涙の後で
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走って寮まで戻ると、昼間言っていたように玄関の前で有川が待っていた。
息を切らせたまま俺が立ち止まると、有川は俺が泣いているのに気付いて眉を寄せながら近付いてきた。
そして、俺の後ろに視線を移して何かを見つけると、険しい顔になって俺の身体を抱えた。
「有川……ッ」
こんな所じゃ、誰に見られるか分からない。俺が腕を振り解こうとすると、有川は更に力を込めて俺の身体を引き寄せた。
ハッとして俺が振り向くと、追って来た坂上がそこに立っていた。
「真也……」
離れようとする俺の身体を、有川は坂上の前で抱きしめた。
「離せ、有川…」
低い声で坂上が言った。
だが、有川は首を振った。
「嫌です」
すると、坂上は此方に近づいて来て、有川のすぐ前に立った。
「離せ。俺はちふとは別れない。おまえじゃ無理だ。おまえじゃ、ちふを支えられない」
多分、誰かに聞かれるのを気にしてくれたのだろう。坂上はあくまでも低い声で、だが、きっぱりとそう言った。
すると、有川はクッと顎を上げて、そしてやはり落ち着いた声で答えた。
「そんなの分からない。千冬先輩は俺のものになるって約束してくれました。だから、今度は俺が先輩を守ります」
「駄目だ」
坂上が被せるよう言った。
このままここで、二人に押し問答をさせておく訳にはいかなかった。俺が決めなければ、先には進めないのだ。
「真也、ごめん…。決めたんだ…。俺は有川と付き合う。ごめん、真也…」
俺の言葉に、坂上はギリッと唇を噛んだ。
だが、ゆっくりのその唇を開くと、俺ではなく有川を見つめながら言った。
「ここじゃ人目に付き過ぎる。後でちゃんと話そう。…けど、俺はまだ納得してないから」
「……分かりました」
有川はそう答えたが、俺は首を振った。
「止めてよ。もう、話す事なんかない。真也が何を言っても、もう俺は決めたんだ。だから、お願いだから、もう俺のことは構わないで欲しい」
「ちふ……」
顔を歪めた坂上の前に立ち、俺はその顔を見上げて言った。
「今まで、ありがとう、真也。こんなことになって、ごめん……。ごめんね?」
泣きそうだったが、泣かなかった。
俺は坂上に、弱いヤツではなく、嫌なヤツだと思われたかったのだ。
坂上はまた何か言おうとして口を開いたが、俺の目を見ると悔しげに目を伏せて黙ってしまった。
俺はそんな坂上から黙って離れようとした。すると、後ずさりするようにして坂上を見ながら、有川が俺の手を掴んだ。
見ると、辛そうな顔で俺に視線を移しながら、有川は俺の手を引いて桜並木の方へ歩き出した。
俺は黙って付いて行きながら、何度か後ろを振り返った。
そして、俺が何度振り返っても、坂上はまだそこに立っていた。
「う……」
とうとう泣き出し、俺は嗚咽を堪えようとして唇を噛んだ。
すると、前を向いたままで有川が静かに言った。
「俺は…、千冬先輩が俺を選んでくれたのは、坂上先輩よりも俺の方が好きだからだなんて自惚れちゃいません」
ハッとして見上げると、有川は立ち止まって俺をじっと見下ろした。
「けど、俺を選んでくれた。それにどんな理由があるのか分からないけど、俺はそれでも構わない。……だから、もう余所見はしないで下さい」
「有川……」
また涙が溢れ、俺は有川のシャツを掴んだ。
どうしてみんな、俺を許してくれるのだろう。
こんなにずるいことばかりして、人を傷つけてばかりいるのに。
俺が有川を選んだのは、彼の言う通り、坂上より好きだったからじゃない。
有川はあの時、俺の身体のことより自分の欲望を優先した。そのことが、少しだけ俺の気持ちを楽にしてくれたのだ。
優しくなんてしてくれなくていい。
俺のことなんか考えずに、欲望をぶつけてくれた方がいいのだ。
その方が俺は、楽になれる。
こんな汚い思いで、俺はあんなに優しい坂上を振って有川を選んだのだ。
「ごめん、俺……ッ」
俺が謝ると、有川は両手で俺の頬を包み顔を上げさせた。
「いいんです。言ったでしょう?先輩が何を思っていてもいい。けど、もう余所見はさせない。……俺だけ見てください」
「……うん」
頷くと、有川の顔が近付いた。
そして俺は、有川の熱いキスが何もかも忘れてさせてくれることを願わずにはいられなかった。
俺がまた男を乗り換えたという噂は、勿論、あっという間に広まった。
覚悟はしていたことだし、陰口を利かれるのも、有川を狙っていた連中に怨まれることも甘んじて受けるつもりだった。
