涙の後で


-6-

夜の内に先輩がメールで駅に着く時間を知らせてくれた。
朝、俺はそれに合わせて家を出ると駅へ向かった。
有川を迎えに来た時より何故か緊張して、バスを降りると、俺は大きく息を吸った。
久し振りに会う先輩がどんな風に変わっているのか、期待と、それから、少しの不安と、色々なものが綯い交ぜになっていた。
駅の入り口に着き、俺は改札口まで進むと、電光掲示板で先輩が着く時間を確かめた。
まだ、3分ぐらい早かったので、改札口から少し離れた場所で待つことにした。
暫くすると、電車が着いたらしく、向こうからぞろぞろと人が歩いて来るのが見えた。
俺は目を凝らして先輩の姿を探した。
だが、見つけたのは向こうの方が早かった。
手を振られて、俺もすぐに手を振り返した。
(拓馬さん……)
変わらない先輩の笑顔を見て、俺は少しホッとした。
でも、やっぱり先輩は寮に居た時よりも、少し大人っぽく更に格好良くなっていた。
そして、それに気付くと、少し照れくさかった。
「久し振りだな?千冬」
目の前に立つと、先輩はそう言って笑った。
「はい。あの、わざわざ会いに来てもらっちゃって、済みませんでした」
俺が言うと、先輩はクスッと笑った。
「相変わらずだなぁ、千冬は。俺が勝手に押しかけたんだろ?何で謝るんだ?」
先輩の言葉に、俺は頬に血を上らせた。
少しも変われない自分が、恥ずかしくなったのだ。
だが、そんな俺をじっと見て先輩は言った。
「少し変わったな、千冬」
「え?」
驚いて俺が顔を上げると、先輩は首を傾げるようにして笑みを浮かべた。
「何となく、雰囲気がさ…。さて、じゃあ、先ずは何処かに落ち着いて、千冬が変わった理由をじっくりと聞こうか」
「そ、そんな、理由とか別に…。俺、変わってませんよ」
慌てて俺が否定すると、先輩は楽しそうに笑いながら俺を促して歩き出した。
「喉、渇いたよ。ほら、なんか飲もう」
「あ、はい」
先輩を案内しなければと思い、俺は先に立った。

