涙の後で


-2-

翌朝、慶と夫人に駅まで送ってもらい、俺は電車に乗った。
実家には寄らず、真っ直ぐに祖父の家に行くことになっていたが、真藤先輩が駅に着く時間を待って、一緒に行こうと思った。
先輩にメールすると、着く時間を知らせてくれたので、駅ビルの中のカフェで待ち合わせることにした。
春休みにも会えたのだが、半日くらいしか一緒に居られなかったので、今回の先輩の申し出は嬉しかった。
昨年の骨折は勿論完治していたのだが、あれからどうも祖父の身体の調子が戻らず、たまに店を休んでしまうこともあると聞いていたので、俺はこの夏も店を手伝うことにしたのだ。
それを聞いて、“それなら”と、先輩が自分も行くと言ってくれたのだ。
「バイト代は気にしなくていいって、お祖父さん達に言ってくれよ。朝昼晩と食べさせてもらうんだし、泊めてもらうんだから」
先輩はそう言ってくれたが、祖父母の性格なら先輩をただ働きさせる筈も無かった。
カフェでアイスラテを買い、窓際の席に座って本を広げた。
先輩の来る時間は分かっていたのに、気になって何度も本から目を上げると、窓の外を見た。
先輩にも食べさせたくて、慶の父親が買ってくれたチョコレートを手をつけずに持って来た。
鞄の中のそれが、溶け出してしまわないか心配で俺は鞄から取り出すと包みを解いた。
前に貰った時と同じ綺麗なリボンと包装紙を解くと、黒い箱が表れた。蓋を開けてみると、チョコレートは無事だった。
ホッとして蓋を閉じ、俺はそれをまた鞄へ仕舞った。
目を上げて窓の外を見ると、先輩の姿が見えた。俺は思わず立ち上がって、窓の外の先輩に手を振った。
先輩は俺に気付くと、軽く手を挙げて笑みを見せた。
店に入って来た先輩が近付いて来るのが見え、俺は椅子から立ち上がった。笑顔のままで俺の傍に来ると、先輩は軽く頷いた。
「久し振り。元気だったか?」
何時もと同じように、先輩はそう言った。
「はい」
俺が答えると、先輩は満足そうに頷いて、鞄を椅子の上に置いた。
飲み物を買って戻って来た先輩に、俺はチョコの箱を差し出した。
「ん?何だ?バレンタインには早いぞ」
その言葉に笑いながら俺は箱の蓋を開けた。
「慶の妹のお見舞いに行ってきたんです。その時に、慶のお父さんから貰って…。前にも貰ったことあるんですけど、美味しいんですよ。先輩と食べようと思って取って置いたんです」
「へえ?高級そうだな。…頂きます」
ひとつ取って口に入れると、美味しかったのか先輩の目が大きくなった。
「うん、旨いな。凄く滑らかだ」
先輩の言葉に頷き、俺もひとつ口に入れた。
前に食べた時も、その美味しさに感動したが、味は変わっていなかった。
口解けを味わっていると、先輩がもうひとつ口に運んだ。
「戸田の妹、良くないのか?」
心配そうな顔になって先輩が訊くのに、俺も顔を曇らせて頷いた。
「はい…。余り良くないみたいです。前に会った時と全然違ってて…」
「そうか…。戸田も心配だろうな」
先輩の言葉に俺は頷いた。
「アルバイトを決めてしまったんで一旦帰るみたいですけど、シフトを調整してもらって、また戻るって言ってました」
「そうか…」
頷いて、先輩は暫く黙っていたが、アイスコーヒーでチョコの甘さを流すと、目を上げて俺を見た。
「そう言えば千冬、夏休み中こっちに居ること、年下の彼氏は不満に思ってないのか?」
口元に笑みを浮かべてそう言った先輩に、俺は首を振った。
「実は向こうも実家の店を手伝うことになって。お父さんから連絡が来て、逆らえなかったみたいで…」
「へえ、そうなのか?じゃあ、夏休みは中会えないのか?」
