涙の後で
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部屋に戻ると慶が居た。
俺が入って行くと、なんだか少しホッとしたような顔になった。
「遅かったな?医務室にずっと居たのか?」
「ううん。その後で部室に寄って……。帰りは有川と一緒だったんだ」
「そうか。なら、良かった。中島先生、薬出してくれたか?」
「うん。2回分くれた。慶、昼休みに言ってくれたんだって?ありがと…」
「いや…。千冬?どうかしたのか?」
俺の様子がおかしいのに気付いたのか、慶はそう訊いた。
「別に…。寝不足だからちょっと疲れただけ。シャワー浴びて少し寝るよ」
「そうか…。うん、分かった」
納得してくれたらしく、慶はまた机に向かった。
俺は制服を脱ぐと、下着と着替えを持ってバスルームへ入った。
裸になって鏡を見ると、襲ってきた3年生がつけた歯型やキスマークがそこここに残っていた。
目を逸らして鏡に背を向けると、俺は小さな湯船に脚を入れた。
カーテンを引いてシャワーを浴びると、ボディタオルでごしごしと手荒く身体を洗った。
そうしていながらも、さっき自分の身体に起こったさまざまなことを思い出していた。
話しをしたことも無い相手に、身体を舐められ、キスされ、噛まれ、乳首を吸われた。
恥ずかしい格好をさせられて、身体の中にまで指を入れられた。
思い出して触ると、まだそこにはぬめりが残っていた。
それは、塗りつけられた液体の所為なのか、それとも放たれた有川の精液なのか分からない。
俺はその部分をごしごしと擦り、痕跡を消そうとした。
だが、その途端に今度は有川とのセックスをまざまざと思い出してしまった。
自分の中に出入りする有川の性器。
厭らしい音を立てる自分の身体。
擦られる感覚。
苦しいだけではなく、疼くような何かがそこから生まれていた。
また、有川は俺を抱くのだろうか。そして俺は、その内に、当たり前に感じるようになるのだろうか。
首を振り、俺は頭からお湯を浴びると目を瞑った。
羞恥心も罪悪感も無くなってしまう時が来るのだろうか。だとしたら、早くそうなったらいいと思った。
そうなって、全てを忘れてしまえたらいい。
慶へのこの気持ちも、早く無くしてしまえればいいと思った。
シャワーから出て、濡れ髪のまま俺はベッドに横になった。
坂上が部活を終えて帰って来るのは夕食時間の少し前だった。食堂で会う約束をしているから、その後で話をするつもりだった。
彼に会うことを思うと、酷く気が重い。だが、俺のしたことを黙っている訳にはいかなかった。
俺を信じてくれているのを分かっているからこそ、彼にだけは嘘はつきたくない。
寝返りを打って慶の方を向くと、彼は今日もパソコンに向かっていた。
俺が男に抱かれてきたなんて、夢にも思いはしないだろう。
俺に友達以上の興味なんか、慶は決して持ってはくれない。有川のように抱いてくれることなんか決して無い。
今ここで服を脱いで誘ったら、慶はどうするだろうか。
(きっと、呆れて部屋を出て行くだろうな……)
ツッと、目尻から涙が伝うのが分かった。
何時まで俺は、もがき続けるつもりなのだろう。
実る筈の無い想いを、何時まで持ち続けるつもりなのだろう。
沢山の人を傷つけながら、俺は何時までこうしているつもりなのだろうか。
眠ることなどとても出来なかったが、俺は時間になるまでベッドに居た。
坂上との約束の時間になり、のろのろと起き上がると顔を洗おうとバスルームへ入った。
濡れた髪のまま横になっていたので、鏡を見ると酷い寝癖がついているのが分かった。顔を洗ったついでに、その手で適当に髪を撫で付けてから顔を拭いた。
抱かれた後遺症のようなものが、まだ俺の身体に残っていた。
後ろで腕を拘束されていた所為で、腕の付け根が痛い。それから勿論、有川が入って来た部分も熱を持ったようになっていて鈍く痛みが残っていた。
それに加え、体中がだるい。
だが、俺はバスルームを出ると食堂へ出かける用意をした。
「飯、行くのか?」
気がついて、慶が訊いてきた。
「うん、行く」
俺が答えると、慶も頷いてノートパソコンを閉じた。
「なんか、顔色悪いな?調子良くないのか?」