ただ、慶に軽蔑されるのだと思うと、それが怖かっただけだった。
早耳の楠田は、あの翌日にはもう知ったらしく、俺を連れ出して呆れたように言った。
「おまえなぁ、幾らなんでも拙いぞ、これは」
「分かってる。でも、もうどうしようもないよ。……もう、決めたから」
俺の答えに、楠田は腰に手を当てたまま溜め息をついた。
「まあ、言っちゃなんだけど、高梁と坂上の付き合いは確かに“ままごと”みたいに見えたよ。でも、坂上がいいヤツなだけに、一方的におまえが棄てたとなると、おまえへの風当たりは相当強いぞ。もしかすると、柔道部の連中にも睨まれかねない。気をつけた方がいいよ」
「うん…、分かってる。ありがと……」
項垂れたままで俺が礼を言うと、楠田は一歩近づいて俺の顔を覗き込んだ。
「ヤッたんだ?有川と…」
ずばり言われて、俺は驚いて顔を上げた。
「な、なんで……?」
俺が言うと、楠田は眉根に皺を寄せたままで肩を竦めた。
「そんなことでもなきゃ、高梁がこんな思い切ったことするとは思えないからな。まあ…、そんなことに気付くのは俺ぐらいだろうけどさ」
「……うん」
正直に俺は頷いた。
どうせ、勘のいい楠田に嘘をついても、きっとすぐに見抜かれてしまうだろう。
「馬鹿だよなぁ…」
呆れたように楠田は言った。
「それで、坂上を裏切ったから、とかって思ったんだろ?…どうせ、有川が我慢出来なくなったんだろうし、罪悪感なんて感じる必要ない。黙ってりゃ、分かりゃしないのにさぁ」
「そ、そんな…。有川が悪いんじゃないよ。俺が…ッ」
勢いよく首を振って否定したが、楠田には通じなかった。
「まったく……嘘が下手だよほんとに。まあ、そういう不器用なところが可愛いとか思われちゃうんだろうけどさ」
忌々しげにそう言ったが、楠田は多分、楠田なりに俺を心配してくれているのだろうと思った。
「兎に角、こうなったら開き直って有川とベタベタしてるんだな。その内、みんなも慣れるし飽きる。それまで待つしかないよ」
確かに、楠田の言う通りだと思った。
どんなに噂されようが、見られようが、その内にみんなの興味も他へ移っていくだろう。それまで我慢していればいい。
ただ、俺はそれでいいが、俺の所為で噂の対称にされる坂上と有川が気の毒だった。
だが、俺の心配を他所に、有川は周りのことなど気にする様子は無かった。
翌日の朝から、朝食に行く時も俺を誘いに部屋まで来てくれたし、登校する時も寮の外で待っていた。
多分、俺が襲われたことで、一人にならないように余計に気遣ってくれたのだろう。帰りも当然のように教室へ迎えに来てくれた。
開き直ってベタベタしてろ、と楠田に言われたが俺にはとても無理だった。
精々、みんなの視線を無視するぐらいしか出来なかったが、有川の方はわざとしているのか、誰に見られようとも憚らず、緊張する俺を他所に、腰に手を回してきたり、時には後ろから肩に顔を埋めてきたりする。そんな様子に周りも呆れたのか、思っていたよりも早く飛び交っていた陰口も静まってしまった。
坂上は、合わせようとしなければ俺たちとは生活時間が異なるので、滅多に会うことも無かった。
だが、会うといつも俺の方に視線をくれた。
それが辛くて、俺は彼を見ることが出来なかった。
そして、一時は、何処でも俺たちの噂で持ちきりだったので、さすがに慶の耳にも入ったらしかった。
「どうしたんだ?坂上と何かあったのか?」
眉を寄せながら、慶は不思議そうに言った。
慶の感覚では俺が心変わりしたなんて、初めから考えられ無かったのだろう。
「別に…。ままごとみたいな付き合いが、嫌になっただけだよ」
楠田の言葉を借りて俺がぞんざいに答えると、慶の眉の間の皺がキュッと深くなった。
だが、慶は何も言わなかった。
利口な彼は、自分が口を挟む必要などないと判断したに違いなかった。
その後も、俺を待つ有川の姿を見かけても、慶は何も言わなかった。
心の中で、俺を軽蔑しているに違いないと思ったが、俺も彼の気持ちを敢えて訊こうとは思わなかった。
その内に、試験勉強で忙しくなり、人のことに構っている余裕も無くなったのか、俺たちに向けられる視線も少なくなった。
試験が終わると夏休みが来る。
一緒に帰ろうと約束した坂上とは別の電車に乗り、俺は終了式の日に家に帰る。
そして、夏休みが終わった時、学校に戻った俺には一体どんなことが待っているのだろうか。
去年の夏は、慶と一緒に居た。
だが、今年の夏は慶も一人で家へ帰る。
40日もの長い間、俺は慶の顔を見ることもなくなるのだ。
出来るなら、慶へのこの想いも、この夏の間に消し去ってしまいたかった。