心が騒ぐ。

やはり先輩は、俺のことを何でも見透かしているのだと思った。
近くのカフェでいいと言うので、俺は先輩を駅ビルの中にあるカフェへ案内した。
いいと言ったのだが、バイト代が入ったからと言って、先輩は俺の分の飲み物と、それからケーキまで奢ってくれた。
「5ヶ月ぶりか…。何だか昨日のことみたいな気もするし、随分昔のような気もする。出てみると、あそこの寮生活ってのは本当に特殊な環境だったな、と思うよ」
飲み物を飲んで一息つくと、先輩はそう言って笑った。
「そう…ですか」
「同じ大学になった奴らでカップルだったのも何人かいるけど、今でも付き合ってるのはほぼいない。やっぱり、新しい世界に身を置くと、異質な世界のことは忘れたいってことなんだろうな」
では、やはり先輩も、卒業した今は、あの学校での生活を別世界だったと割り切っているのだろうか。
そう思うと、寂しい気がした。
「何でそんな顔するんだ?俺に会いたくなかった?」
俺の顔を覗きこむようにして先輩が言った。
俺は慌てて顔を上げると、勢い良く首を振った。
「そ、そんなことないです。俺、拓馬さんに会えるの、楽しみにしてたんだから」
必死で俺が言うと、先輩は“プッ”と吹き出した。
「ありがと。嬉しいよ」
頭を撫でられて俺はカーッと頬に血を上らせた。先輩はただからかっただけなのに、本気になって言い訳した自分が恥ずかしかったのだ。
「拓馬さんも、もう学園や寮での生活は過去だと思ってるんですか?」
怖かったが、どうしても気になって俺は訊いた。
すると、ストローを口から離し、先輩はじっと俺を見た。
「そうか…。だから寂しそうな顔してるんだ?」
「そ、そう言う訳じゃないです。…でも、さっき拓馬さんが言ったように、みんなが学園でのことを忘れたがっているのかもって。……俺は今、その真っ只中に居るのに、卒業した先輩は違う世界に居るのかと思ったら、なんだか切ない気がして…」
俺がそう言って俯くと、先輩の手が伸びてきて俺の手を掴んだ。
「俺はそんなこと思ってないよ。俺は俺で、あの学校に居た時も今も、同じ俺だ。千冬への気持ちだって全然変わってないよ」
「べ、別にそういうことを心配してた訳じゃ…」
俺が驚いて顔を上げると、先輩はニッと笑った。
「なんならここで、キスしようか?」
「えッ?」
吃驚して俺が目を見開くと、先輩は面白そうにクスクス笑った。
「まさか、さすがにそれは無理か。それに、千冬の方はもう、俺とそういうことするのは抵抗あるんだろ?」
「え?いえ…、それは……」
口篭ると、先輩は肩を竦めて飲み物のグラスを持ち上げた。
「やっぱり、変わったのは、千冬の方だって俺は思うけどな」
何も答えられず、俺は目を逸らした。
変わっていない、と思う。
いや、変われない自分が、いつでも嫌なのだ。
でも確かに、もう先輩と以前のような行為をするのは抵抗がある。それは、有川の存在があるからだった。
「彼氏、出来たんだ?」
言われて、俺は頷いた。
「はい。写真部の後輩で、有川って言うんです。ちょっと、拓馬さんに似てるって、楠田は言ってますけど」
「へえ?じゃ、カッコいいんだな?」
笑いながら言われ、俺も釣られて笑うと頷いた。
「はい、カッコいいです。俺と付き合う前までは、随分アタックされてたみたいだし…」
「ふぅん。写真とかないの?」
「あ…」
訊かれて、俺はポケットから携帯を出すとアルバムを開いた。
確か前に、楠田に頼まれて有川とのツーショットを撮ったことがあった。それを探して表示させると、俺は携帯を先輩に渡した。
「へえ?ホントだ、まあ、俺に似てるかどうかは兎も角として、1年にしちゃ大人っぽいしいい線行ってるかもな。」
そう言って先輩は少し笑うと俺を見て言った。
「で…?こいつと寝てるんだ?」
ズバリと訊かれて、俺は少々怯んだ。だが、やはり先輩に嘘はつけない。
俺は少し目を逸らしながら頷いた。
「まあ、何回かは……。まだ、付き合い始めたばかりだから…」
溜め息が聞こえて、俺はハッとすると顔を上げた。
すると、頬杖を突いた先輩が、じっと俺を見ていた。
「もしかすると、必要だったのかも知れないな…」
「え…?」
何のことか分からずに俺が聞き返すと、先輩はフッと笑った。
「俺は守ることばかり考えてた。けど、千冬はそれじゃ嫌だったんだろ?」
「お、俺は…」
何と答えて言いのか分からず、俺は口篭った。
でも確かに、先輩にも坂上にも守られていることが嬉しいと思う反面、それを重荷に感じない訳ではなかったのだ。
守られる価値なんか無いのだと、いつでも後ろめたく思っていた。
俺が黙っていると、先輩は身を乗り出して俺の耳に囁いた。
「あの時、抱いとけば良かったよ」
その言葉に、俺がカーッと頬を染めると、先輩はクスッと笑った。
「千冬はいいって言ったのに、惜しいことしたなぁ」
からかわれているのは分かっていた。でも、本当は俺も少し後悔していたのかも知れない。
あの時、俺は先輩に抱かれていれば良かったのだ。そうすればきっと、坂上との性行為もすんなりと受け入れられたのではないかと思う。
(そしたら、真也を傷つけなくて済んだのかも…)
だが、今更そんなことを思っても遅い。それに、坂上のことは傷つけずに済んでも、その代わりに俺は、今度は有川を傷つけたのだろう。
どう転んでも俺は、いつも誰かを傷つけずにはいられないのかも知れない。
そんなことを思って、暗い顔になっていたのだろうか。先輩が、キュッと俺の頬を摘んで気を引いた。
「あっ、済みません」
気がついて謝ると、先輩は俺の気を引き立てるようにして笑った。
「何処か連れてってくれるんだろ?色々見たいな、千冬の町」
「あ、はい。って言ってもそんなに大きな町じゃないし、面白い所も無いですけど…」
俺が苦笑すると、頷きながら飲み物を飲み干し、先輩は空いたグラスを手に立ち上がった。
「いいよ。千冬と歩けるだけで楽しいからさ」
気を遣ってくれたのだろうが、先輩のそんな言葉が素直に嬉しかった。