心配そうに訊かれて俺は首を振った。
「そんなことないよ。寝て起きたばっかりだからだろ」
そう答えて、俺は先に部屋を出た。
慶も続いて出て来て一緒に歩き出したが、まだ何か気になるのか俺の顔を何度も見た。
だが、何も訊こうとはせずにそのまま黙って食堂まで行った。
食堂へ行くと、もう坂上の姿があった。
食欲は無かったが、比較的あっさり目の定食を選び、料理を載せたトレイを持って俺は坂上の待つ席まで行った。
「ちふ…」
何の疑いも無く、坂上は俺を見ると笑ってくれた。
その笑顔が辛くて、今にも泣き出しそうだった。
だが、何度か唾を飲み込むと、俺は彼の前に座った。
慶は同じクラスの友達を見つけたらしく、料理のトレイを受け取ると俺から離れてそちらへ行ってしまった。
前はいつも一緒に食べていたが、有川に言われてから慶が気を使ってくれるようになり、席を離れて座ることが多くなった。その所為か、やっかみから俺を睨む生徒も減ったような気がする。
こうして、俺は何時でも誰かに守られているのだ。
その中でも、誰よりも俺のことを気に掛けてくれているのは、間違いなく目の前に居る坂上だった。
「ちふ、どうかした?」
俺の様子がおかしいと感じたのだろう。眉を寄せて坂上は言った。
「……ご飯食べ終わったら、話したいことがあるんだ」
俺がそう言うと、坂上は益々眉を寄せ、そして表情を変えると弱々しく笑った。
「なんだろ?……怖いな」
その言葉に俺は何も答えなかった。
黙って箸を取ると、俯きがちでおかずに手を伸ばした。
「そうだ。夏休み、どうするか決めた?」
その場の重い空気を一掃しようとしてか、坂上はわざと明るくそう言った。
「うん。今年は夏期講習も申し込んでないし、終了式の日に帰ることにする。少し時間ずらして遅い電車にすれば混まないと思うし」
「そっか。じゃあ、一緒に帰れるかな?俺は今年も夏休みに入ってすぐに、向こうの道場の合宿に出るから」
「うん…。そうだね」
先に食べ始めていた坂上はもう食べ終わっていたが、俺が食べ終えるのを待っていてくれた。食欲が湧かず、やっと半分ほどを食べると俺は残したトレイを片付けてしまった。
坂上はずっと心配そうな顔で俺を見ていたが、食堂の外へ出ると表へ誘った俺に黙って付いてきた。
「……話って、なに?」
校舎の方へブラブラと歩きながら俺が切り出しかねていると、沈黙が嫌だったのか坂上の方からそう訊いてきた。
俺は立ち止まると、意を決して坂上と向き合った。
「真也、俺と別れて欲しいんだ…」
俺の話を予想していたのか、坂上は余り驚かなかった。
だが、ギュッと唇を引き結んで厳しい表情を見せた。
「どうして?俺が何か嫌なことした?それとも……」
俺が急いで首を振るのを見ると、坂上はそこで言葉を切り、少し躊躇った後で言った。
「戸田に告ったの?」
俺が慶を密かに思っていたことを坂上は勿論忘れていなかったのだろう。少し掠れた声でそう訊いた。
俺はまた首を振ると、情けない声で答えた。
「まさか…。そんなこと、俺に出来る訳無い」
すると、坂上が急に動いてガッと俺の両肩を掴んだ。
「じゃあ、なんで?ちふが戸田と上手くいったなら俺には何も言えない。けど、それ以外の理由じゃ、急に別れたいって言われても納得出来ないよッ」
「お、俺……」
激情が押し寄せ、俺は言葉が出てこなかった。
坂上に対する申し訳なさと、それから事実を告げることで間違いなく彼が傷つくのだと思うと、鉛のようなものが喉に詰まっているように感じだ。
だが、何時までも黙っている訳にはいかない。俺は口を開いて坂上を見上げた。
「俺…、有川と、したんだ」
「……え?」
最初、何のことか分からなかったのか、坂上は眉を寄せて聞き返した。
「有川と……セックスしたんだ」
「……え……?」
今度は驚きが坂上の声に感じられた。
そして、肩を掴んでいた手が滑り落ちるようにして離れて行った。
「どういうこと?…まさか、レイプされたのか?」
「ち、違うッ」
俺が慌てて否定すると、坂上はまだ険しい表情のままで言った。
「じゃあ、なんで?まさか、ちふの方から誘ったなんて言わないよね?」
そう言われて俺は頷いた。
本当の状況を言ってしまったら有川が悪者になる。だから、嘘をついてしまおうと思ったのだ。
