こぬか雨
どんな夢を見ていたのかまるで覚えていない。
ただ、魘されて目が覚めたのは確かだった。
フッと、目を開くと、薄暗い、そして陰気な自分の部屋だった。
暫くの間、見慣れた天井を眺め、そして文弥はまた目を閉じた。
ここ数日、具合が悪くて、掛かり付けの医師に往診してもらい点滴を続けていた。発作は治まったものの、まだ熱も下がり切らず、身体が重い。
軒から落ちる雨音に気付き、文弥は目を開けて首を廻らせた。
細かい雨が、霧のように降っていた。
窓を伝う無数の水筋を眺め、文弥はホッと息を吐いた。
4日ほど前から母が帰らない。
度々、そういうことはあったが、今度は何時もと違うと文弥は気付いていた。
母はふしだらと言う訳ではないが、男無しでは居られない女だった。何時でも恋をして、その為に生きている。
だから自分が、母にとってお荷物でしかないことを文弥はちゃんと知っていた。
今度こそ、母は帰って来ないだろう。
漠然とだが、そんな気がしていた。
そう。自分はとうとう棄てられたのだ。
だが、悲しいとは思わなかった。
棄てられて当然だと、文弥は思う。
20歳を過ぎても、働くことさえ出来ない。それどころか、年中医者を必要として金ばかり掛かる。そんな息子を、女であり続ける母が必要とする訳が無かった。
何度か、数日間戻らなかったこともある母だったから、家政婦はまだ気付いていないらしい。だが、もう数日もすれば、きっと不審に思って兄に知らせるだろう。
そうなれば、兄は必ず来てくれる。
それが嬉しい反面、心が痛む。
今度も、具合が悪くなって医者を呼ぶ羽目になっても、文弥は家政婦に頼んで兄に知らせることを止めてもらった。
知らせれば、どんなに時間が無くても、無理に作ってでも来てくれると知っているからだ。
秋になれば、兄は父親になる。
そうなったら、愛人の下を訪れることも憚られるようになるだろう。
それでなくても仕事が忙しく、時間の無い兄なのだ。僅かな余裕を、我が子の為に使いたいと思わない訳が無い。
余計なことを気にするなと兄は言った。
子供が出来ても、今まで通りだと…。
だが、それは許されないことだと文弥は思っていた。
自分の下へ来てくれる時間があるなら、兄には我が子と過ごして欲しいと思う。そうでなければ、嘘だと思うのだ。
だが、倫理として分かってはいても、感情はまた別だった。
棄てられるのが怖い。
母には棄てられても仕方ないと諦められても、兄に棄てられるのは怖くて堪らなかった。
兄の腕を離したくない。
縋っていたい。
間違っていると知っていても、縋り付いて離したくなかった。
だが、とうとう、その想いを棄て去らねばならない時が来たのだと、文弥は思っていた。
また、今年も夜桜を見に連れて行ってくれると兄は約束してくれた。
だが、約束を果たせぬままに、今年の桜は散ってしまった。
兄が悪いのではない。
自分が出掛けられるほどの体調ではなかったからだ。
幾ら兄が気を遣ってくれても、自分は応える事も出来ない。文弥はそれが辛かった。
億劫そうに重い身体を起こし、文弥はまた窓の外を見た。
「小糠雨…か……」
呟いて、文弥はその言葉に気付き、涙が込み上がってくるのを感じた。
小ぬか雨……
来ぬか雨……
どんなに諦めようともがいても、自分はこうして兄が来てくれるのを待っている。
待たずにはいられない。
その強欲さが、憎くて堪らなかった。
指を伸ばし、文弥はガラスを伝う水筋を辿った。
冷えたガラスより、更に自分の指は冷たかった。
血の通わぬ指先。
こんな身体で、何で兄を引き止められよう。
暖かい、ふくよかな胸が、いつでも兄を待っているのに。
母屋の玄関から、傘が一つ出てきた。
家政婦が文弥の夕食を此方へ運んでくれるのだ。
以前は住み込みだったが、今は文弥が頼んで通いにしてもらった。だから、夕食を作ると彼女は帰って行く。
そして、文弥独りきりが、この屋敷に残されるのだ。
母が帰らなければ、母屋に住む人は居なくなる。
こんな大きな屋敷を、文弥独りの為に残しておく必要も無かった。
