夜に散る
もう、日が暮れようとしていたが、文弥は母屋の玄関に座ったまま動こうとはしなかった。
目の前には、立派な重箱を包んだ縮緬の風呂敷が置いてあった。
桜色のその包みを、文弥はぼんやりと眺めたまま、もうこうして何時間も座っている。
昼前、本家の使いの者がやってきて、これを置いて行った。
文弥は笑みを見せてそれを受取り、丁寧に礼を言ったが、その虚勢も、その人が玄関から姿を消すまでの間の事だった。
また、自分独りきりになったこの屋敷で、文弥は怖いような無人の空気に押し潰されそうになっていた。
そっと、手を伸ばして、その縮緬の肌に触れる。
それは、約束した通りに兄が連れて行ってくれた、あの時の桜の色と良く似ていた。
「兄様……」
シンと静まり返った空気を破るようにして、文弥の唇からその言葉が零れた。
足掻いても、足掻いても、逃れられない事もある。
そんな事は充分に分かっていながら、それでも諦め切れない自分が、文弥は悲しかった。
何も、期待などしていない筈だった。
この日が来る事も、とっくに分かっていた筈だった。
そして、自分は、その事実をちゃんと受け止めているのだと、さっきまでそう思い込んでいたのだ。
だが……。
「なんでかな……?どうせ、長く生きられないくせに……」
何故、この日が来る前に、寿命が尽きてしまわなかったのだろうか。
そうすれば、あの兄の腕の中で看取ってもらえたかも知れないのに。
桜を見に行こう。
そう誘ってくれた兄だったが、結局、仕事が重なり思うような時間が取れぬまま、桜の季節も終わろうとしていた。
文弥は、勿論、兄を責めたりしなかった。
始めから、いつも何処か諦めている。そうでなければ、叶わなかった時が余りに辛いからだ。
だが、その夜、離れの自室に戻った文弥の元へ、文彦はやって来た。
「調子はどうだ?熱は?」
訊かれて文弥は首を振った。
今日は嘘ではなく、体の調子が良かったのだ。
文弥の首筋を両手で包んで、いつものように熱を確かめると、文彦は僅かに笑みを見せて頷いた。
そして、文弥に出かける仕度をするように言った。
「約束していただろう?今から、桜を見に行こう」
「今から……?」
驚いて文弥が聞き返すと、文彦は頷いた。
「夜桜だが、いい場所がある。今日を逃すと散ってしまう」
文弥に冬の仕度をさせ、文彦は彼を外へ連れ出した。
そこは神社の庭だったが、数本の大きな桜の木が植わっていた。
隠れた名所になっているのか、文弥達の他にも、数人の人影が見える。木の下にはライトが取り付けられていて、暗い庭の中で桜が幻想的に浮かび上がっている。
重そうに枝を垂れ、所々、手を伸ばせば届く場所さえあった。
もう盛りを過ぎ、僅かな風にも吹雪のように散る様は、何とも言えず美しかった。
「綺麗……」
うっとりと呟き、文弥は桜の吹雪の下で両手を伸ばした。
暗い空に、白く浮かび上がった花。
ひらひらと無数に舞い、音も立てずに文弥の上に花びらは降りそそいだ。
こんな風に、散れたらいい。
文弥は自分の掌に落ちた花びらを見てそう思った。
「何を考えている…?」
後ろから、文彦の険しい声が聞こえ、文弥は振り返った。
「桜に、自分の姿など映すな」
文弥が何を考えていたのか、その後ろ姿を見ただけで敏感に察したのだろう。文彦は苦々しげにそう言った。
「そんな…」
誤魔化す為に文弥は笑った。
「ただ、綺麗だって、そう……」
言いかけた文弥の身体を、文彦は後ろから抱き寄せた。
「もう、帰ろう。……冷えると、良くない」
帰ろうと言った理由は、多分別にあるのだろう。だが、それを口にする事は出来なかったのだ。
文弥は兄の言葉にただ頷いた。
机の抽斗から、その栞を取り出し、文弥は目の前に翳した。
あの時の桜の花びらをポケットに入れて持ち帰り、和紙に貼って栞を作った。
些か茶色く変色し、あの時の美しさは、もう見えない。
だが、文弥はあの時の桜を忘れたくなかったのだ。
もう、2度と、兄と一緒に見る事は無いかも知れない。
だからこそ、こうして手元に置きたかった。
窓の外を見ると、雨に変わっていた。
それは、自分の涙雨かも知れないと文弥は思った。
折角の婚礼が雨になってしまった。
本当に自分は、兄にとって厄介物でしか無いらしい。
本家の気遣いで届けてくれた祝いの料理も、口にする事も出来なかった。
風呂敷を開いて中を見る事さえ、文弥には辛過ぎた。
