桜の夢
今日は、朝から冷たい雨が降っていた。
文弥は暖かい部屋の中から憂鬱そうに窓に当たる雨の雫を眺めていた。
こんなに酷い降りでは、今日は来てくれないかもしれない。
本当はまだ熱のある気だるい身体をベッドに凭せ掛け、文弥はまたそっと溜め息をついた。
熱があるなどと言ったら、どんなに仕事が忙しくても、余裕の無い時間を無理に割いて来てくれるだろう。
だが、幾ら会いたくても、それは使ってはいけない手段だった。
こちらから、来て下さい、と言ってはいけない。
会いたいです、と言ってはいけない。
辛いです、とも、
寂しいです、とも決して言ってはいけないのだ。
そう言えばきっと来てくれると分かっていた。
幾ら冷たい振りをしていても、本当はとても優しい温かい人だから。
だからこそ、何の役にも立たない厄介者の自分の下へこうして通って来てくれるのだ。
だが、その優しさに甘えているばかりではいけないのだ。
無理をさせてはいけない。
そうすることで負担がかかり、別れが早まってしまったら取り返しがつかないからだ。
他には頼れる人はいない。
他に愛せる人もいない。
唯一無二の存在を、文弥は無くしたくは無かった。
多分、自分が生きていられる時間はそう長くは無いと文弥は知っていた。
だからこそ、その短い間だけでも、あの温かい腕を掴んでいられたらと思う。
縋っていられたらと思う。
煙るような雨の中で、黒い傘が揺れた。
母屋を回って、足早に飛び石を渡って来る。
文弥は飛び起きると、そのまま離れの玄関へと急いだ。
下駄を引っ掛けて、急いで引き戸を開ける。
そこには、傘を畳んだ兄が、コートの肩から雨の雫を払っていた。
「兄様…っ」
飛びつこうとすると、文彦は慌てて文弥を玄関の中へ入れた。
「こら…、そんな格好で…」
暖かい部屋の中に居たので、文弥は薄着だった。とても、冷たい雨の降る早春の表へ出られるような服装ではない。
「中に入るんだ。早く」
それで無くとも酷い喘息の持病を持つ文弥だった。風邪でも引いたら、それこそ死ぬような苦しみを味わわなければならない。
急き立てるようにして文弥を中へ入れると、文彦もコートを脱いで離れの部屋の中へ入って行った。
「こんなに濡れて…。無理なさらなくても良かったのに……」
本当は来てくれたことが嬉しくて泣き出したいほどだったが、文弥はそう言って兄の濡れた服や髪をタオルで拭った。
その言葉には答えず、文彦は文弥の頬を両手で包んだ。
「また、熱を出したんだな?」
「……いいえ」
「嘘をつくな。…どうして知らせないんだ?」
瞳を見れば熱っぽい事はすぐに分かった。
頬を包んでいた手が首筋へと移動して、冷えた手が文弥の微熱を吸い取ろうとした。
「まだ熱が有る…」
「平気です。もう下がってます」
「文弥…。いつも言ってるだろう?具合が悪い時はちゃんと知らせるんだ」
「大丈夫です。いつものことだし…・・。それに、兄様はもうすぐ公判で忙しいから…」
「そんな事を、おまえが気にする必要は無い」
突き放したような冷たい言い方だった。
だが、その裏に自分に対する愛情が隠れている事を、もう、文弥はちゃんと知っていた。
2週間も顔を見なかった。
焦がれて、焦がれて、気も狂いそうだった。
その広い胸に顔を押し付け、文弥は兄の身体に腕を回した。
「もう、横になれ。無理をすると、また熱が上がる」
「嫌です…」
折角会えたのに、一時も無駄にしたくは無かった。公判が始まれば、きっとまた暫くは会えなくなるのだ。
「抱いて…、兄様…」
「駄目だ」
「いや…」
首を振って文弥がしがみ付くと、文彦はその身体を抱き上げた。
そのままベッドに運び、文弥を横たえさせる。
文弥は激しく首を振って兄の身体にしがみ付いた。
「平気…、もう熱なんか有りません。お願い、兄様…っ」
「文弥…」