兄に頼んで、何処か安いアパートでも借りて貰おうかとも思う。そうすれば、家政婦も必要無いだろう。
「文弥さん、お食事です」
家政婦が部屋に入って来て、テーブルの上に食事の載った盆を置いた。
「すぐに食べられますか?」
訊かれたが、文弥は首を振った。
「ありがとう。でも、まだいいです」
「そうですか、それじゃ、後で…」
そう言った家政婦を遮り、文弥はまた首を振った。
「後で自分で暖めますから、大山さんはもう帰って下さい。大丈夫ですから…」
「でも、まだお熱が…」
「ううん。もう大した事無いから、大丈夫です」
躊躇う家政婦に文弥がそう言うと、彼女はやっと頷いた。
「そうですか…。じゃあ、失礼させて頂きます。明日も、何時もの時間に参りますので」
「はい。お願いします」
文弥の返事を聞き、家政婦は離れを出て行った。
やがて、母屋の明かりが消えると、また彼女の傘が玄関から現れて門の方へ消えていった。
静かな夜が、また訪れようとしていた。
文弥独りきりの、静かな夜が……。
気付いたように、口元へ持って来ると、冷たい指先に息を吹きかけた。
部屋の中は十分に暖めてあるのに、手の指も足先も、氷のようだった。
体調がいいと、兄が抱いてくれることもある。
こんな冷たい指で触れられるのは、本当は嫌なのではないだろうか。
自分の身体で兄が満足していないことぐらい、文弥にだって分かっている。
男だと言うだけではない。
病気の所為で痩せ細り、骨ばかりの貧弱な身体だ。
それでも兄は、文弥が望めば抱いてくれるのだ。
何もかも、兄の情けに縋っている。
いつかきっと、こんな自分を兄は重荷に感じるだろう。
そしてその時は、もう目の前まで来ているのだと思う。
もう一度、息を吹きかけ、その指をまた窓へと伸ばした時、庭の終夜灯に照らされて黒い傘が近付いてくるのが見えた。
ハッとして、文弥は伸ばし掛けた指を引っ込めた。
兄の傘だった。
兄の黒い傘が、飛び石を渡って近付いて来る。
偶然なのだろうか。
家政婦は何も言っていなかったし、きっと兄は自分の意思で様子を見に来てくれたのだろう。
急いでベッドを降り、文弥は寝乱れた後を整えた。
今まで寝ていたことを知られたくない。具合が悪いのだと、気付かれたくなかった。
玄関の引き戸が開く音が聞こえ、文弥は急いでテーブルの前に腰を下ろした。
掛けてあった布巾を取り、箸を取る。そこへ、薄手のコートに雨の雫を光らせた兄が入って来た。
「兄様…。済みません、気付かなくて…」
言いながら立ち上がり、文弥は急いでタオルを取り出した。
「いいから、寝てろ」
タオルを受け取りながらそう言った兄に、文弥は笑いながら首を振った。
「いいえ。今日は調子がいいんです。もう、寝て無くても大丈夫ですから。ご飯だって今…」
だが、文弥の言葉を兄は端から信じてはいなかった。その手を掴むと、すぐにもう一方の手で文弥の首筋を包んだ。
「嘘をついても駄目だ。今まで寝ていたんだろう?熱だってまだこんなに…」
「い、いいえっ…」
逃れようとして、兄の手に文弥は絡め取られるようにして捕まえられた。
そして、その手が自分の身体を包むのを文弥は目を閉じて感じた。
「無理をするな。俺の前で虚勢を張る必要なんか無い」
兄の言葉に頷き、文弥は暫くの間、黙って身を任せていた。
「パジャマ…」
気付いてそう呟くと、クスッと笑った後で文弥は言った。
「着替える時間が無くて…」
すると文彦も笑って言った。
「そんなことは関係ない。おまえの顔を見れば、具合が悪いかどうか位すぐに分かる」
「兄様…」
「ほら、もうベッドへ戻れ」
言われて、文弥は首を振るとしがみ付くようにして兄の身体に腕を回した。
「嫌…、ほんの少しでいいから…。兄様…ッ」
だが、そんな文弥を兄は抱き上げた。
子供を扱うように軽々と抱き上げられ、文弥はもう抵抗するのを止めた。
ベッドに寝かされても首に回した腕を離さず文弥がじっと見上げると、兄はその濡れた瞳を見下ろした。
「文弥…」
