もうすぐ駅に着く。
電車に乗るまでには気持ちを整えよう。
慶のことを想ったまま有川に会うのは、彼に対して申し訳なさ過ぎると思った。
母と正孝さんは、今朝の内に車で祖父母の家へ行った筈で、家には千秋しか居ない。
今夜は有川と二人きりだから、きっとセックスすることになるだろう。
何時もは積極的な有川に流されているような部分もあったが、今の俺は早く抱いて欲しいような気持ちになっていた。