押し付けられた兄の唇を、文弥は夢中で吸った。
まるで貪るように、そして祈るように…。
決して言ってはならない、
“愛しています”
という言葉を、そのすべてに込めるように……。
「今日は我慢するんだ。また明日、会いに来るから…」
「にいさ…・・」
嬉しくて涙が溢れそうになる。
だが、文弥はそれを堪えて首を振った。
「駄目です。お仕事が忙しいの、分かってますから。無理しないで…、本当に…」
「大丈夫だ。大体、一段落ついたからな」
「本当?」
「ああ…」
滅多に笑ってはくれない兄が、薄っすらと笑顔を見せて頷いてくれた。
それだけで嬉しくて、文弥はまた泣きたくなる。
だが、心の中を過ぎる不安が、彼を現実へと引き戻した。
「お見合い…したんですか…?」
「誰に聞いた?」
忽ち文彦の笑みが引っ込んだ。
眉間に気難しそうな皺が戻る。
「母から…」
「そうか……」
「資産家のお嬢さんだそうですね?」
「ああ……」
「決められるんですか……?」
声が震える。言葉尻は殆ど聞こえなかった。
「文弥……」
文彦の両手が、また文弥の真っ白な頬を包んだ。
「約束したな?」
文弥は頷いた。
その拍子に、堪えていた筈の涙がホロッと零れ落ちた。
「はい…。はい、兄様…」
頷く度に涙の粒が落ち、文弥の頬を濡らしていく。
それを兄の手がゆっくりと拭い取った。
神海の家の長男であり、弁護士という立派な肩書きを持つ文彦がいつまでも一人身で居る訳にはいかない。
いつか結婚しなければならないのは最初から分かっていたことだった。
それでもいいと文弥は言った。
一生日陰で構わないと約束した。
だから、何も口を挟む事など出来ない。
だが、辛くないといえば嘘になる。
家庭を持つことで、もう文彦の目が自分に向けられなくなったらと思うと怖くて堪らなかった。
「馬鹿な事を考えるな」
その内心を否定するように、文彦は言った。
「何があったって棄てたりしない。だから、余計な事は考えなくていい」
「はい……」
頷いて文弥はまた兄に縋りついた。
その背中を、まるで宥めるように兄の手が撫でていく。
「暖かくなったら、桜を見に行こう。子供の頃、親父が生きていた時に行ったのが最後だろう?」
「桜……」
そう言えば随分昔、父が生きていた頃、まだ兄も自分を可愛がってくれていた頃、1度だけ桜を見に3人で出掛けた。
父がスケッチをする傍らで、兄は桜の花びらを集めてきては文弥の掌に乗せてくれた。あんな風にして、また兄と一緒に桜を眺めることが出来るのだろうか。
そして、そんな春は、あと幾度残されているのだろうか……。
「嬉しい。……きっとですよ?約束して?兄様…」
「ああ、約束だ」
言いながら文彦の手が、また文弥の首筋で熱を確かめた。
「熱が上がってきてる。ほら、布団に入れ」
「いや…」
「今日は夜までいてやる。だから少し眠るんだ」
ぎゅっと手を掴むと、文彦は頷いて文弥の唇に唇を押し付けた。
そのまま、自分にしがみついた文弥を、布団の中へ入れてやった。
その時、文彦のコートのポケットで携帯電話が鳴った。
「あ…」
気が付いて唇を離し、文弥がそちらを見る。
だが、文彦は振り返ろうともせずに、また文弥の頬を両手で包んだ。
「兄様……」
鳴り続ける電話の音を気にする文弥に文彦は首を振った。
「いいんだ」
「……ごめんなさい」
自分の存在が兄の邪魔になっている事は分かっていた。
それでも離せない。
離す事は出来ない。
「謝るな。俺が決めたことだ」
「はい…」
兄の手が、文弥の額の上に乗り、ゆっくりと髪を掻き上げていく。
文弥はその感触を味わうようにして目を閉じた。
「もっと、自分の身体を大事にしろ…・」
兄の呟きが、暖かい息と共に文弥の頬を撫でた。
「長く、生きるんだぞ…」
「はい…」
涙混じりの消え入りそうな声と共に、文弥は小さく頷いた。