今日を境に、兄の足は自分から遠のいていくのだろう。
ひっそりと、ただ独り、また長い時を過ごさなければならないのだ。
もう、兄を待つことも許されずに…。
「何故、死なないんだろう……?」
呟いて、文弥は栞を唇に当てた。
あの桜のように、夜の闇の中に散ってしまえたらいい。
そんな潔さが、何故自分には無いのだろうか。
兄への未練を、何故断ち切ることが出来ないのだろうか。
目を閉じると、後ろから抱きしめてくれた兄の腕を思い出した。
ずっと、ずっと縋ってきたあの腕は、もう自分の届かない所へ行ってしまった。
今夜からはもう、自分ではなく、妻になった人を抱きしめる腕だった。
ホッと息を吐き、文弥は机の上に頬を乗せた。
思い出だけで生きるには、自分は弱過ぎるのかも知れない。
目の前にもう一度栞を翳し、文弥は涙で滲むその花びらを見つめた。
雨の音に混じって、敷石を渡る水を弾くような靴音が聞こえたような気がした。
母が帰って来るには随分と早い時間だ。
顔を上げて、文弥は窓の外に目をやった。すると、玄関で、硝子戸を叩く音が聞こえてきた。
ハッとして立ち上がり、文弥は転げるようにして玄関へ向かった。
まさか…。
まさか、そんな筈は無い。
だが、一縷の望みが文弥の身体を震わせていた。
その影を見た時、文弥は裸足のまま、玄関の三和土へ降り立った。
夢中で鍵を開け、硝子戸を開けると、そこには兄の姿があった。
「兄さ……」
抱きついた文弥を文彦はしっかりと腕に抱いた。
「良かった……」
小さくそう呟くのが、文弥の耳に届いた。
「おまえが、馬鹿なことを考えるのじゃ無いかと心配になって……」
「兄様……」
顔を上げた文弥に、文彦は安堵の笑みを見せた。
「明日の朝、飛行機に乗るんだが、どうしても今夜の内におまえの顔を見なければ安心出来なかった」
また、兄に余計な心配をかけてしまった。
今夜が新郎新婦にとってどんなに大事な夜か、文弥だって知らない訳では無い。
「ごめんなさい…、兄様…。ごめんなさい……」
「馬鹿…。何故、謝る…?」
泣き出した文弥を文彦の腕が強く抱きしめた。
その謝罪は、兄に気を遣わせてしまった事だけではなかった。
兄を、1人の男として、唯一の存在として、決めてしまった自分の心を、文弥は申し訳なく思っていたのだ。
分かっていながら諦めようとしない強情さを、情けなく思っていたのだ。
「足が冷えるぞ」
文弥の足元に気付き、文彦はそう言うなり華奢な弟を腕に抱き上げた。
「あ…、歩けます…」
「いいから、掴まってろ」
そのまま靴を脱ぎ、文彦は文弥をベッドまで運んだ。
ベッドに腰掛けさせると、湯で絞ったタオルで文弥の足の汚れを丁寧に拭う。文弥は涙を浮かべたまま、黙ってされるままにその手元を見ていた。
「まだ冷たい…」
それでなくても、病気の所為かいつでも手足の冷たい弟だった。
綺麗になった足を、その爪先を包むようにして文彦は手の中に入れた。
「兄様…」
「うん…?」
「もう…、お戻りにならない…と……」
震えて、最後は言葉にならなかった。
目を瞑ると、膝の上に涙が落ちて染みを作った。
「明日の朝、早くに戻る。……今夜はおまえの傍に居る」
「にいさ……」
もう、何も言えなかった。
その兄の言葉が嬉し過ぎて、文弥は黙って彼の首にしがみ付くと声を押し殺して泣いた。
文彦の手が、ゆっくりとその震える背中を撫でた。
「約束しただろう?…何があっても、棄てたりしない。だから、馬鹿な事は考えるな…」
ただ頷き、文弥は泣き続けた。
「おまえは、1日でも長く生きる事だけ考えていればいい。俺は……、おまえが死ぬまで、離したりしない。……ちゃんと、会いに来るから」
机の上に、さっき文弥が眺めていた桜の栞を見つけ、文彦はそれを手に取った。
「来年も、再来年も、一緒に桜を見よう」
その言葉に、文弥はやっと顔を上げた。
兄の手に、桜の栞が載せられていた。
「思い出になんか、しなくてもいい…」
文弥が何を考えていたのか、文彦はすべて知っていたらしい。
だからこそ、こうしてここへ来てくれたのだ。
今夜でなければ駄目だと、それを知っていたのだ。
文弥にとって1番辛いこの夜を選び、傍にいてくれようとしているのだ。
もう1度、兄の身体にしがみ付くと文弥は言った。
「幸せです……。兄様ッ…」
その言葉にただ頷き、文彦は弟の細い身体を抱きしめた。
来年も、再来年も……。
生きている限り。