労わるように名を呼ばれ、文弥はゆっくりと腕を離すと、目を閉じた。
「ごめんなさい…」
困らせていると分かっている。
兄は自分の身体のことを誰よりも案じてくれているのだ。だから、決して無理はさせない。
そして、こうして忙しい時間を割いて会いに来てくれるのだ。
コートと上着を脱いでハンガーに掛けると、文彦はネクタイを緩めて文弥の枕元へ座った。
「そのまま寝ていろ。飯は俺が食わせてやる」
言われて、文弥は慌てて首を振った。
「いいえっ、そんな…。ご飯は後で自分で食べますから。それに…、余り食べたくないし…」
「そんなことを言って、少しは食べないと元気になれないぞ」
そう言うと、文彦はテーブルから粥の入った碗とスプーンを取った。
「ほら…」
粥を掬ったスプーンが文弥の口元へ運ばれた。
「済みません…」
小さくそう言うと、文弥は口を開いた。
まだ温かい粥がするりと口の中に入ってくる。
目を上げると、兄の温かい眼差しがあった。
「兄様…?」
「うん?」
差し出そうとしたスプーンを止めて、兄は応えた。
「ありがとう…」
その言葉を聞いて、兄は笑った。
「なんだ?大袈裟だな」
言われて、文弥も笑った。
だが、兄が思っているのと、文弥の“ありがとう”の意味は違ったのだ。
自分を受け入れてくれたこと。
そして、我侭を聞いてくれたこと。
こうして、まるで愛されているかのように感じさせてくれること。
例え、最後の日が間近に迫っていようとも、こうして2人で過ごせた日々が胸の中にある限り、自分は幸せだと感じていられるのだ。
兄の優しさも温もりも、忘れずにいられるのだと文弥は思った。
「だって、まさか兄様に食べさせてもらえるなんて…」
笑みを浮かべたままで文弥が言うと、何故か眉を曇らせ文彦は持っていた碗とスプーンを置いた。
「文弥…。何を考えている…?」
「え…?」
何故、こんな顔をするのだろうと文弥が不思議に思っていると、兄の手がそっと目尻から涙を掬っていった。
泣いていることに気づかなかった。
ちゃんと笑ったつもりでいたのに、きっとその笑顔は兄には歪んで見えたのだろう。
「文弥…」
呼びながら文彦の顔が近付き、文弥の額に自分の額を押し付けた。
「また、何か余計なことを考えてるのか…?」
「いいえっ…」
言いながら腕を伸ばし、文弥は兄の身体を抱き寄せた。
「嬉しいだけです。それだけです…っ」
兄の腕がベッドから掬い上げるようにして文弥の身体を抱いた。
「何度も言っている。おまえは何も心配する必要なんか無い。おまえのことは、俺がちゃんと…」
「分かってます。信じてます…。兄様……」
勿論、兄を信じている。
だが、文弥は子供ではない。信じているからと言ってどうにもならないこともある。
それを知らない訳ではないのだ。
「文弥…」
ギュッと、自分を抱きしめてくれる兄の腕の感触を文弥は忘れまいと思った。
「兄様…、来年こそは、夜桜を見に連れて行って下さい…」
文弥の言葉を聞き、文彦は抱きしめる腕を緩めて弟の顔を見下ろした。
「ああ、そうだな。きっと行こう…。今度こそ、満開の桜を見よう…」
「はい。約束…」
文弥が笑いながら出した小指に、文彦も笑いながら自分の小指を絡めた。
子供のように指切りをして、2人は笑い合った。
本当に、来年は兄と2人で桜を見に行きたいと文弥は思った。
だが、きっと、満開の桜の下、兄の傍に居るのは自分ではないだろう。
兄の傍には美しい義姉が。
そして、その腕の中には愛くるしい幼子の姿があるに違いない。
それでいいのだ。
そんな幸せが、兄には似合う。
「文弥…」
名前を呼んだ後で、兄の唇が文弥の額に降りた。
そして、2度目には唇に…。
「きっと行こう。きっと連れて行くから…」
「はい…。兄様…、きっと…」
そう答えながら、今度こそちゃんと笑えているといいと文弥は願っていた。
まだ、外には霧のような雨が降っていた。
冷たい冬の雨ではない。
暖かな、春の雨だった。
そして、文弥の心にもそんな雨が降っているようだった。