食器を返却して店を出ると、俺は先輩に町を案内しながら歩いた。
幾つかの店に立ち寄って少し買い物をしたり、ウィンドーを眺めたりしたが、本当にこうして歩いているだけで楽しかったし、今日1日だけで、また別れてしまうのかと思うと寂しかった。
「明日は何か予定あるのか?今夜、泊まったら千冬の家の人に迷惑かな?」
「え?いえ…」
昼御飯を食べようと、美味しいと評判の店に連れて行くと、先輩はメニューを眺めながら言った。
「今日はウチ、俺一人なんです。母と義父は明日、祖父の家から帰って来るんで。あ、でも、それと入れ違いに、俺が明日祖父の家に行くことになってて…」
祖父の怪我で俺が明日から店を手伝いに行く話しをすると、先輩は目を輝かせた。
「へえ?カフェをやってるんだ。いいなぁ…。俺も行ってみたいな。明日、千冬に付いてったら駄目かな?」
「え?そうですか?田舎の小さい店ですけど。でも、俺は別に構わないですよ」
俺が答えると、先輩は嬉しそうな顔になった。
「そうか?じゃあ、今夜泊めてくれよ」
「はい、どうぞ」
思い掛けないことになったが、俺は先輩が言い出してくれたことが嬉しかった。もっと傍にいて欲しいと思っていた俺の心を、まるで察してくれたかのようだと思った。

先輩が下着や着替えを買うと言うので、食事した後で店を回った。
帰り掛けに、マーケットに寄って夕飯の買い物をし、先輩を家に連れて行った。
猫好きの先輩は、千秋を見つけるとすぐに顔を綻ばせた。
人見知りの千秋は、知らない人が来るとすぐに隠れてしまうのだが、この前の有川といい真藤先輩といい、隠れるどころか触られても嫌がらなかった。
どうやら、猫の癖に面食いなのかと、俺はおかしくなった。
先輩と二人っきりで夜を迎えることに、ほんの少し緊張していたが、同じ部屋に横になっても、先輩は俺に触れようとはしなかった。
去年の夏に俺たちの間にあった、あの秘密めいた関係はもう無くなっていたのだ。
だが、関係は変わっても、多分、お互いに対する感情は、少しも変わってはいないと俺には思えた。
そう思うと酷く安心し、そして以前と同じように、俺は先輩の前では素直な気持ちで安らげると感じたのだ。
「そう言えば、まだ訊いてなかったけど、拓馬さん、彼女は出来たんですか?」
ベッドに横になったままで俺が訊くと、やはり布団の上に寝転んだままの先輩は苦笑した。
「彼女って関係の相手はいないよ。てか、多分、ちゃんとした彼女は作らないと思う。……まあ、当分は…な」
不確定な感じでそう言うと、先輩はグッと伸びをしてから俺の方に向いて寝返りを打った。
以前に聞いたが、先輩には片想いの相手がいる。その人のことを、きっとまだ忘れられずにいるのかも知れない。
「でも、遊び相手は居るんだ?沢山?」
空気を変えたくて、俺はわざと意地悪な調子でそう訊いた。
すると、先輩は大袈裟に眉を上げた。
「おまえ、俺をプレイボーイだとでも思ってんのか?心外だなぁ」
そう言ってニヤニヤ笑うと、先輩は手を伸ばして俺の髪を緩く引っ張った。
「何時だって俺は一人に対して真剣だったろ?」
「さあ?俺が聞いた噂では違うけどなぁ」
また意地悪く俺が言うと、先輩は首を振りながら大袈裟な溜め息をついた。
「おまえが俺を噂で判断するかぁ?悲しいよ…」
芝居がかった先輩の言葉に俺は笑った。
そして、先輩の傍で安心した気持ちのまま、いつしか眠りに落ちていった。