「いえ、お盆には休みを貰えるらしいんで会えることに。祖父の店もお盆は休みなんで、丁度いいんです」
「ふぅん…。で、俺のことは言ったのか?1週間も他の男と一緒だなんて知ったら、怒るんじゃないか?」
また俺のことをからかいたいらしく、先輩は口元に笑みを浮かべながらそう言った。
実は、先輩が来ることは有川には言っていなかった。
真藤先輩の噂は有川も色々と聞いて知っていたし、俺の前の彼氏だったことも知っている。そんな相手と、1週間も同じ屋根の下で過ごすのだと知ったら、有川はいい気持ちはしないだろうと思ったのだ。
そのことを言うと、先輩はキュッと眉を上げた。
「ふぅん。まあ、余計なことを言う必要もないか。どうせ、バレることもないだろうしな」
そう言って、先輩は少し俺の方へ身を乗り出した。
「疚しい事も無いし?」
「あ、ありませんよ。すぐ、そうやってからかう…」
にやける先輩の顔を睨みながら俺はそう言った。
あれから、先輩とは度々会っていたが、勿論、キスひとつしたことはない。
今でも多分、俺は先輩にキスされても嫌じゃないだろう。だが、それ以上のこととなると、やはり抵抗があった。
先輩だって、こうやってからかって楽しんではいても、今更俺を抱こうなどとは思っていない。それでも、こういう遣り取りで、俺のことを特別に思っているのだと感じさせてくれるのかも知れなかった。
カフェを出て、俺達はバスに乗った。
バスの後部座席が空いていたので、俺達は並んで腰を下ろした。
「戸田は、彼女と続いてんのか?」
不意に、先輩がそう言った。
「はい、ラブラブみたいですよ」
笑みを浮かべ、俺は答えた。
「いいのか?千冬はもう……」
「はい。俺はもう大丈夫です」
そう答えると、先輩は黙ったまま頷いた。
俺がどんな決意をしたのか、先輩には話していなかった。
幾ら相手が先輩でも、このことだけは言うつもりはない。一生、誰にも、それを明かすつもりは無かった。

家に着くと、祖父母の大歓迎を受け、先輩は少し照れくさそうだった。
明日からでいいと言われたが、早く店に出たいと言って、先輩は荷物を置いただけですぐにカフェの方へ行ってしまった。
もうすぐお昼だったので、店はポツポツ混み始めていた。
小さな店だったが、口コミでランチが評判になり、結構遠くから主婦のグループなどがやって来る。冬以外は庭も開放しているので、それを見に来る客も少なくなかった。
殆ど初めての店なのに、先輩はまるで以前からずっとここで働いていたように生き生きと動いていた。
その様子を、祖父も祖母も嬉しそうに見ている。俺は、先輩が来てくれて良かったと改めて思った。

夜になり、4人で賑やかに夕食を終えると、俺は先輩を部屋に連れて行った。
祖父に晩酌に付き合わされていた先輩だったが、酒は強いらしく、呑む前と全く変わらなかった。
風呂も済ませて布団を敷き、俺達は並んで横になった。
ずっと楽しそうにしていた先輩だったが、暫く話しをした後、少し表情を変えた。
「実はな、少し前にユキに会ったんだ」
ポツリとそう言った先輩の言葉を聞き、俺は枕から頭を上げた。
「え?ユキ先輩に……?」
「ああ。たまにメールの遣り取りぐらいはしてたんだが、思い切って、会わないかって言ってみた。そしたら、会いに来てくれたんだ」
「元気でしたか?」
被せるように俺は訊いた。小金井先輩が今どうしているのか、俺もずっと気になっていたのだ。
俺の言葉に先輩は頷くと、少し起き上がり、肘を突いて頭を載せた。
「元気だったよ。地元の高校から国立大に進学してたのは知ってたんだけど、写真は止めてなかった。サークルに入って色々撮ってるって、幾つか見せてもらった」
