花曇り


夢を見た。

それは、幼い頃から幾度となく見続けている夢。
兄はまだ、あの時、高校生だった。
初めて父に花見に連れて行ってもらい、それでなくても興奮していた。
自分の身体の事などすっかり忘れ、桜の舞散る中、そのひらひらと落ちる花びらを追った。 舞落ちてくる花びらを下から眺めていると、まるで夢のようだった。
どうしてもそれを手の中に落としたくて、夢中になり過ぎて発作を起こしてしまった。
吸入をして落ち着いたが、もう走ってはいけないと言われ、スケッチをする父の背中に凭れてぼんやりと曇り空を眺めていた。
ほんの少しでも走ると、いつでもこうなってしまう。
それが悲しくて、文弥は今にも泣きそうだった。
そんな文弥の掌の上に、兄がハンカチの包みを載せた。
驚いて見上げると、笑う兄の顔があった。
「俺が集めてやるから、もう走るな」
そう言われて包みを開けると、その中には沢山の花びらが入っていた。
幼い頃の、たった一度だけの兄と父との思い出。
それを、文弥は夢に見続けている。


思えば、あの時から、自分は兄が好きだったのだと思う。
目を開けて首を巡らすと、そこには本を膝の上に乗せた兄の姿があった。
「兄様…」
掠れた声で呼び掛けると、文彦はすぐに本を閉じて此方を見てくれた。
「目が覚めたのか…?」
本をテーブルの上に置き、文彦はベッドの傍へ来た。
そして、すぐに手を文弥の額の上に乗せた。
「まだ、熱が高いな…」
眉を寄せてそう言うと、今度は両手で、熱で火照った文弥の首筋を包んだ。
「いつ、いらしたんです?」
気付かなかった事を恥じ、文弥はすぐに起き上がろうとした。
「1時間ぐらい前だ。いいから、寝ていろ」
兄の言葉に、文弥は首を振った。
それでなくても、中々ゆっくりと会えないのに、2人の時間を少しでも無駄にしたくはない。
「もう平気…。起きます」
「平気なものか。氷を取り替えてやるから、横になれ」
「嫌です…。折角…、折角、兄様が来て下さったのに、寝てるなんて嫌…」
「文弥…」
その瞳に涙が光っているのを見て、文彦は文弥を押さえようとしていた腕の力を抜いた。
「この前も、その前も…、ベッドの中からお顔を見るだけだった…。情けないです」
この所、季節の変わり目の所為か元々病弱な文弥の身体は余り調子のいい日が無かった。文彦も、それを分かっているからこそ、忙しい時間を割いてこうして頻繁に顔を見せてくれるのだ。
その気持ちが分かるからこそ、文弥は不甲斐ない自分が情け無くて堪らなかった。
「今日は少し肌寒いぞ。暖かくした方がいい」
優しくそう言って弟の涙を拭ってやると、文彦はクローゼットから厚手のガウンと靴下を取って来た。それを文弥に着せ、起き上がるのを助けるとソファへ座らせた。
確かに今日は曇っていて、昼を過ぎても余り気温が上がらなかった。
だが、文弥にはそんな事を気にしている余裕も無かった。
兄が居る間、少しでも兄の為に何かをしたい。いつでも、文弥はそう思っていた。
「今、お茶を淹れますから…」
立ち上がろうとした文弥を押さえ、文彦は首を振った。
「茶なら、さっき大山が運んで来た。いいから座っていろ」
「でも…」
そう言われて横目でテーブルの上の茶器を見たが、文弥はまだ腰を浮かせたままだった。
「おまえこそ、何か飲みたいんじゃないのか?熱の所為で、喉が渇いただろう?」
「い、いえ…、僕は平気です」
「冷蔵庫に、オレンジジュースが入ってる。今、取ってやるから飲め」
「あ…、自分でします」
だが、そう言った文弥を押さえ、文彦は身軽に立ち上がると部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開けた。
