リーマンの1日10題


02.人ごみの中で一人スーツ姿

暑い国だった。

こんな中で、きっちりとスーツを着ているのは豊田くらいだったろう。
だが、習慣で、会社へ行く時はスーツにネクタイじゃないと気持ちが悪かった。
こんな融通の利かないところも、若い尚樹には苦痛だったのかも知れない。今になって、そんなことを思い、豊田は1人苦笑することもあった。
仕事をしている間は忘れていられる。だが、部屋に帰ると駄目だった。
酒を飲む量が増え、その所為か、体調も余り良くなかった。
暑い所為だけではなく、ねっとりとした汗が首筋から噴き出す。そのべたつきが腹立たしくて、思わずネクタイを乱暴に緩めた。
何も、他の社員と同じようにラフな服装で過せばいい。誰も咎める訳じゃ無し、強情にスーツを着て出勤する必要も無いのだ。
場違いな自分の姿が、突然腹立たしくなった。
そして、自分を取り巻く何もかもが酷く空しく感じた。

吐き気がする。

会社も仕事もどうでも良かったのではないか。
こんな思いをし続けるなら、会社なんか辞めて尚樹と日本に居れば良かったのだ。
乱暴に額の汗を拭った時、豊田の身体がふらりと揺れた。
ハッとして脚に力を入れようとした時には、すでに後ろから誰かの手が両肩を支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「す、済みません…ッ」
心配そうに訊かれて振り返った豊田の目に、見知った顔が映った。
そして、掛けられた言葉が日本語だったことに、その時漸く気づいた。
「お…、岡野さん」
「気分でも悪いんです?」
同じ会社で、同じ異国に暮らす日本人ではあったが、今まで碌に口を利いたことがなかった。
がっしりとした腕に支えられて、豊田は恐縮するとすぐに彼から離れた。
岡野は朴訥そうな男だったが、無口で余り人と交わらないし、取っ付き辛い印象があった。その所為か、豊田は必要な事以外、彼と言葉を交わしたことが無かった。
「済みません…。暑くて、ちょっと気分が…」
言い訳するようにそう言うと、岡野は豊田のスーツを見ながら頷いた。
こんなに暑いのに、スーツ姿の自分を馬鹿だと思っているのだろう。そう思って、豊田は不快感を覚えた。
だが、岡野は何も言わず、豊田の背中に手を当てた。
「少し休んだらどうです?冷たい物でも飲んだ方がいい」
「でも…」
豊田が躊躇うと、岡野は肩を竦めた。
「ここでは、しょっちゅう電車もバスも遅れるし、多少遅刻したって誰も気にしませんよ。…さ、あっちの店に…」
にこりともしない男に誘われて、正直豊田は躊躇した。
だが、なんだかこんな日があってもいいような気がして、豊田は頷くと岡野と一緒に店へ入った。