「そうですか、良かった…」
安心して俺が言うと、先輩も頷いた。
「迷ったんだけど、何か知ってるかと思って、尚也のことも訊いてみたんだ」
「え……?」
俺が眉を寄せると、先輩は上半身を起して枕元に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばした。
「そしたらユキ、尚也が預けられていた親戚ってのを探し当てて、会いに行ったらしいんだ」
「え…?」
やはり、小金井先輩はまだ友井先輩のことを思い切れずにいたのだろうか。そう思うと、俺は急に胸が苦しくなった。
「けど、以前のような気持ちで未練から会いに行ったんじゃないって…。自分が前に進む為に、ちゃんと尚也に会ってけじめをつけたかったんだって言ってたよ。それに…、純粋に尚也のことが心配だったんだろうと思う。あれからどうしたのか、俺だって気になってるからな…」
「そう、ですよね…」
小金井先輩の気持ちは俺にも分かった。
長い間、ずっと想っていた相手なのだ、その想いを断ち切る為には必要なことだったのだろう。
「でも、尚也は会わなかったらしい。て、言うか、もうここには居ないと親戚の人が言ったそうだ。……まあ、それが嘘か本当かは分からなかったとユキは言ってたけど…」
「それで、ユキ先輩は?」
俺が訊くと、先輩は肩を竦めた。
「そう言うものは仕方ないから、それ以上は訊かなかったそうだ。会えなかったのは残念だったけど、気持ちの整理はついたって言ってたよ。今はもう、尚也を想って切なくなることは無いって…」
頷いて、腕に頭を載せると、俺は目を閉じた。
あんなに辛い恋をしていた小金井先輩も、ちゃんと前に進もうとしている。
俺だけが何時までも、同じ場所から動けずに居るような気がして情けなかった。
「俺に会うのも、これで最後にしたいって言われたよ」
「え?」
驚いて目を開けると、俺は先輩の顔を見た。
先輩は、少し切なそうな表情で、でも唇には薄っすらと笑みを浮かべていた。
「過去はもう振り返りたくないそうだ。……俺と寝たことも、きっと忘れたいんだろうな」
先輩の言葉を聞いて、俺は寂しさに胸が詰まるような気がした。
「……俺のことも、忘れたいのかな?ユキ先輩……」
言葉に出して言ってしまうと、鼻の奥が熱くなった。
「きっと、忘れたいですよね。ううん……、もうとっくに忘れられてるのかな…」
小金井先輩にとって、俺なんか、どれほどちっぽけだろう。
きっと、記憶の中から一番先に消されたに違いないと思った。
真藤先輩の手が伸びて来て腕を掴まれ、俺は顔を上げた。
「そんな訳あるか。ユキはずっと千冬のことを気に掛けてるよ」
優しく慰められたが、俺は首を振ると、横になったままの先輩の首に手を伸ばした。
キスしてしがみ付き、そのまま胸に顔を埋める。先輩の腕はすぐに俺の背中に回された。
「ごめんなさい…。もう、しません……」
そう言うと、先輩の腕に力が篭るのが分かった。
「いいよ。俺も寂しい…」
俺の旋毛に先輩の頬が摺り寄せられるのが分かった。
「寂しいけど、良かったんだよ。…そう思うだろ?」
訊かれて、俺は頷いたが、先輩の胸から顔を上げはしなかった。
そう。良かったのだと思う。
過去を忘れるのは難しい。
難しいけど、そうしなくちゃならない時もある。
小金井先輩はそれを知っているのだ。
「千冬、このまま眠っていいよ…」
先輩の優しい言葉に、俺はまた頷いた。
本当は、俺の何倍も、真藤先輩の方が寂しい筈だった。
でも、俺にはそれを慰められる術も無かったのだ。