こうして来てもらっても、自分には文彦の世話をすることも出来ない。それどころか、面倒を掛けるばかりだった。
それを思うと、文弥は胸を痛めずにはいられなかった。
「兄様…、もう、…本家へお戻りください…」
身を裂かれるような思いで、文弥はそう口にした。
「え…?」
ジュースのパックを持ったまま、文彦は立ち止まった。
「義姉様は…、笙子(しょうこ)さんは今、大変な時でしょう?少しでも、お傍にいて差し上げないと…」
気丈に笑って見せたいと願った。
だが、脆過ぎる自分には難し過ぎることだった。
震える声が、本心を暴露してしまう。
文弥は、膝の上でぎゅっと自分の拳を握った。
その目の前に、コップに注がれたオレンジジュースが、コトリ、と置かれた。
「笙子は丈夫な女だ。悪阻(つわり)も殆ど無いと言って、食欲も変わらない。おまえが心配しなくてもいい」
穏やかな声でそう言うと、文彦は文弥の隣に腰を下ろした。
春の訪れと共に、神海の家にもうひとつの春の知らせが届いたのは、母から聞いて文弥も知っていた。
それを聞いて、文弥の身体に恐怖が駆け抜けたが、勿論、覚悟していなかった訳ではない。それでも、我が子の誕生と共に、兄が自分の存在など忘れ去ってしまうのではないかと心配せずにはいられなかったのだ。
「ど…ちらでしょうね?女の子なら、義姉様に似たら美人になるでしょう。…男の子なら、兄様に似るといい…。きっと、立派な…」
そこまでだった。
ぎゅっと抱き締められて、文弥は目を瞑ると嗚咽を噛み殺した。
「もう、よせ…」
髪を撫でてくれる兄の手が切なかった。
その温かさが、堪らなく切なく感じた。
「おまえは、要らない心配ばかりしている。そんなことより、早く元気になれ。今年もまた、一緒に桜を見に行くんだろう?」
「兄様…」
その優しさに文弥が声を詰まらせると、文彦は彼の身体を胸から離した。
「そうだ。土産があった…」
笑いながらそう言うと、文彦は立ち上がって鴨居に掛けてあった自分のコートのポケットに手を入れた。
そして、怪訝そうに見上げる文弥の掌にハンカチの包みを載せた。
「なんです…?」
「開けてみろ」
あの夢の続きを、文弥は見たように思った。
包みの中には、あの時のように、沢山の薄桃色の花びらが詰まっていた。
「兄様…」
「来る途中の小学校の桜が散り始めていて、そこで集めてきた。この調子じゃ、おまえと見に行く頃は、もう葉桜になっているかも知れないからな」
見ると、兄はあの時と同じように笑っていた。
その笑顔に恋焦がれ、長い時を過ごしてきた自分に、今、兄は惜しげもなく笑顔を向けてくれる。
その幸せが、後どれほど与えられるのか文弥には分からなかった。
「ずっと、このままだといいのに…」
桜の花びらを手で摘み、そっと文弥は言った。
桜も、枯れずにこのままの色を保つ事は出来ない。
この美しさのままで、いつまでも置いておく事は出来ないのだ。
「この花びらが枯れる前に元気になれよ?全部散ってしまう前に、見に行こう」
兄の言葉に頷くと、文弥は顔を上げて笑みを見せた。
「また、夜桜がいいです」
「そうか…。そうだな、またあそこへ夜桜を見に行こう」
「はい…」
窓の外に視線を移し、文弥は雲に覆われた空を見た。
薄鼠色の空は今の自分の醜い心を映しているようだと文弥は思った。
「花曇り…だな…」
兄もまた、その空を見て、ポツリと呟いた。
「俺は、曇りの日も嫌いじゃない…」
それを、どういう意味で言ったのか文弥には分からなかった。
だが、兄が自分の気持ちを思い遣ってくれたように思えてならなかった。
「はい…、僕も…」
そっと呟き、文弥は兄の肩に頭を凭せ掛けると目を瞑った。