「そうだよ。俺が誘ったんだ」
「どうして……?」
信じられないという声で坂上は言った。
「……実は今日、部室へ行く途中で3年の生徒何人かに襲われて……」
「えっ?襲われたって……」
二重の驚きに坂上は目を見張った。
だが、俺は先を続ける為に僅かに頷いて、聞き返そうとする坂上を抑えた。
「うん。でも、身体を触られただけで未遂だったから……。その時、隣の部室に居た有川が物音に気がついて様子を見に来てくれたから、そいつ等は逃げて行ったんだ」
「未遂……。でも、触られたんだろ?それって、服の上からってことじゃないんだろ?そんなの、未遂って言えるかッ」
「真也……」
酷く腹を立ててそう言った坂上を見て、俺は胸が締め付けられるような思いがした。
あくまでも坂上は、俺のことを一番に気遣ってくれるのだ。
自分を裏切ったことを告白しているというのに、それでも坂上は俺を心配し、俺を傷つけた相手に怒りを感じてくれる。こんな坂上だからこそ、俺はもう彼に愛されているのが辛かった。
「……それで?どうして有川とそんなことになるんだ?」
なんとか怒りを収め、坂上は先を促した。 俺は、コクッと1度唾を飲み込むと口を開いた。
「その……、後ろ……、あいつ等に後ろを弄られて…、それから体中を触られたりして、俺、収まりがつかなくなってた。だから、有川に抱いて欲しいって頼んだんだ…」
俺がそう説明して俯くと、坂上は暫く黙っていた。
俺は彼の顔を見られずに坂上の靴の先を見つめていたが、きっとこの沈黙は俺を軽蔑しているからだろうと思った。
だが、思っていたのとは違う言葉が俺の耳に届いた。
「嘘だ。ちふが誘ったんじゃないんだろ?本当は有川が我慢出来なくなったんだ。そうだろ?」
「ちっ、違うッ。本当に俺がしてくれって言ったんだよ。だから、有川は……」
だが、坂上はきっぱりと首を振った。
「駄目だよ。有川を庇いたいんだろうけど、そんな嘘は俺には通じない」
「う、嘘じゃない。本当だよ。本当に俺が……」
必死になる俺の肩を、坂上がまたギュッと掴んだ。
「ちふ……。俺が、どんなにちふのこと見てきたと思ってるんだ?幾らそんな状況だったとしても、ちふが自分から有川を誘う訳がない。そんなの、俺が分からないとでも思うのか?」
「でも、本当なんだ。本当にッ…」
「止せよッ」
必死で信じさせようとする俺を、坂上は強い口調で遮った。
「幾ら言ったって無理だ。そんな話は信じられない。駄目だよ」
じっと見つめられて俺はもう諦めるしかなかった。
項垂れると、俺は仕方なく本当のことを言った。
「でも、セックスしたの本当だ。……それに、最初は無理やりだったかも知れないけど、俺は途中から抵抗しようと思わなくなった。だから、レイプされたわけじゃない。俺は自分の意思で有川に抱かれたんだ」
顔を上げると坂上は泣きそうな顔をしていた。
「ごめんね?真也……。俺は真也を裏切ったんだ。こんな汚い俺のことなんか、もう棄ててよ。もう見限ってよッ」
俺が叫ぶように言うと、坂上は暫く黙っていた。
だが、俺がまた顔を上げると、震える声で言った。
「それで……?俺が別れるって言ったら、有川と付き合うの?」
訊かれて、俺は答えられずに目を逸らした。
すると、坂上の手が俺の顎に掛かってそっと上を向かせた。
「ちふ……。俺が付き合って欲しいって言った時、ちふは躊躇った。それは、俺のことを傷つけるんじゃないかって気遣ってくれたからだって知ってる。ちふの心の中には戸田への想いがあるのも知ってる。でも、俺はそれでもいいって言ったよね?ちふの本心を知ってても、それでも俺なら傍に居られるって思った。いや、俺じゃなきゃ駄目だって思ったんだ」
「真也……」
「違う?そうだろ?……俺なら受け止められる。ちふの心がずっとここに無くても、受け止められるから…」
その言葉に涙が溢れた。
首を振ると、俺は坂上から離れた。
「優し過ぎるよ、真也は…。そんなに大事にしてくれなくていいんだ。責めてくれていいんだ。優しくされればされるほど、気遣ってもらえばもらうほど、辛くて堪らない。そんな価値なんか無いのに…。頼むから、これ以上俺に優しくしないで…」
それだけを言うと、俺は坂上の前から逃げ出した。